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第006話(705年)静かな年

慶雲二年の春。藤原京は穏やかな日差しに包まれていた。

颯は二十二歳になり、書記としての仕事にもようやく慣れ始めていた。去年の秋に唐から帰国した遣唐使の報告書の整理が、まだ続いていた。大量の文書を一つずつ読み、必要なものを選び、清書していく。地道で果てしない仕事である。


 兆が隣の机で筆を動かしながら、軽口を叩いた。

「颯、今日もよく働くな。そろそろ息抜きをしたらどうだ」

「息抜きの暇があれば、書類が一つでも片付きます」

「真面目すぎる。若いうちから根を詰めると、年を取ってから体が持たぬぞ」

 颯は苦笑いして、筆を止めなかった。兆の言うことは分かる。だが、仕事を溜めるのが何よりも落ち着かない。それが颯の性分であった。


 篠が書類を抱えて入ってきた。

「颯、これを頼む。遣唐使の帰国報告のうち、唐の法制に関する部分だ」

「ありがとう。すぐに手をつける」

 颯は新しい書類を受け取り、ざっと目を通した。唐の律令の運用について、細かい記述が並んでいる。大宝律令を施行してから四年。唐の法を参考にしつつも、日本なりに少しずつ手直しをする必要があった。そのための基礎資料である。


 颯は唐の文書を読み進めながら、自分が分かるところと分からぬところに、薄い印をつけていった。分からぬところは、後で兆や篠に尋ねる。書記の仕事は、分からぬことを溜め込まぬことが肝心である。分からぬまま書き写せば、それは誤った形で後に残る。一字の重みを、颯は最近ようやく腹で理解し始めていた。


 窓の外では、藤原京の春の柳が、淡い緑を揺らしていた。書記部屋の墨の匂いに、外の若葉の匂いがほんのわずかに混じる。颯はその混じり方が好きだった。室内の仕事と、外の季節とが、紙一枚を隔ててつながっている。書く者は、その境にいる人間なのだと颯は思う。


 昼過ぎ、篠が再び書記部屋に顔を出した。

「颯。さっき渡した唐の文書、難しいところはなかったか」

「いくつかあります。後でまとめて伺います」

「焦らずでよい。唐の律令は、こちらの律令と語の使い方が微妙に違う。同じ字でも、向こうとこちらで含みが変わる。その違いを、おまえたち若い書記が見極められるようになれば、日本の律令はもう一段深まる」

 篠の声には、長く律令と向き合ってきた者の落ち着きがあった。颯はその言葉を、心に刻んだ。


*  *  *


 夕方、颯が家に帰ると、父が珍しく早く帰ってきていた。父は下級官吏として律令関連の仕事をしており、普段は颯よりも遅くに帰宅する。


「早かったですね」

「ああ。今日は珍しく仕事が切れた。たまにはこういう日もある」

 父は縁側に座り、夕日を見ていた。颯も隣に腰を下ろした。

「颯。仕事はどうだ」

「慣れてきました。ですが、まだ学ぶことばかりです」

「それでよい。書記の仕事は、一生学び続けるものだ」

 父はしばらく黙ってから、ゆっくり続けた。

「今年は、大きな出来事がない年だろう。だが、こういう年こそ大事だ。騒がしい時には誰でも働く。静かな時に、黙って手を動かす者こそ、本物の書記になる」


 颯は父の言葉を胸に刻んだ。父はいつも、こうして何気ない言葉で大事なことを伝えてくる。

「父上も、静かな年を多くお過ごしでしたか」

「何年もな。だが、その静かな年の積み重ねで、今の大宝律令が完成した。派手な年ばかりが歴史ではない」

 父は夕日に目を戻した。その横顔には、律令に捧げてきた長い歳月の重みが、静かに刻まれていた。


 颯は父の横顔を見ながら、自分が父の年齢になった時、同じように静かな夕日を眺められるだろうかと考えた。父の沈黙は重かった。だが、その重さは威圧ではなく、長く一つのことに向き合ってきた者だけが持つ落ち着きだった。颯は自分がその境地にまだ遠いことを知っていた。


「父上。今でも、書きながら迷うことがありますか」

 颯は思い切って尋ねた。父は夕日から目を離さず、低く答えた。

「迷わぬ日はない。律令の文は、毎年少しずつ意味の重さが変わる。同じ条文でも、年によって読み方が変わる。書く側もまた、毎年読み直す」

 颯は深く頷いた。書く者は、書いたものに永遠に縛られるのではなく、毎年その文と新しく向き合っていく。それが書記の生き方なのだ。


 夕日が縁側の板を赤く染めていた。同じ条文でも、年によって読み方が変わる。書記の仕事は、書いて終わりではなく、書いた後も生き続ける。書いた紙が、毎年新しい意味で読み返される。それを書く者として受け止める覚悟が、これからの自分には必要なのだ。父はそう伝えたかったのだろう。颯は静かに頷いた。


*  *  *


 数日後、颯は東市の咲耶の薬屋を訪ねた。咲耶は店先で、新しい薬草の仕分けをしていた。祖父の鹿皇は去年の冬から体調を崩しており、咲耶はすでに一人で店を切り盛りしている。


「新しい薬草か」

「うん。南の方から届いたの。祖父が元気な頃から注文していた薬草で、やっと手に入った」

 咲耶は小さな袋を開け、颯に見せた。見たことのない色の根が、並んでいる。

「これは何に効くのだ」

「女の人の体の冷えに効く。祖父が大事に取っておいた処方を、試してみようと思っている」


 颯は咲耶の手の中の薬草を見た。薬草一つひとつに、咲耶の祖父から受け継いだ知恵が宿っている。咲耶の仕事もまた、父が颯に言った「静かな年の積み重ね」と同じだった。派手ではないが、確かに人を助ける仕事である。


「咲耶、一人で店を回すのは大変だろう」

「大変だけれど、慣れてきた。祖父がよく、薬は人の命を預かる仕事だと言っていた。一人で背負う重さを、今やっと感じ始めているところ」

「一人じゃない。自分もいる」

 咲耶は颯を見て、静かに微笑んだ。

「そうだね。ありがとう」


 夕日が東市を赤く染めていた。颯と咲耶は、その光の中で、しばらく黙って立っていた。言葉がなくても、通じるものがある。それを二人は、確かに感じていた。


 咲耶は袋の口を結び直し、棚に戻した。

「この薬草、最初に試すのは私の体。祖父がそう教えてくれた。客に出す前に、必ず自分で試す。それで分かることがたくさんある」

 颯は咲耶の薬の流儀に、書記の仕事との共通点を感じた。書記もまた、自分の字を一度自分で読み直してから清書する。書く前と書いた後、両方で確かめる。それが、人の手に渡るものを作る者の作法だった。


*  *  *


 初夏、書記部屋でちょっとした事件があった。若い書記の一人が、重要な文書の清書を書き損じてしまったのである。書き直しをする時間はなく、その書記は顔を真っ青にして、兆と颯に助けを求めてきた。


「どうしよう。今日中に出さないといけない文書なのに」

「見せてみろ」

 兆は書き損じを見て、眉をひそめた。颯もそれを覗き込んだ。確かに、重要な数字のところで字が曲がっている。このままでは出せない。

「颯、おまえならどう直す」

「時間があれば、全部書き直すのが一番です。ですが、今日中となれば、その一字だけを削って書き直すしかありません」

「それでよかろう。やってみろ」


 颯は慎重に墨を削り、新しい字を書き入れた。作業は息を止めるような集中を必要とした。周囲で見ていた若い書記たちも、じっと息を呑んでいた。


 やがて颯は筆を置いた。修正した字は、周囲の字と違和感なく溶け込んでいた。

「見事だ」と兆が頷いた。


 若い書記は深く頭を下げた。

「颯さん、ありがとうございます。助かりました」

「次からは、最初の一字を書く前に息を整えよ。慌てて書き始めるから、字が曲がるのだ」

 若い書記は真剣に頷いた。


 颯は兆に目をやった。兆は小さく頷き返した。教える者と教えられる者。その関係が、書記部屋の中で静かに循環している。颯は、自分が初めて教える側に立ったことに、少しの誇らしさを覚えた。


 だが、その誇らしさの裏には、わずかな寂しさもあった。教える側に立つということは、若くいられる時間が少し過ぎたということでもある。兆が初めて自分に教えてくれた日のことを、颯はふと思い出した。あの日の兆もまた、若い自分に何かを手渡しながら、同じ寂しさを感じていたのかもしれぬ。書記の手渡しには、いつも、その小さな寂しさが混じっている。


 翌日、若い書記が颯のところに来て、礼を言った。

「昨日教えていただいた呼吸の整え方、家でもやってみました。落ち着いて筆を持てるようになりました」

「呼吸は、字に出る。落ち着けば字も落ち着く。自分も、いまだに毎朝それを確かめてから書き始める」

 若い書記は神妙に頷いた。颯は、自分が兆や篠から受けてきたものを、こうして次に渡している実感を、はっきりと持った。


*  *  *


 秋、颯は咲耶と二人で、藤原京の南の丘に月を見に行った。中秋の月は、ちょうど満月であった。丘の上からは、藤原京の町が月に照らされて、淡い銀色に沈んで見えた。


「綺麗だね」と咲耶が言った。

「ああ。月はいつ見ても、変わらぬ」

「変わらないものが、あってよかったね」

 颯は咲耶の言葉の意味を考えた。変わらぬもの。空の月、山の形、川の流れ。人の命は短く、世は移り変わるが、自然だけは変わらない。その変わらなさが、人の心を支えている。


「咲耶。今年はどうだった」

「忙しかった。けれど、大きな騒ぎもなかった。静かな年だった」

「自分の父もそう言っていた。静かな年の積み重ねで、大きなものが出来上がる、と」

「良い言葉だね」

 二人は丘の上で、しばらく月を見続けた。藤原京の町からは、わずかに人々の笑い声や楽器の音が届いてくる。月見の夜を、都の人々もそれぞれ楽しんでいるのだろう。


 颯は帰り道で、咲耶にそっと言った。

「来年も、再来年も、こうして月を一緒に見られればいい」

 咲耶は颯を見て、頷いた。

「うん。そう願う」

 月の光が、二人の影を静かに伸ばしていた。


 帰り道、咲耶はぽつりと言った。

「変わらないものを見ていると、変わっていくものがよく見えるね」

 颯はその言葉に頷いた。月は変わらない。だから、自分たちが去年と少し違うことに気づける。変わらぬものは、変わる者を映す鏡なのだ。月見とは、月を見るだけの行為ではなく、月の中に自分を見る行為なのかもしれぬ。


 家に戻った颯は、灯をつけずにしばらく縁側に座った。月はまだ高く、屋根越しに白い顔を見せていた。咲耶の言葉が耳に残っていた。来年も、再来年も。その先までも、自分は咲耶と同じ月を見続けたい。それは、書記の仕事のように静かな約束だった。派手な誓いではなく、毎年繰り返されることで重みを増していく約束。颯は月を見上げ、長く息を吐いた。慶雲二年の秋の夜は、長く、柔らかかった。


*  *  *


 年の暮れ、颯は自分の記録を開いた。この記録帳は、去年、颯が自分の手で始めたものである。公文書には書けない、自分だけの言葉で時代を書き残す。それが颯の決めたことだった。


「慶雲二年。大きな出来事は少ない。だが、父が言った。静かな年こそ大事だ。騒がしい時には誰でも働く。静かな時に黙って手を動かす者こそ、本物の書記になる、と。この言葉を、生涯忘れずに持っていたい」


「咲耶は一人で薬屋を回し始めた。鹿皇翁の残した薬帳を、ひとつずつ自分の手の中で生き返らせている。薬は人の命を預かる仕事。一人で背負う重さを、咲耶も感じ始めている」


「書記部屋では、若い書記の指導をする機会が増えた。書き損じを直す技を教える側に、自分が立つようになった。兆から自分が教わり、それを次に伝える。手渡しというのは、こういうものか」


「秋、咲耶と月を見た。来年もこうして月を見られたらいい、と伝えた。口に出すのは難しかったが、出せば心が軽くなった。言葉にすることの大切さを、また一つ学んだ」


 颯は記録帳を閉じ、灯を見つめた。慶雲二年。静かな年。だが、その静けさの中で、確かに何かが育っていた。自分の中でも、咲耶の中でも、書記部屋の中でも。来年もまた、こうして年を越えていくのだろう。

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