第005話(704年)慶雲の空
年が明けて、藤原京には新しい風が吹いていた。
持統上皇の喪が終わり、宮中は少しずつ普段の日々を取り戻しつつあった。颯の仕事も、以前のように律令に関わる条文の写しや、各国からの報告の整理が中心に戻っている。
大宝四年の春。やがて元号が改められるという噂が、官人たちの間に流れはじめていた。上皇の崩御に伴い、新たな時代を表す名を付けることになるのだろう。
颯が書記部屋に入ると、兆がやけに楽しげな姿で筆を動かしていた。
「どうした、兆さん」
「いやな。差し出しで見た事もない文字だが、これがなかなか良い字でな」
見てみると、兆の手元には「慶雲」という文字がいくつも試し書きされていた。
「これは」
「新しい元号の案がいくつか上がっておる。先日、左大臣家から目録が回ってきてな。冒頭にこの『慶雲』が置かれていた」
「慶雲――慶びをもたらす雲、という意味ですか」
「そうだ。何でも西の国の古い書では、吉祥のしるしとされる雲だという。時代がむずかしかったからこそ、こういう明るい名に足らせられるのかもしれんな」
颯はその二文字を見つめながら、不思議な心持ちになった。一つの時代に名が付いた後に、人はその名の下で生き、偲い、やがて忘れていく。「大宝」の年号が始まったのは、ほんの三年前のことだ。それがもう終わるという。
颯は、父が以前話したことを思い出していた。律令とは天皇の名を越えて残るものだと。元号が変わっても、父たちが編纂した大宝律令は「大宝律令」の名で呼ばれ続けるだろう。それは、名が時代を越えて生き残るということだ。
「兆さん、新しい元号はいつ定まるのだろう」
「さあな。だが、そう遠くないはずだ。逢の先生方も他の案を持ち寄っておられるが、どうもこの『慶雲』が最も有力かと見える」
* * *
三月の初め、ある報が藤原京に届いた。
昨年の秋、難波を出て唐に渡った遣唐使の一行が、いよいよ唐土から帰ってくるため、海上の途についたらしいという。詳しい場所は分からないが、無事の報が届いたことに、官人たちは胸を撫で下ろした。
颯は帰りに咲耶の薬屋を訪ねた。昨年の冬から、いくらか仕事に関わりこんでいたため、会うのは久しぶりだった。
「お久しぶりです」
「ああ。祖父さんは」
「春になって、少し楽になりました。冬の間は、咳が離れませんでしたが」
咲耶の顔にも、少し明るさが戻ってきていた。桜の蕾がふくらみはじめた市場には、元の賑わいが少しずつ戻っているように見えた。
「遣唐使が帰ってくるそうだ」
「まあ、それはご無事に」
「祖父さんは、唐の地に行ったことがあるのか」
咲耶は首を横に振った。
「祖父が生まれたのは新羅、祖父の父は百済の血とも聞いております。だから唐には参っておりません。ですが唐の薬の話はよく聞きました。あの国の薬というのは、また祖父の教わったものとは別ですから、いつか見たいと思っております」
「そうか。遣唐使が帰ってくれば、新しい薬の書も持ち帰られるかもしれぬ」
「それは、楽しみです」
咲耶の目が輝いたように見えた。颯はその表情に、この一年ほどの間にすっかり見なくなっていたものを見た思いがした。
咲耶はそれから、手を休めて颯の方を見た。
「颯さんは、その律令の書き直しに携わるのでしょうか」
「いや、下っ端の書記はそこまで重い役には就かん。だが写しの手伝いはさせてもらえるかもしれない」
「唐の律令というのは、どんなものなのでしょう。祖父が国を出る前、稀に見たことがあると言っていました」
「詳しいことは分からぬ。ただ、我が国よりもずっと細かいところまで定められているとは聞く。祖父さんは唐の律令を見たことがあったというのか」
「見たことはないとされました。ただ、渡来の人たちが集まると、昔の故郷の話とともに、法の話も出たといいます。祖父はそれを耳で聞き覚えていたのだと思います」
* * *
五月、改元の詔が天下に下された。
大宝四年五月十日をもって、年号は「慶雲」と改められる。これまでは途切れがちで馴染みの薄かった元号だが、今度こそ正式に「慶雲元年」として記されることになった。
詔書を写す大仕事は、書記部屋全体を巻き込んで行われた。颯は、自分が写した書き物に初めて「慶雲元年」と記した時、小さな震えを感じた。
改元に伴い、天下に恩赦が下された。大宝律令の下で受罰の者たちのうち、軽微なものは赦され、税も一部免じられるという。市の中でもその知らせを聞いた者が喜びの声を上げたと、兆から聞いた。一つの名が変わるということは、そういうふうに天下に波紋を広げていくのだ。
それは、新しい時代の文字だった。
昔、長く「天武」「持統」「文武」という天皇の御代の名で呼ばれたこの国が、いま、時代の節目ごとに、名を付け変えていくという。それ自体が新しい仕組みだった。
父が、仕事の後で颯にこう語った。
「時代というのは、本来連続して流れるものだ。年の四季のように、切りめがない。だが人はそれを切り、名を付け、記録に残す。そうして初めて、後の者が前の者を辿ることができる」
「『慶雲元年』と記された条文は、後の世の人にどう読まれるのでしょうか」
「それはわからぬ。だが、読まれるように写さねばならぬ。そのために、みな丁寧に筆を運んでいるのだ」
颯は自分の筆の先を見つめた。一文字一文字が、何十年も、何百年も後の人に読まれるかもしれない。そう思うと、筆を持つ手が少し張り詰めるのを感じた。
* * *
慶雲元年の七月、遣唐使が無事帰朝したとの報が、ヤマトに届いた。
粟田真人をはじめとする正使の一行は、唐で歓待を受け、多くの書籍や物品を持ち帰ったという。その中には、今の唐帝国が盛んに編纂している律令の書や、最新の記録物も含まれているという。
兆がその報を聞きつけて来て、鼻息荒く颯に語りかけた。
「颯、職場の仕組みがもしかしたら大きく変わるかもしれんぞ」
「というと」
「唐の律令の書が持ち帰られれば、それを拠り所にして、我が国の律令も練り直されるだろう。大宝律令も、早くも見直しが入るやもしれん。写しの仕事も増えるに違いない」
「写したばかりの律令を、また書き直すのですか」
「そうだ。法というのは、一度定めたらそれで終わりではない。新しい知らせが入ってくるたびに、見直され、組み直される。そのたびに、我ら書記が筆を走らせねばならぬのだ」
颯は少し考えてから言った。
「兆さん、それでは律令はいつになれば落ち着くのですか。どこかで完成と言えぬとすれば、数十年も、数百年も、書記たちはずっと筆を持ち続けねばならぬことになります」
「それが我らの役だろう。疲れるか。たしかに疲れるだろうな。だが、それが律令を用いるということの意味なのだ。作られた瞬間から、それは木が生きるように絶えず、人の手で大切に育てられねばならぬ」
「それは、苦しいことにも思えます。せっかく完成したものが、また崩されてしまうのですから」
「いや、崩れるのではない。育つのだ。完成すればそこで止まるものではなく、終わりのないものだと思えば良い」
兆の言うことは、颯にとっても新しい考え方だった。律令は完成するものではなく、育て続けるものだ。そのためには、上の時代から下の時代へと、技が渡されていかねばならない。そう感じて、颯は自分の役割を改めて考えた。
夕暮れの藤原京を歩きながら、颯は空を見上げた。慶雲の空。吉兆をもたらす雲は見えなかったが、夕焼けに染まった空は美しかった。この空の下で、新しい時代が始まろうとしている。大宝の年が終わり、慶雲の年が始まる。だが、律令の文字は変わらない。時代の名が変わっても、法の言葉は生き続ける。それを書き残す者がいる限り。
颯は兆の言葉を心の中で何度も繰り返した。終わりのないもの。それは苦しくもあるが、同時に希望でもある。自分の仕事が、永遠に続く流れの一部であるということ。一人の書記が書いた一文字が、その流れに加わるということ。そう思えば、筆を持つ手にも力が宿る。
その数日後、颯は父に、書記として知りたいことを聞いた。丁寧に文字を写すだけでなく、法の成り立ちを知ること。古い法と新しい法のつなぎ目を見ること。父は頑なだった颯の小さな変化に気づいたらしく、一緒に文書を見るようになった。
* * *
夏の夕暮れ。颯は咲耶と共に、鹿皇の家の裏の草原に座っていた。
鹿皇は今日は具合が良く、久しぶりに外に出て、縁側からふたりを眺めている。咲耶がお茶を差し入れた。
颯は、自分の家にいるよりも、ここにいる方が心が休まるように感じることがあった。自家は父と颯の男二人暮らしで、父が仕事の持ち帰りの文書を並べていると、居間は文字の洪水になってしまう。だがここには、薬の香りと、鹿皇の時折の咳と、咲耶のしとやかな動作だけがあった。
「颯さん、ご自由に」
颯は碗を受け取り、空を見上げた。夏の雲がひとつ、横に長く伸びていた。白くて、まぶしいほど穏やかな大きな雲だった。
「慶雲というのは、こういう雲のことかもしれないな」
「どんな雲ですか」
「大きくて、白くて、見ていて何やら安心するような雲だよ」
咲耶はその雲を見上げて、少し微笑んだ。その目の底にも、何か静かな光が宿っていた。
「私はさっき、唐の薬の話を聞いて、祖父に許されない願いをしてしまいたいと思いました」
「というと」
「祖父は、祖父の知る薬を私に教えてくれます。ですが、もし唐の薬の中に、祖父の知らないものがあったら、私はそれも知りたいと思います。それは、祖父の教えを裏切ることになりませんか」
颯は少し考えてから答えた。
「兆さんはこう言っていた。法は完成するものではなく、育てるものだと。薬も、そういうものなのだろう。祖父さんは、自分が教えたものが裏切られたとは思わないはずだ。その上に何かが加わることを、喜ぶのではないか」
咲耶はおどろいたように颯を見た。それから、花がほころぶように笑った。
「そうですね。そう思えば良いのですね」
颯は空の雲を見上げたまま、もう一つ心に浮かんだことを口にした。
「咲耶さんは、この先も、祖父さんの薬を続けていくのか」
「はい。私が続けなければ、この地で祖父を看る者は他にいません。それに私は、薬を調べておる時が一番落ち着けます」
夕闇が静かに広がっていった。颯はそろそろ去らねばならないと思いながら、気がつけば咲耶を見ている。咲耶は薬箱を片づけながら、小さな薬草の束を一つ手折って颯に渡した。
「今日のご礼です。落ち着きます」
* * *
慶雲元年は、静かに暮れていった。
大きな事件はなかった。だが、角が削られるように、一つひとつと硬いものが柔らかいものへと変わっていくような、そんな日々だった。
颯は、仕事の後の帰り道、市場から立ち上る賑わいの声を聞きながら、一年前の冬を思い出していた。持統上皇の崩御の夜、父の涙。そのときは時代が終わったと感じた。だが今、こうして「慶雲」の名の下で歩いていると、時代は終わったのではなく、前へ繋がっていたことが分かる。
遣唐使の一行が持ち帰った唐の書、咲耶がまとめようとしている薬の教え、父が続けている律令の写し、そしてこの颯自身が毎日動かしている筆。それらすべてが、もはや持統上皇がこの世を去られた後の世界で行われていることだ。時代とはこうやって、声もなく次に引き継がれていくのかもしれないと颯は思った。
前へ繋ぐ者たちがいるからだ。父が、兆が、咲耶が、鹿皇が、そして颯自身が。彼ら一人一人が、時代と時代を繋ぐ細い糸のようなものなのだ。
環と環が一つでも欠ければ、時代の連なりはそこで壊れる。だが、環を繋ぎ続けることは難しいことではない。ただ日々の仕事を、人を、思いを、次へと渡すだけのことだ。天下は膨大だが、その基にあるのは意外に小さな手渡しなのだ。
夜、颯は小さな紙を取り出して、筆を浸した。
「慶雲元年夏。祖父の薬、咲耶の笑顔、父の背中、兆さんの言葉、空の慶雲。一つ一つを忘れぬように、ここに留めておく」
それが、颯の最初の私の記録だった。




