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第004話(703年)星の落ちる夜

重い空気が、藤原京を覆っていた。


大宝三年の秋から、宮中にはある噂が流れていた。持統上皇がご病気だという。いや、それはもはや噂ではなく、役所の誰もが知るところの事実だった。


書記部屋にもその空気は伝わってきていた。上から降りてくる文書に、以前のような活気がない。律令の細則を定める新たな命令は減り、代わりに実務に関わる細々とした作業ばかりが降りてくる。

篠がだいぶ以前に、颯に教えてくれたことがある。書記の仕事というのは、上のお方の心の色を映す鏡のようなものだと。順風な日には褒賞が厚くなり、難しい時期には細々としたものになる。今は明らかに後者だった。


兆がばそりと言った。

「ご病状は重いらしい。福を祭る文書が回ってきておる」

福を祭る――つまり、後事を整えつつあるということだ。颯の手元にも、神社への供え物の目録が回ってきていた。米、酉、絹、おみき――その一つ一つが、一人の命を繋いでくれないかという祈りである。

持統上皇という名を、颯は幼い頃から聞き続けてきた。壬申の乱を収めた天武天皇の皇后であり、夫の志を継いで律令国家の基礎を築いたお方だという。飛鳥清御原令を定め、藤原京への遷都を成し遂げ、そして孫の文武天皇への伝位を安定させた。

その方がいなければ、この律令はなかった。颯は改めてそう思った。父が命を懸けて写している律令の条文も、自分が深夜まで筆を走らせている書記の仕事も、すべてはあの方の決断が初めにある。


昼頃、颯は司に命じられて文書を右大臣家の官人に届けに行った。途中の回廊ですれ違う官人たちは、どの顔も陰っていた。美しく並ぶ街並み、整えられた石畳み、まだ新しい木の香りが残る庁舎――そのすべてが、一人の女性の意志が形になったものだという事実が、改めて重く感じられた。

書記部屋に戻る途中、颯は篠ともすれ違った。篠は声を潜めて言った。


「なあ、颯。聞いた話なのだが、ご病状はもう話されることもままならないらしい。食も減っており、医師も打つ手がないという」

「そうか」

「私は遠巻きの書記に遣ぐないよう顕しているのだ。何かがあったときに、そばにいないと安んじられぬ気がしてな」

篠の目には、奇姙な強さが宿っていた。普段は軽口を叩く男が、この時ばかりは真面目だった。


*  *  *


市場も、いつもとは違っていた。

商人たちは声を落として売りの口上をし、宴を楽しむ人々の姿も見えなくなった。公的な喪礼に備えて、都全体が恐怖を減らそうとしている。

咲耶の薬も、売りが落ちていた。普段なら夜明け前から並びはじめる先客の姿が見えない。日が高くなってからようやく、一人、二人と立ち寄る人があるだけだった。


「宴や祈祷のための薬を求める方がいなくなりました。縁起ものは控える時期ですから」

咲耶は選んだ薬草を丁寧に並べ直しながら、淡々とそう言った。颯は少し考えてから尋ねた。

「病人に届ける薬は、それでも必要だろう」

「はい。それはその通りで。だから今日もこうして開けております。ですが、薬を買いに来る人の足取りまで静かになっているように感じます」


空を見上げると、日が柔らかく照っていた。秋の深まり、何も変わらないかのような空の下で、ただ人の心だけが静まり返っている。


颯はふと言った。

「一人の方のご段が、これほど多くの人を黙らせるのだな」

「お上の方のことですか」

「ああ。持統上皇というお方だ。父が言うには、あの方がいらっしゃらなければ、律令の編纂も遷都も成し遂げられていなかったという」

咲耶は少し目を伏せて聞いていた。それから静かに言った。

「私ども渡来の者にとっても、あの方は大いなるご恩を持つお方です。持統上皇が藤原京を造らせたからこそ、この地で多くの渡来の民が暮らせるようになったのです」


*  *  *


その知らせは、冬の深い夜に届いた。

十一月の終わり――大宝三年十二月二十二日、持統上皇が崩御された。

颯は父と二人で聞いた。父は無言だった。見ると、その眼には涙が浮かんでいた。颯が父の涙を見たのは、大宝律令が施行されると知らされたあの夕以来、二度目だった。

昔なら父の涙を見ただけで驚いていたかもしれない。だが今は違う。父が泣く理由がわかる。その泣き方が、特別なものだということもわかる。


北の方から、鶏の声が遠く聞こえた。いつもなら時を告げるだけのその声が、この夜ばかりは別れを告げる声のように胸に響いた。颯は窓の外の暗闇を見つめながら、この重い役目を、一人ではなく父とともに担っていることに、奇妙なありがたさを覚えた。


「父上」

「あの方には、うまく言えぬが……寄り添っていただいておったのだ。私のような下っ端の官吏までも」

父の声は静かだったが、その下には深い悲しみがあった。


「昔、壬申の乱の後、この国は混乱にあった。豪族たちがそれぞれに力を振るい、人を苦しめ、法も義もない世が続いていた。それを改めようとしたのが天武天皇であり、その道を続けたのが持統上皇だった。律令という考えは、そのお二方の夢だったのだ」


颯はそう考えたことがなかった。律令とは、誰かが何気なく決めたものではない。混乱の世を見て話、二度とそこへ戻らないために、命を懸けて作り上げられたものなのだ。そしてその夢を、遠く離れた場所にいる一人の女性が、何十年も後まで色褥せずに持ち続けてきたのだ。


「父上は、あの方にお会いになったことがあるの」

「遠くから、度だけ。目を合わせることさえない。だが、その方が算文された条文のいくつかを、私は写させてもらった。それだけでも、私には十分なご縁だった」

父はしばらく黙ってから、ほつりとつぶやくように語り始めた。

「昔、父上に連れられて、飛鳥の旧広を見たことがある。あそこからこの藤原京まで、何と長い道のりだったことか。あの方の時代というのは、すなわちこの道のりそのものだったのだ」

「もう、あの方の時代は終わるのでしょうか」

「終わる。だが、あの方が設けられたものは残る。大宝の律令が残る。この京が残る。そして、それらを支える数千の官人たちが残る。私はその最も下端にすぎぬが、それでもその列の中に居ることは誇りに思う」

颯は父の背中を見ていた。燈火に照らされたその肩は、普段より少し下がっているように見えた。


*  *  *


その数日後、颯は咲耶の家を訪ねた。

宮中は喪に服し、役所は半ば閉ざされた状態だった。書記の仕事も急ぎのもの以外は止まり、颯には久しぶりにまとまった時間があった。

咲耶は薬を調合しているところだった。低い衣に腱を掛け、乾燥薬草を粉にしている。その手つきにも、もう迷いはないように見えた。

「お久しぶりです。さあ、どうぞ」

火鉢の炎が赤く燃えている。その周りに簡単な薬笥が並べられ、小さなおりのように整えられていた。以前訪れたときより、薬の種類は增えているように見えた。

いろりに激しながら、咲耶は粉を小さな瓶に移した。颯は土間に腰かけて、その手元を暖めていた。


「祖父さんは」

「二階で休んでおります。今日は具合がもう一つ良くないようで」

「上皇のことが、応えているのか」

「はい。年寄りの方には、こういう大きな出来事は心に込みます」

「祖父さんは、そのお方のことをどう思っていたのだろう」

「祖父がこの地に足を付けたのは、たしか天武天皇の御代の頃。持統上皇がまだ皇后でいらっしゃった時期です。祖父は以前、こう言っていました。あの方がおられる限り、渡来の民も安心して暮らせると」


咲耶の声は静かだった。颯は少し驚いた。持統上皇が、自分の知らないところで、色々な人たちの心の支えでもあったのかと。法とは、条文の上だけで人を守るのではない。その法を作った者がいるという事実そのものが、人を安心させるのだ。


咲耶は手を布で拭い、あらためて洗ってから、颯の向かいに座った。

騒動の後、咲耶の表情にはどこか大人びた穏やかさが宿っているように、颯には見えた。まだ一年半ほどのことなのに、咲耶はずいぶん変わった。無論、自分も同じはずだった。


「父が言っていた。持統上皇がいなければ、この律令はなかったと」

「それは、大いなることですね」

「ああ。私はずっと思っていたんだ。律令とは、何か永遠の、動かぬものだと。だが違う。これは一人の人間の思いから始まったものだ。その人が去ってしまえば、この制度は、残された者たちの手に委ねられる」


自分で口にしながら、颯はその重さを感じていた。律令とは、生き物のようなものだ。作った者の手を離れた瞬間から、それを持つ者たちの手によって育てられる。

そしてそれは、正しく育てられるとも限らない。人の手から手へと渡る瞬間に、それは曲げられたり、忘れられたりするかもしれない。だから、作った者の思いを知っている者が、それを次へ渡さねばならない。父が涙を流したのは、そういう遠い責を感じたからだったのかもしれないと、颯は思った。


「私の祖父の薬も、同じかもしれません」

「うん」

「祖父が海を渡り、この地で薬を売り続けてきた。その知恵は、祖父が去った後は私の手に委ねられる。そしていつの日か、私の次の代の誰かの手に。そうやって、人は自分の生を超えて何かを残すのですね」


家の奥から、鹿皇の咳の音が聞こえた。乾いた、痛ましい音だった。咲耶は一瞬耳を澄ませたが、何も言わずに視線を薬袋へ戻した。

「祖父の薬ですよ。竜骨の粉に、楊の皮と芍薬を合わせた。聞いたことのない配合でしょう」

「ああ。私には分からぬ」

「祖父は知っています。どの薬草が、どの程度の量で、何に効くのか。それは祖父が海を渡る前、さらにその父から伝えられた教えです」


咲耶は立ち上がり、湯を用意し始めた。颯はその後ろ姿を見ていた。細い肩が、しっかりと張っている。


*  *  *


「星が落ちた夜」と、後に人はその夜を呼んだ。


持統上皇の喪儀は、きわめて簡素に営まれた。故人の遺言によるものだったという。大きな古墳を築かず、夫である天武天皇と同じところに葬られることも、その願いであった。また、国の財は民のためにこそ用いるべきだとの言葉も残されていたと聞く。


それは、そのまま大宝律令の精神であるように、颯には思われた。民を本とし、法を先に置き、一人の欲に引かれて政を曲げぬこと。自らの葬や喪儀までも簡素にせよと遺したことに、颯はあの方の作り上げた世のかたちを見た気がした。


その話を兆から聞いたとき、颯はなぜか涙ぐみそうになった。会ったこともないお方だ。だが、その方の生き方が、知らぬうちに自分の日々を支えていたのだと、今になって知ったからである。

一つの時代が終わるということは、誰かが次の時代を担わねばならぬということだ。父も、兆も、篠も、そして颯も。咲耶もまた、いつの日か祖父の薬を一人で背負うことになるだろう。自分の生を越えて残るものを次へと渡してゆく、その小さな手渡しの積み重なりこそが、歴史なのかもしれなかった。


持統上皇の崩御を、民はしばらく哀しみ、弔うだろう。けれども、そのお方が残した律令は残る。そして、その法のもとに生まれてくる子らは、やがてあの方の名すら知らなくなるのかもしれない。だが、それでよいのだと颯は思った。法とは、作った者の名が忘れられてなお、人々の中で生き続けるものなのだろう。


その夜、颯は寝具に入る前に、窓から空を見上げた。

冬の星は、いつもより静かに光っているように見えた。

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