表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/20

第003話(702年)海を渡る者

遠くの国から風が吹いていた。


大宝二年の春、藤原京に一つの知らせが広まった。

遍唐使が派遣される。それも、三十年ぶりのことだった。


書記部屋にも、その噂は早くから伝わってきていた。兆が文書を写しながら突然言った。

「粟田真人殿が大使だそうだ。学問の深いお方だと討う」

「大宝律令の編纂にも携わったお方ですね」

篠が答える。颯は筆を止め、耳を鬲てた。粟田真人という名は、父の口から何度か聞いたことがある。律令を読み解くる人物の中でも、特に天才だという評判の男だった。


遍唐使――それは、この国が海を越えて唐の朝廷に正式に使者を送るということだ。

しかも今回は、新たな律令を整えたこの国が、唐に対して「独立した国家」として名乗りを上げる船出だという。何か大きなものが動き始めている気がした。


兆が筆を置いて、腰を伸ばした。

「遍唐使の負担は重いぞ。船を作り、米を集め、人を召し抱える。その一つ一つが地方に命令となって降りていく。以前なら、豪族が民を驅り集めるだけだった。だがこれからは違う。法の下で、文書を経て、全国から負担を集める。そのために我ら書記がいる」


兆の言葉には、誡りとも自負ともつかない、みずからの役割を見定める色があった。

大事業とは、壮大な計画の下に繊細な作業が無数に積み重なることだ。颯はその言葉を心に刻んだ。

颯の手元にある文書は、ちょうど地方に送る供出命令の写しだった。船に用いる木材、綻縄、帆布、食料――それぞれに数量と納期が記されている。その一行一行が、遍唐使という大事業を支える小さな部品なのだ。


*  *  *


書記部屋の中で、颯はずっと以前よりも真剣な表情で筆を走らせていた。

文字を誤ることは数を誤ることであり、数を誤れば船は迷う。筆の先が海に繋がっているという事実が、少年の背を伸ばさせていた。


市場で咲耶に会ったのは、その数日後のことだった。

祖父の具合はすっかり良くなったという。薬の調合にも復帰し、咲耶と二人で店を回している。

「遍唐使のこと、祖父はそれはそれは騒いでおります」

「咲耶の祖父さんは百済の出だったな」

「はい。若い頃に海を渡ってきたので、唐国へ船が出るという話を聞くと、昔を思い出すようです」

咲耶の声には、少しの畏れにも似たものが混じっていた。自分の祖父が、そんな大きなものと繋がっていたということへの畏れ。

颯はふと思いついて尋ねた。

「一度、祖父さんにお会いしたいんだ。お許し願えるか」

「祖父にですか。何のご用で」

「海を渡ってきた人の話を、聞いておきたい。遍唐使の文書を写していると、海の向こうが全く想像できないことに気づいたのだ。平凡な書記としての願いだ」

咲耶は少し考えてから、頭を下げた。

「祖父に話してみます。きっと喜んでお受けすると思います」


*  *  *


咲耶の家は藤原京の西端、低い土壁に囲まれた小さな家だった。

鹿皇と名乗る薬師の祖父は、深い皮しわを刻んだ顔に穏やかな笑みを浮かべて颯を迎えた。

部屋には細かく文字の書かれた簡が整然と並び、それぞれに薬の名と効能が整理されていた。颯はその書当てに、書記としての整頓さを感じずにはいられなかった。学問はどこにあっても学問である。文字という技、整理という技は、国境を越えて同じ形をしているのだと思った。


「先日は、孫娘が世話になった。ありがたいことじゃ」

その言葉遣いには、大陸語の名残が混じり素朴な音があった。咲耶が薬草の乾燥を整えながら、祖父の側に座った。

「遍唐使の話が田にも届く頃じゃな。なつかしい」

「昔、百済から海を渡られたときのことを、お聞かせ願えますか」

颯が頭を下げると、老人は少し目を細めて空を見上げた。

「若かったよ。二十かそこらでしたな。父が戦乱で亡くなり、学んだ医術を持って城を立ち出しました。船は小さく、激しい波の中、七日七夜、星あかりだけを道しるべにして漕ぎ続けたのでした」

老人の声は淡々としていたが、その眼には遠いものを見る色があった。

小さな土壁の部屋には、薬草の混じった茶色や黄色がものの匂いとなって漂っていた。老人は薬棚から一つの瓶を取り、その蓋を開けながら語り続けた。

「百済は当時、新羅に攻められておりました。私の村も焼かれました。父の持つていた薬の書物だけを抱えて、私は海へ逃げました」

「気丈な者だったのですね」

「気丈ではありません。この知恵を失えば、父の命が失われると思ったのです。人は死ぬが、知恵は続く。そのために、私は運び手として海を渡ったのです」

「この国に辿り着いて、私は生き延びた。医術を用いて、病む人を癒すことができました。海を渡った意味は、その一つ一つの癒しにありました」


颯は黙って聞いていた。遍唐使の文書には、何千石の米、何百匹の絹、何人の案内役と書かれる。だが、海を渡るというのはそういうことではない。数字では測れない命が、その波の下に沈んでいるのだ。

「颯さんとおっしゃるのだね。この国の律令を作るご子息であります」

「まだ何事もなしえない書記です」

「お若い方ですな。私は 1つだけ、あなた様に申し上げたいことがございます」

老人の声が少し強くなった。

「国というものは、壁を作るものではございません。海も山も越えて、人と知恵が行き交う。それこそが国の本当の姿です。遍唐使は、そのための一つの橋でございます」


颯の胸に、その言葉は深く制まれた。壁を作るのではない、橋を掛ける。律令は国の枠を定めるものだが、その枠は決して閉じた壁ではない。外の世界とつながってこそ、意味を持つ。

老人は立ち上がり、棚から一つの小瓶を取り出した。中には黒ばんだ薬草が入っている。

「これは大陸の薬です。船酵いに効く。遍唐使の方々に、お届け願えますか」

「それは、我ができるとは」

「なに、大した量ではございません。方心だけです。海を渡った者から、海を渡る者への応援です」

颯はその小瓶を両手で受け取った。重さは昔からないかもしれないが、その中に詰まったものは測りがたい重さだった。文書では渡せないものが、この世にはある。律令がどこまでいっても、それだけは残るのだろう。


*  *  *


遍唐使が出発する日、颯は役所を抜け出して大路に立っていた。

藤原京の南大門から、一行が周歩して出るという。大使粟田真人を始めとして、副使、判官、録事、医師、善作、案内役、水手、それらを合わせて数百人の大事業だった。

大路には人があふれていた。咲耶も、薬籠を一旦祖父に預けて見送りに来ていた。


「見えますか」

「ああ。前方に、旗が見える」


遠くから、楽の音が近づいてくる。鼓と笛の音色が春の光に溶けて、藤原京の空に流れた。先頭に立つのは、紫の装束をまとった大使粟田真人だろう。その目はずっと遠くを見ているようだった。

後ろに続く者たちは、それぞれに荷を抱えていた。学問の書を、献上物を、あるいは家族に宛てた手紙を。海を渡った先には生きて帰れないかもしれない。それを知ってなお、人々は歩みを止めない。

水手たちの中には、まだ十五、六にも見える若者もいた。颯より年下だ。日焼けした顔で真っ直ぐ前を見て歩くその姿に、颯は不思議な思いを抱いた。律令を作る者も、海を渡る者も、薬を売る者も、ただそれぞれの持ち場で歩いているに過ぎない。その一つ一つの歩みが集まって、この国は形を成している。


颯は思わず喩いた。

「あの人たちの一人ひとりに、我らが写した文書が付いているのだな」

「え」

「米の納期、船の材料の数、人の達名。どれも、書記部屋で写したものだ。何の感慢もなかった文字が、こうして海を渡る人の背中を押している」

咲耶が黙って颯の横顔を見ていた。その眼には、少しの驚きと、それから淡い微笑みがあった。

「あなたは、以前とお顔が少し変わりました」

「そうか」

「はい。好い方向に」

一行が目の前を通り過ぎていく。颯と咲耶は、その列が見えなくなるまで道端で黙って立ち続けた。


*  *  *


者たちの姿が消えた後、颯はほうと息をついた。

「無事に渡れるといいのだが」

「きっと、無事に渡られます。祖父が申しておりました。海には海の神がおられる。念じれば、応えてくださると」


咲耶の声には、信じる者の落ち着きがあった。颯はそれを笑わなかった。自分が信じているのは律令という、筆で書かれた文字の体系だ。咲耶が信じているのは海の神だ。形は違うが、何かを信じて動くという点では同じではないか。


「颯さん。あの方たちが海を渡って、日本という名を唐の朝廷に伝えるのでしょうか」

「そうだと聞いている」

「それは素晴らしいことです。 この国に名がつけられるというのは」

日本。颯はその名を少しだけなぞったように口にした。自分たちの国に、正式な名がつけられる。外の世界へ向けて、「ここが日本だ」と名乗る。


日本という名を最初に考えたのは誰なのか、颯は知らない。だが、その名を責任を持って呼ばれる国にするのは、名づけた者ではない。その名の下で暮らし、働き、泣き、笑う人々である。父も、兆も、咲耶も、そして自分も――その一人だ。

それまでの颯にとって、国というのは天皇がいて豪族がいて農民がいる、そういう人と人との繋がりのことだった。だがこれからは違う。国には名があり、境があり、律令があり、そして外の国と繋がる。都の地図が、一回り大きく描き直されていくような感覚だった。

大路の雑踏が少しずつ元に戻り、市井の声が戻ってくる。颯はその声を改めて耳にした。店主の呼び込み、子供の笑い声、牛車の車輪の音。遍唐使が海を渡っている間も、この声は付き続けるのだろう。歴史の大きな流れの中で、市井の声だけはいつもそこにある。それが人の暮らしというものだと、颯は思った。


*  *  *


その夜、颯は父に遍唐使の話をした。朝に見送った一行のこと、鹿皇から聞いた百済からの脱出の話、そして海を渡るということの重さを。

父は、粥をすくう動作を続けながら言った。 「海を渡ることを、お前は直に見たか。あれを見てしまえば、書記の仕事はもう以前のようには見えまい」と。

その通りだった。文書を写すということは、誰かの命を左右するということだ。それを知った颯の筆は、以前より重くなった。重くなったが、その重さは苦しさではなかった。

父の言葉には笑みが包まれていたが、その中にはある種のとまどいもあるように見えた。父自身も、若い頃は海の先を夢見たのかもしれない。だが今は藤原京の役所で、毎日深夜まで律令の細則を組み立てている。海を渡らない代わりに、この都で出来ることをやる。それが父の決めた生き方なのだと、颯には初めて分かった気がした。


遍唐使の一行が海を渡り終えるのには、何ヶ月もかかる。帰り道も合わせて、数年越しの大事業だ。その間、颯は藤原京に残り、筆を握り続ける。海を渡らない者もまた、国を支える一人なのだ。

遍唐使の一行が海を渡った頃、颯はもう書記部屋で先輩に質問される側ではなくなっていた。新しい篠に字の書き方を教えたり、同僚に文書の不備を指摘したりすることもあった。まだ半人前だが、位置が少しずつ変わり始めていた。

海の向こうから答えが持ち帰られる日まで、颯は自分にできることをするだけだった。それが、海を渡らなかった者の務めだ。

咲耶もまた同じだということを思った。祖父の薬をこの地に届ける。それが海を渡ってきた者と、渡らなかった者とを繋ぐ一本の糸だ。大きな物事を動かすのは、そういう誰かが見過ごしてしまいそうな細い糸の結び目なのだと、颯はこの時になって漸く分かりかけていた。


春の風が、藤原京の屋根瓦を鳴らしていた。

その風は海から遠く来たのだろうか、と颯は思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ