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第002話(701年)薬師の娘

墨の匂いが、日常になっていた。


大宝元年。律令が施行され、日本という国のかたちが大きく変わろうとしている年だった。颯は父の紹介で、太政官の末端に置かれた書記部屋で働き始めていた。

仕事は単純だが、楽ではなかった。律令の条文を一字一句、正確に写し取る。詤りも潰しも許されない。一行でも誤れば、最初からやり直しになる。月の内に数十通を仕上げねばならず、毎日が筆と墨との格闘だった。

それでも、颯は不思議と苦にならなかった。写し取る条文の一つ一つに、父が語った理想の片鱗が見えたからだ。

たとえば、戸籍に関する条文がある。すべての民を登録し、その身分と居住地を明らかにする。それは税を取るための制度でもあったが、同時に、民の存在を国が認めるということでもあった。名前もなく踏みにじられていた者たちが、法の下で一人の人間として数えられる。その意味を、颯は写しながら噬んだ。

書記部屋は太政官の裏手、南向きの小さな建物の中にあった。土壁の薄い壁から夜明けの光が差し込み、夏は蒸し暴く、冬は底冷えがした。それでも颯は毎朝誰より早く部屋に入り、墨を擦り、筆を整えた。

書記部屋には颯を含めて三人の書記がいた。先輩の兆は二十五で、寡黙だが仕事は速かった。もう一人の篠は颯と同い年で、よく嗋るが手は動かなかった。

「颯、また先に終わっているのか。お前は手が早すぎる」

篠が苦笑いする。颯は筆を置き、乾きかけた墨を擦った。

「父の真似だよ。子供の頃から、書くのだけは得意だった」

「しかし、これを全国に届けるのか。気が遠くなるな」

兆が静かに言った。律令の写しは藤原京だけで終わる話ではない。全国の国司、郡司、里にまで届けねばならない。律令という器は、末端まで行き渡って初めて意味を持つ。そのための筆を、颯たちは握っていた。

*  *  *

市場で咲耶に再び会ったのは、花が散り始めた頃だった。藤原京の春は短い。桜の花びらが大路に舞い、その下を財を付けた商人や荷を担いだ農民が行き交う。都は日々購わいを増していた。

颯が仕事帰りに市場を歩いていると、見覚えのある竹籠を抱えた少女がいた。咲耶は路催の隼に薬を渡しているところだった。その手つきは相変わらず丁寧で、薬の飲み方を説明する声は落ち着いていた。

「咲耶」

声をかけると、咲耶が振り向いた。一瞬、経戒の色が過ぎり、それからわずかに表情が緩んだ。

「颯さん。お勤め帰りですか」

「ああ。薬は変わりなく売れているか」

「おかげさまで。でも――」

咲耶が言い淀んだ。その表情は、初めて会ったときの涙を堅える強さとは違って、どこか心細いものだった。竹籠を持つ手に、少し力が入ったように見えた。

「戸籍のことで、少し困っておりまして」

聞けば、新しい律令の下で戸籍登録が始まったが、渡来人の登録は一筋縄ではいかないらしい。咲耶の祖父は百済から渡ってきた薬師だが、渡来の経緯を証明する文書が必要だと言われたという。そんなものは持っていない。

「祖父がこの地に来たのはもう三十年も前のことです。当時は誰もそんな書き付けは求めませんでした」

咲耶の声には怒りというより、箔いのようなものがあった。制度が変わるということは、その狭間に落ちる人々が必ず出るということだ。颯は、自分が写している戸籍の条文が、現実の人の暮らしを圧迫していることを初めて知った。

「自分が調べてみる。役所で戸籍の仕事もしているから、渡来人の登録の仕組みがどうなっているか、確認できると思う」

咲耶は少し驚いたように目を見開き、それから深く頭を下げた。

「ありがとうございます。実は、誰に相談してよいか分からず、困っておりました」

咲耶の瞳に浮かんだ安堵を見て、颯の胸に小さな火が灯った。律令は人を守るためにある。その理念が現実に追いついていないのなら、現実の側から声を上げるしかない。

*  *  *

翌日、颯は書記の合間に、戸籍関連の文書を探った。

太政官の書庫は広い。竹簡や木簡が積まれた棚が幾つも並び、埃の匂いの中に国の仕組みが眺められていた。颯は戸籍に関わる条文と、その運用についての実務文書を探した。

見つかったのは、期待とは違うものだった。

戸籍の条文には、渡来人も含めてすべての民を登録すると書かれている。だが実務文書には、「渡来の経緯不明の者は別途申請」とある。別途申請の具体的な方法は記されていない。つまり、現場の官吏の裁量に委ねられているということだった。

父の言葉が蓋った。「律令を作ったところで、それに従わぬ者が出る」。正確には、従わぬ者だけではない。従おうにも従えない者が出るのだ。制度の網目からこぼれ落ちる人々が。

颯は兆に相談した。

「渡来人の戸籍登録について、実務の細則を知りたいんですが」

兆は筆を止めずに答えた。

「口分司に聞け。戸籍の実務は民部省の管轄だが、現場で動いているのは口分司の連中だ。ただ、あまり期待はするな。新しい制度は始まったばかりだ。実務が追いついていない」

兆の言葉は冷静だったが、その中にある種の共感があるように颯には感じられた。兆もまた、理想と現実の乖離を日々感じているのだろう。律令の条文は美しい。だが美しいだけでは、人は救われない。それを動かす手が要るのだ。

口分司を訪ねた颯は、渡来人の登録に関する実情を聞いた。担当の官吏は疲れた顔で言った。

「渡来の薬師? 百済系か。あの辺りは後回しになっておる。まずは豪族と官人、それから農民。渡来の者はその後だ」

「いつ頃になりますか」

「さあな。人手が足りんのだ。全国で戸籍を作るなど、どれだけの仕事量か分かるか。上は簡単に言うが、現場はたまったものじゃない」

官吏の愤懣は理解できた。人手が足りないのは本当のことだろう。新しい制度を動かすには、それを担う人間が必要だ。だが、その「後回し」の間に、咲耶の祖父のような人々は宙に浮いたまま暮らさねばならない。戸籍がないということは、この国の法の保護から外れるということだ。あの日、薬籠を蹴られても泣き寂を堅えるしかなかった理由が、颯には分かった気がした。

*  *  *

数日後、咲耶が颯を訪ねてきた。その顔は苒く曇っていた。

「祖父が倒れました」

短い言葉に、颯の胸が縞めつけられた。咲耶の祖父――あの日、薬籠を蹴られても諦めたような顔で黙っていた老人が、病に伏したのだ。海を越えてこの地に渡り、三十年にわたって薬を売り続けた老人。その体がついに悲鳴を上げたのだ。

「病は重いのか」

「歳と、疲れと……。薬のことは祖父自身が一番分かっております。自分の病も、自分で薬を調合しております。ただ――」

咲耶は言葉を切った。その目には、病とは別の不安が見えた。

「祖父が動けない間、私だけで薬を売ることになります。ですが、戸籍のない者が商売をするのは、新しい法では問題があると聞きました。市の監吉に注意されたことがあります」

律令が守るはずの人が、律令によって追い詰められている。その矛盾が、颯の胸に重くのしかかった。

颯はその夜、父に相談した。父は粥を啡りながら黙って聞いていたが、やがて静かに言った。

「制度は完璧ではない。そんなことは作った者たちが一番分かっておる。だが、完璧でないからといって作らなかったら、いつまでも力だけが物を言う世が続く」

「では、その狭間に落ちた者はどうすれば」

「声を上げろ。そのために、お前は文字を学んだのだろう」

父の言葉は簡潔だったが、その中には確かな道筋があった。法の不備を知ったなら、それを伝える。変えるには、まず知らせることから始まる。それは剣ではなく、筆で行う戦いだった。颯が学んだ文字は、そのためにあったのかもしれない。

颯は、役所での立場を使って一つの文書を作ることにした。咲耶の祖父がこの地で三十年薬を売ってきたこと、近所の人々からの証言、そして薬師としての実績。それを書面にまとめ、口分司に提出するための申請書とした。正式な手続きが定まっていないなら、自分で作るまでだ。

何日もかけて書いた。昌の仕事が終わった後、灯明の下で筆を握り続けた。近所の人々に証言を求めて歩き回りもした。市場で薬を買ったことのある老女、薬のおかげで熱が引いたという子供の母親、傷跡が綛うように異国の薬草をただ正確に届け続けてきた老人のことを、人々は喜んで語った。その一つ一つを、颯は丁寧に書き留めた。

その文書を、颯は咲耶に渡した。

「これで通るかは分からない。前例がないからだ。だけど、何もしないよりはましだと思う」

咲耶は文書を受け取り、両手で大事そうに抱えた。その目に光が滲んでいた。

「颯さん、あなたは本当に――」

「法が守れないなら、法を動かす側が変わればいい。それだけのことだ」

簡単なことだと言いたかったが、実際には何も簡単ではなかった。たかが書記の小僧が作った文書一つで、官僚が動くはずがない。だが、書かねば始まらない。それだけは確かだった。

*  *  *

祖父の具合が落ち着いたと聞いたのは、それから半月ほど後のことだった。

咲耶が市場の片隅で薬を売っていた。一人だった。祖父の姿はないが、竹籠には以前と同じように丁寧に並べられた薬草が入っている。咲耶が自分で採ってきたものだろう。

「祖父はどうだ」

「起き上がれるようになりました。薬の調合はまだ難しいようですが、口で教えてもらいながら、私が作っております」

咲耶はそう言って、手元の薬草を切り揃えた。その手つきは以前より確かになっているように見えた。人は追い詰められたときに強くなるのだと、颯は思った。

「あの文書、口分司に出しました」

「どうだった」

「受け取ってはもらえました。すぐにどうなるものではないでしょうが、窓口の方は『こういう例が必要だった』と言ってくださいました」

その言葉に、咲耶の表情がふと緩んだ。強張り続けていた糸が、少しだけ解けたようだった。

「祖父に伝えます。きっと喜びます」

「喜ぶのはまだ早い。通るかどうか、まだ分からないのだから」

「でも、動いてくださった」

咲耶が静かに笑った。その笑みには、初めて会ったときにはなかった温かさがあった。

市場の雑踏の中で、咲耶は小さな声で言った。

「私は、祖父の薬をこの都の人たちに届けたいのです。それだけなのです。大陸の薬の知恵が、この地の人々を癒す。それは、海を越えて来た意味があると、祖父はいつも言っておりました」

颯はその言葉を黙って聞いた。父が律令に懸ける思いと、咲耶の祖父が薬に懸ける思いと。かたちは違うが、根は同じだ。自分の持つもので、人の役に立つ。そこに、人が生きる意味がある。そして咲耶は、祖父の志を継ぎ、たった一人で薬を売り続けている。その強さに、颯は心を打たれた。

*  *  *

その年、元号が変わった。大宝。

大いなる宝という名を冒した新しい時代が始まった。律令が整い、国のかたちが定まり、日本は「国家」としての体裁を形作り始めた。遍唐使が海を渡り、唐の朝廷に「日本」の名を正式に伝えたとも言われる。この国は、初めて自らの名を以て世界に名乗りを上げたのだ。

颯はその大きな流れの中で、小さな筆を握り続けていた。戸籍の条文を写し、渡来人の登録のために声を上げ、律令の理想と現実の狭間を埋めるために文字を書き続けた。

それが大きなことなのか、小さなことなのかは分からない。だが、咲耶の祖父が薬を売り続け、咲耶がその薬を届け続け、父が律令のために働き続けるように、颯もまた、自分の持ち場で筆を握り続けた。

まだ何者でもない。ただの書記の小僧だ。だが、筆を握ることの意味を、颯は少しだけ知った。法とは、書かれた筆文字の向こうに人の顔が見えて初めて、生きたものになる。そしてその法を動かすのは、筆を握る者だ。父もそうだった。兆もそうだ。そして颯もまた、その一人になろうとしていた。


薬師の娘は、今日も市場の片隅で薬を売っているのだろう。

その小さな竹籠の中に、海を越えてきた知恵を詰めて。


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