第001話(700年)律令の子
父の背中が、小さく見えた。
それが、颯の最も古い記憶だった。
大宝元年――西暦でいえば七〇一年になる少し前、まだ藤原京が日本の都であった頃。颯は十七の歳を迎えたばかりの、何者でもない下級官吏の息子だった。
父は律令の施行準備に携わる実務官である。母は三年前に病で亡くし、それ以来、二人で藤原京の南端に近い小さな家に暮らしていた。板張りの屋根は雨漏りがし、土壁にはひびが入っていたが、それでも二人には十分だった。
朝は父より早く起き、井戸から水を汲む。竈に火を入れ、粥を炊く。父が出仕した後は、役所への使い走りや市場での買い物。時折、近所の子供たちに読み書きを教えることもあった。父が「字が読めることは武器だ」と口癖のように言っていたから、颯もそれなりに読み書きはできた。
それが颯の日常だった。平凡で、穏やかで、そしてどこか穏やかなものだった。
夏の藤原京は蒸し暑いが、季節の移り変わりには美しいものがあった。春には都のあちこちで桜が咲き、秋には山が燃えるように色づく。父が口癖のように言った。「この国は美しい。だから守るに値する」と。その意味を、その頃の颯は十分には理解できていなかった。
だが胸の奥には、言葉にならない焦りがあった。父のように何か大きなもののために働きたい。でも、その「何か」が見えない。そんな、もどかしい焦りだった。
* * *
その日も、颯は朝早くから市場に向かっていた。
藤原京の市場は活気に満ちている。唐や新羅から渡ってきた絹や香料、地方から届いた干し魚や穀物。赤や黄に染め上げられた反物が風に揺れ、土器を並べた店先からは職人の嫁が客を呼び込む声が響く。牛車の車輪の音、子供たちの笑い声、物売りの口上――その全てが混ざり合って、藤原京の活気を作っていた。
市場の角で、いつもの干し魚売りのじいさんが声をかけてきた。
「おう、颯。今日も使い走りか」
「ええ。塩をいただけますか」
「あるとも。親父さんはまだ忙しいのかい」
「昨夜も深夜に帰ってきました」
「そりゃあ大変だなあ。ま、国が変わるってのはそういうもんだろうよ」
じいさんは笑いながら塩を包んでくれた。こういう何気ないやり取りが、颯は嫌いではなかった。
帰り道、大路を歩きながら考えた。この都は唐の長安に倣って作られたという。整然と並ぶ街路、南北に走る大路、その先にそびえる宮殿。国をかたち作るというのは、こういうことなのだろう。道を整え、建物を建て、人を集める。そしてその上に、法を作る。
数日前の父の言葉を思い出していた。
「律令がな、いよいよ完成する」
珍しく興奮した様子で父はそう言った。律令とは何かと颯が尋ねると、父は筆を止めて真剣な目をした。
「これは、この国のかたちを定めるものだ。唐の真似事と言う者もおるが、そうではない。唐の制度を学びつつも、この国独自のかたちを作る。天皇を中心とし、法によって国を治める。豪族の勝手を許さず、すべての民に公平な秩序をもたらす。それが大宝律令だ」
父の声には信念があった。下級官吏でありながら、この国の未来を本気で信じている。その目は、遥か先の、颯にはまだ見えない何かを見つめていた。父が毎日深夜まで働くのは、その「何か」のためなのだ。
「だがな。理想だけでは世は変わらん。律令を作ったところで、それに従わぬ者が出る。従わせる力がいる。そのせめぎ合いが、これから始まる」
その言葉の意味を、その時の颯はまだ十分に理解できていなかった。ただ、この国が大きく変わろうとしていることだけは分かっていた。
* * *
変化は、市場からの帰り道で訪れた。
南北に走る大路を歩いていると、前方で人だかりができていた。数人の男たちが路上で言い争いをしている。その中心にいるのは、見るからに身分の高そうな男と、その従者たち。そして、その前に立ち塁がっているのは――老いた薬売りの男と、小柄な少女だった。
「邪魔だと言っておる。その汚い薬を退け」
身分の高い男が吐き捨てるように言う。従者の一人が老人の薬籠を蹴り飛ばした。竹で編んだ籠が石畳の上を転がり、中に丁寧に並べられていた乾燥薬草が地面に散らばる。何日もかけて採取し、乾燥させ、切り揃えたものばかりだろう。それが一瞬で土にまみれる。少女が慧てて拾い集めようとするのを、別の従者が腕を掴んで引き戻した。
周囲の人々は見て見ぬふりをしている。豪族に逆らう者などいない。それがこの時代の当たり前だった。力を持つ者が正しく、持たぬ者は耐える。それが、律令ができる前のこの国の姿だった。
薬売りの老人は渡来人のようだった。大陸から渡ってきた薬の知識を持ち、この都で質素に薬を売る。それが気に入らない豪族がいるのだろう。理不尽な話だった。
颯の足が動いていた。考えるより先に。
「待ってください」
声が出ていた。颯自身が驚いた。男たちが振り向く。
「なんだ、小僧」
「この方たちは、渡来の薬師です。薬を届けているだけです。薬籠を蹴るのは、その――」
言葉を探した。「乱暴ではないですか」と言いかけて、止めた。それでは火に油を注ぐだけだ。代わりに、深く膀を下げた。
「失礼いたしました。ですが、この薬は近所の病人に届けるものです。どうか、それだけは、お許しください」
下手に出ることしかできない自分が情けなかった。だが、少なくとも目を逸らさなかった。男は舌打ちをして、従者を引き連れて去った。
散らばった薬草を拾うのを手伝った。山の奥の日当たりの良い斜面で採れる薬草だと、後に咲耶から聞いた。一つ一つが、人の病を癒すために必要なものだった。老人は黙ってそれを集めていた。その横顔には、怒りよりも諦めに似たものがあった。こういうことは今までにも何度もあったのだろう、と颯は思った。そしてそのたびに、老人は黙って薬を拾い集めたのだろう。
少女が颯の方を向いた。長い黒髪を一つに束ね、白い衣をまとった少女だ。大きな瞳には、涙の跡があった。だがその目は、泣き寂というよりも、惔しさを堅えているように見えた。
「……ありがとうございます。助けてくださって」
「大したことはしてない。謝られるようなことは何も」
本心だった。結局、颯にできたのは膀を下げることだけだ。力では止められない。身分では太刀打ちできない。その無力さが、胸に刺さった。
帰り道、何度もその光景を反芻した。薬籠を蹴られて散らばった薬草。涙を堅える少女の目。そして何もできなかった自分。あれが、この国の現実なのだと思うと、胸の奥の焦りが一層強くなった。
* * *
その夕、父が珍しく明るい顔で帰ってきた。
「通ったぞ、颯。大宝律令が、ついに正式に施行されることになった」
父の目が潤んでいた。颯が初めて見る、父の涙だった。
「これで、法による国が始まる。豪族であろうと農民であろうと、法の前では等しくなる。そういう国になるんだ」
父の言葉が、昨日の光景と重なった。薬籠を蹴られても泣き寂を堅えるしかなかった少女。見て見ぬふりをする人々。そして、膀を下げることしかできなかった颯。
律令があれば、変わるのだろうか。あの薬売りの老人は蹴られずに済むのだろうか。あの少女は涙を堅えなくてよくなるのだろうか。そうありたいと、強く思った。
「父上」
「うん?」
「自分も、役所で働きたい。父上のように、律令のために」
その言葉に、父の目が少し大きくなった。毎日の激務で疲れているはずのその顔が、その時だけは少し若々しく見えた。
父は粥の椀を置いて、少し考えるように間をおいた。
「大きく出たな。だが、悪くない。同僚に、書記の人手が足りないと嘘いている者がおる。字が書けるなら、紹介してやれるかもしれん」
胸が熱くなった。字が読めることは武器だと、父は言っていた。その武器を、ようやく使える時が来るのかもしれない。
その夜、寝具の中で天井を見上げながら颯は考えた。律令とは何なのか。父が命を懸けて作り上げているそれは、あの薬売りの老人や少女を守れるものになるのだろうか。身分の高い者も低い者も、同じ法の下に立つ。そんな国が本当に作れるのか。分からない。だが、作ろうとしている人たちがいる。父もその一人だ。ならば自分も、その列に加わりたい。
* * *
数日後、颯は役所への道を歩いていた。父の同僚に会うためだ。書記の仕事をもらえるかもしれないと思うと、脚は自然と早くなった。朝の空気は澄んでいて、藤原京の屋根瓦が朝日に照らされて光っていた。
大路の角で、見覚えのある姿を見つけた。あの少女だ。薬売りの老人の側で、通りがかりの者に薬を渡している。その手つきは丁寧で、薬の説明をする声は穏やかだが芯があった。
少女がこちらに気づいた。一瞬、目を見開いて、それから小さく会釈した。あの日、涙を堅えていた瞳は、今日は穏やかな光を帯びていた。
「先日は、ありがとうございました」
「いや、その後、大丈夫だったか?」
「はい。薬の多くは駄目になりましたが、祖父がまた採ってくれます」
少女はそう言って、少し笑った。薄い笑みだったが、その中には確かな強さがあった。薬草の入った竹籠を大事そうに抱えている。あの日蹴られた籠と同じものだろうか。直したのか、新しく作ったのか。どちらにせよ、そこに諦めの色はなかった。
「咲耶と申します。渡来系の薬師の祖父と共に、この都で暮らしております。祖父は百済から渡ってきた人間で、向こうの薬の知識を持っております」
「颯だ。ハヤテ。下級官吏の息子で、これから書記の仕事を始める予定だ」
咲耶は一人の老女に薬を渡し終え、こちらへ戯ってきた。少し考えるように間をおいてから、言った。
「颯さん。一つお聞きしてもよろしいですか」
「ああ」
「律令というものが始まれば、渡来の薬師でも、この都で安心して薬を売れるようになるのでしょうか」
その問いに、颯の胸が綞まれるようだった。先日の光景が蓋る。薬籠を蹴る男。見て見ぬふりの人々。律令があれば――そうだ、律令はそのためにあるのだ。
「なる。律令はそのためにある」
気がついたら、そう答えていた。父の受け売りのようで惥ずかしかったが、嘘はついていない。そうなるべきだと、本心から思った。法があれば、出自も血筋も関係なく、誰もが守られる。そんな国を作るのに、颯のような「何者でもない」人間こそが役に立てるのではないか。
咲耶は頑いた。
「そうであれば、よいのですが」
その笑みには、多くの人の痛みを見てきた者が持つ、静かな強さがあった。
老人が横から口を添えた。
「坊主、先日は世話になったのう。おかげで薬はほとんど無事だった。あんたのおかげで、今日もこうして薬を届けられる」
じいさんの言葉に、颯は少しだけ救われた気がした。あの日の行動にも、意味があったのかもしれない。たとえ小さくても。
* * *
こうして始まった。
颯たちの物語が。
大宝律令が産声を上げ、日本が新たな国のかたちを模索する時代。その片雅で、下級官吏の息子と渡来の薬師の娘が出会った。ただそれだけの、小さな出来事だ。だが小さな出来事こそが、歴史の大きな流れの中で人を動かし、人を変える。颯は後にそれを知ることになる。
まだ颯は知らなかった。十七歳の颯にとって、世界はこの藤原京がすべてだった。市場と大路と、雨漏りのする小さな家と、父の背中。それが、颯の世界の全てだった。
この先に待ち受けるもののことを。都の遷都、権力の争い、疫病の恐怖、そして理想と現実の間で引き裂かれる人々の姿。その中を、颯たちは走り抜けることになる。法と筆と言葉を武器に、理不尽と戦い続けることになる。それが、颯たちの戦い方だった。
何も知らなかった。ただ、あの日、市場の角で咲耶と交わした約束だけは本物だった。法の下で、誰もが安心して暮らせる国を作る。そのために、颯は働く。
律令があれば、変わる。きっと。
藤原京の空は、あの日も高く澄んでいた。




