第8話 復讐
森の中を抜ける街道。
その両脇に立ち並ぶ木々の陰へ、アリィとシリアン、そしてガイルは身を潜めていた。
エリスもまた、彼らとともにいた。
本当なら、街で待っているべきだったのかもしれない。
これから何が起こるのか、エリスには分かっている。
分かっているからこそ、ここにいるべきではないとも思っていた。
それでも、彼女はついてきた。
ガイルを止められるのは、もはや自分しかいない。
そんな思いだけが、エリスをこの場所まで連れてきた。
アリィはガイルに協力することを決めていた。シリアンも、昨夜まで見せていた迷いを捨ててしまったかのように、今では復讐を受け入れている。
リアンとエテルネル、そしてアマンダがエリスの言葉に耳を傾けるとは思えなかった。
誰も、ガイルを止めようとはしない。ならば、自分が止めるしかない。
そう思っているのに――エリスの胸の奥には、最初から答えなど存在していなかった。
街道の先へ目を向ける。
そこには、巨大な魔獣の死骸が横たわっていた。
ガイルたちがここへ来る途中で遭遇した魔獣だった。全身を切り裂かれ、骨を砕かれ、皮膚を引き裂かれたその姿は、もはや生き物の面影をほとんど残していない。
血と腐臭が混じった生温い風が、森の中を漂っていた。
死骸は街道を塞ぐように放置されている。まるで、誰かをここへ誘い込むための標識のように。
それを見つめているだけで、エリスの胃の奥が激しく締めつけられた。
喉の奥に酸っぱいものが込み上げる。また吐いてしまいそうだった。
「エリス。やっぱり街で待ってればよかったんじゃない?」
隣にしゃがみ込んでいたアリィが、声を潜めながら言った。
いつもと変わらない、明るく軽い口調。けれど、その瞳の奥には、エリスを気遣う色がわずかに浮かんでいた。
エリスは答えず、ただ小さく首を横に振った。
帰るつもりはなかった。帰ることなど、できなかった。
「そう……」
アリィはそれ以上、何も言わなかった。
その代わり、エリスの背中へそっと手を添える。
その温もりに縋りつきたいと思った。
けれど、今のアリィは、エリスが知っているアリィとはどこか違っていた。
昨夜、扉の向こうで聞いた声が耳の奥に蘇る。
――私も。ガイル様を傷つけた奴らは許せないよ。
あの言葉を口にしたのも、目の前にいるアリィだった。
エリスは、彼女の手から逃れるように、わずかに身を引いた。
その様子を見ていたシリアンが、ふっと笑った。
「ふふ……エリスさんも、見届けたいのですよ」
シリアンは腰に差した剣を抜き、刃に付着したわずかな汚れを布で拭っていた。
何度も、何度も。すでに十分磨かれているはずなのに、彼女は手を止めようとしない。
「これから起きる……“喜劇”を」
半ば冗談めかした声だった。
しかし、その笑みはどこか歪んでいた。
以前のシリアンは、冷静で、知的で、何事にも慎重な女性だった。
誰かが感情に流されれば、必ずそれを諫める。
危険があれば、誰よりも先に退路を考える。
そんな彼女が、今は復讐の時を待ち望むように、剣を磨き続けている。
その姿は、まるで何かに取り憑かれているようだった。
エリスは、シリアンの横顔から目を逸らした。
怖かった。ガイルも、アリィも、シリアンも。
みんな、少しずつ何かを失っているように見えた。
「お前ら、少し黙れ」
それまで一言も発さず、街道の先を見つめていたガイルが、低い声で言った。
その視線は、魔獣の死骸の向こう側へと向けられている。
「そろそろ、レインたちがここを通る頃だ」
その言葉を合図に、森の中から音が消えた。
アリィも、シリアンも、息を殺す。
エリスも口を閉ざし、震える手を胸元で握りしめた。
ガイルは微動だにしなかった。
ただ、ひたすらに一点を見つめている。
その横顔には、怒りも憎しみも浮かんでいない。
感情そのものが、すでに凍りついてしまったかのようだった。
やがて――遠くから、車輪の軋む音が聞こえてきた。
森の静寂を踏み荒らすように、規則正しい音が近づいてくる。
馬の蹄が地面を打ち、湿った土を跳ね上げる。
小さな馬車が、街道の向こうから姿を現した。
荷台を覆う布は泥で汚れ、車輪には旅の疲れが滲んでいる。
その馬車は、何も知らずにこちらへ向かってくる。
そして、街道を塞ぐ魔獣の死骸を目にしたところで、ゆっくりと停止した。
「……何だ、あれは?」
荷台から、最初に一人の男が降りた。
銀色の髪。整った顔立ち。腰には剣を帯びている。
その姿を見た瞬間、エリスの胸が強く締めつけられた。
レイン――ガイルが憎み、殺すと決めた男。
その後ろから、三人の女性が続いて降りてくる。
一人は杖を手にした魔法使いらしき女性。
一人は聖女を思わせる白い衣装を纏った女性。
そしてもう一人は、弓を背負った凛とした風貌の女性だった。
ガイルが語っていた特徴と、寸分違わない。
彼らは周囲を見回しながら、街道に横たわる魔獣の死骸へ近づいていった。
「これ……酷い……」
杖を持った女性が、顔をしかめる。
「こんな大きな魔獣を……一体、誰が?」
聖女のような女性も、死骸を見下ろしながら声を震わせた。
「これって、まさか……全部ガイルがやったってこと?」
その言葉に、レインの表情がわずかに険しくなる。
彼は周囲へ視線を走らせた。
森の奥。木々の間。街道の両脇。
何かを探すように、慎重に目を動かしている。
だが、ガイルたちの潜伏に気づいた様子はなかった。
少なくとも、そう見えた。
ガイルは静かに息を吸った。
その口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「来たか……!」
小さな呟きだった。
次の瞬間。
「今だ!」
ガイルが叫んだ。
同時に、街道の脇に停められていた馬車が、見えない何かに押し潰された。
轟音が森を揺らす。
木材が砕け、車輪がひしゃげ、荷台を覆っていた布が引き裂かれる。
馬車は一瞬にして形を失い、無数の木片と肉塊のような残骸へと変わった。
馬が嘶き、レインたちが咄嗟に飛び退く。
「な、何……今の!?」
「敵はどこだ……!」
「見えない……? どこから攻撃しているの!?」
四人は背中合わせになり、周囲を警戒した。
杖を持った魔法使いが杖を掲げ、弓を持つ女性が矢をつがえる。
聖女のような女性は、仲間たちの背後へ回り込むように身を動かした。
レインだけが、何かを察したように森の奥を睨みつけている。
そのとき、ガイルが立ち上がった。
右手には、あの盾が握られていた。
「ここら一帯を――“開く”!!」
叫びとともに、ガイルは盾を頭上へ掲げた。
瞬間――盾が、黄金の光を放った。
目を開けていられないほどの眩い輝きが、森の中を一気に駆け抜けていく。
次いで、地面が震えた。
木々が軋み、枝葉が大きく揺れる。
まるで大地そのものが、何か巨大な力に押し潰されているかのようだった。
森を構成していた木々が、次々と地面へ倒れ伏していく。
幹が折れ、根が引き抜かれ、枝が砕ける。それは伐採などという生易しいものではなかった。
木々は押し潰され、薙ぎ倒され、街道の周囲から一掃されていく。
視界が開けた。
森の天井に覆われていた空が、むき出しになる。
いつの間にか、雨は止んでいた。
雲の切れ間から差し込んだ太陽の光が、荒れ果てた街道と、押し潰された木々を照らし出す。
黄金の光を纏う盾。
その異様な威力を目の当たりにして、エリスは息を呑んだ。
これが――ガイルが拾ったという『神器』。
世界の理から外れたような力。人の手で扱えるものとは思えない、圧倒的な破壊の力。
それを、ガイルはまるで己の腕の一部であるかのように振るっていた。
「行くぞ」
ガイルは短く言った。
そして、開けた街道へと降り立つ。
アリィがその後に続き、シリアンも剣を手に歩き出した。
エリスは一瞬だけ足を止めた。
逃げるなら、今しかない。そう思った。
けれど、次の瞬間には、震える足を動かしていた。
ガイルを止めなければならない。
そうでなければ、また誰かが死ぬ。
エリスは彼らの後を追い、街道へと降り立った。
「ガイル……!」
聖女のような女性が、震える声で彼の名を呼んだ。
その顔から、血の気が引いていく。
魔法使いの女性は、ガイルの姿を見た途端、口元を歪めた。
「よくあそこから生きて出られたわね」
彼女は杖を構えながら、鼻で笑う。
「無能なあんたが」
その言葉を聞いた瞬間、ガイルの表情が変わった。
凍りついていた顔に、初めて明確な感情が浮かぶ。
怒り。憎悪。
そして、長い年月をかけて胸の奥へ押し込めていた、癒えることのない傷。
「生き延びたさ……」
ガイルは、ゆっくりと盾を構え直した。
「お前たちの裏切りを、胸に抱えながらな!」
その声が、森の跡地に響き渡る。
怒鳴り声ではなかった。
それでも、聞く者の胸を抉るような重さがあった。
「ようやく、お前らに復讐ができる!」
ガイルの目が、鋭く細められる。
「俺に味わわせた苦痛を……今度はお前らに思い知らせてやる!」
魔法使いの女性は、肩を竦めた。
「ぷっ……無能のあんたが復讐?」
杖の先端に、淡い魔力の光が集まり始める。
「そんなお笑い劇場、私たちには似合わないんだけど」
挑発するような笑み。侮蔑に満ちた瞳。
それを向けられても、ガイルはすぐには反応しなかった。
ただ、静かに盾を掲げる。
黄金の光が、盾の表面をゆっくりと走った。
「お前たちを許すつもりはない」
その声は、驚くほど静かだった。
「今度こそ――お前らのすべてを潰してやる」
レインが一歩前へ出た。
銀色の髪が、風に揺れる。彼は剣を抜き、構え直した。
その顔には、警戒と困惑、そしてわずかな痛みが浮かんでいる。
「ガイル……本当に、それでいいのか?」
レインの問いに、ガイルは答えない。
「こんなことをして……お前に何が残る?」
レインの声が、静かに響いた。
その言葉を聞いたガイルの瞳から、温度が消えた。
「お前らを地に伏せることでしか――」
ガイルは盾を握る手に力を込める。
「俺の心は救われない」
冷たい風が、荒れ果てた街道を吹き抜けた。
血の臭いと、砕けた木々の臭いが混じり合い、エリスの鼻腔を刺す。
誰も、動かなかった。誰も、言葉を発しなかった。
ただ、互いの殺意だけが、張り詰めた空気の中でぶつかり合っていた。
そして――戦いが始まる。
長い間、胸の奥に閉じ込められていた憎しみと、かつて仲間だった者たちの因縁に、決着をつけるための戦いが。




