第7話 死んだも同然
翌朝――。
エリスは、目を覚ましてからも、ベッドの上で身動きひとつ取れずにいた。
薄いカーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。雨はまだ降り続いていた。昨夜ほど激しくはないものの、窓を叩く雨音は絶えることなく、湿った空気が部屋の中にまで入り込んでいるようだった。
起きなければならない。
そう思っているのに、身体が動かなかった。
手足が重い。胸の奥には、冷たい何かが沈んでいる。息を吸うたび、それが肺の奥へと広がり、身体の内側から少しずつ体温を奪っていくような感覚があった。
エリスは、ゆっくりと隣のベッドへ目を向けた。
そこには、誰もいなかった。
「……アリィさん」
掠れた声で名前を呼ぶが、返事はない。
昨夜まで、確かに隣にあったはずの温もりも消えていた。掛け布団は乱れたままなのに、その下には人の気配がない。エリスが手を伸ばして触れてみると、ベッドはひどく冷たかった。
まるで、氷のように。
「……いつから……?」
指先に伝わる冷たさに、エリスは小さく身を震わせた。
アリィは、いつ部屋を出ていったのだろう。
昨夜、エリスが扉の向こうの会話を聞いたあとも、アリィは戻ってこなかった。少なくとも、エリスが眠りに落ちるまで、その姿を見ることはなかった。
もしかすると――アリィは、一度も眠っていないのかもしれない。
どこか別の部屋で、ガイルたちと話をしていたのだろうか。
今日のことを。レインたちを殺しに行く、そのことを。
エリスは、ぎゅっと毛布を握りしめた。
何を話していたのか。どんな顔をしていたのか。
ガイルの復讐を、どんな言葉で肯定していたのか。
考えれば考えるほど、胸の奥が締めつけられた。
聞きたくない。知りたくない。
もう、何も聞きたくなかった。
昨夜の会話を、すべて忘れてしまいたかった。
扉の向こうから聞こえた声も、アリィの言葉も、双子の言葉も、アマンダの冷たい声も。
そして、ガイルの「殺す」という言葉も。
全部、夢だったことにしたかった。
「……もう、やめて」
エリスは、毛布の中で小さく呟いた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ガイルに向けたのかもしれない。
アリィたちに向けたのかもしれない。
それとも、この胸の奥で膨らみ続ける恐怖に向けたのかもしれない。
「もう……やめてよ……」
そんな願いが叶うはずのないことくらい、エリスにも分かっていた。
一度動き始めたものは、簡単には止まらない。
ガイルは、もう決めてしまった。アリィたちも、その決意を支えると決めてしまった。
ならば、エリスがどれほど願ったところで、何も変わらない。
それでも、願わずにはいられなかった。
誰も傷つかないでほしい。誰も死なないでほしい。
また、いつものように笑っていてほしい。
ただ、それだけだった。
けれど、その願いは、エリスがこれまで抱いてきたどんな願いよりも、遠く感じられた。
「……怖い」
喉の奥から、震えた声が漏れる。
エリスは膝を抱え、身体を丸めた。
あの屋敷で、父と母を奪われたときのことが脳裏に浮かぶ。
血の匂い。冷たい床。聞こえていた母の叫び声。
そして、目の前で命が消えていった瞬間。
あのときも、エリスは何もできなかった。
ただ、恐怖に震えていた。
また同じことが起きるのだろうか。
今度は、ガイルが誰かの命を奪う。
あるいは、ガイル自身が命を奪われる。
そう考えただけで、胸が張り裂けそうになった。
エリスは、ベッドから起き上がろうとした。
けれど、腕に力が入らない。身体を起こすことさえできなかった。
「……動いて」
自分に言い聞かせるように、何度も呟く。
「起きなきゃ……」
それでも、身体は言うことを聞かなかった。
まるで、ベッドそのものに縫い付けられてしまったかのようだった。
そのとき――。
「おっはよー!」
勢いよく扉が開いた。
湿った朝の空気を押しのけるように、明るく弾んだ声が部屋へ飛び込んでくる。
「エリス、起きてるー?」
入ってきたのは、アリィだった。
短い金髪を揺らし、いつもと変わらない笑顔を浮かべている。声も、表情も、普段と何ひとつ変わらない。
まるで、昨夜など存在しなかったかのように。
「……アリィさん」
エリスの唇から、名前がこぼれた。
アリィはベッドの上で身を起こせずにいるエリスを見ると、ぱちりと目を瞬かせた。
「ん? どうしたの? まだ眠い?」
そう言いながら、いつもの調子で近づいてくる。
その笑顔が、今のエリスにはひどく眩しかった。
昨夜、扉の向こうで聞いた声と同じ人とは思えない。
ガイルの復讐を肯定し、命を奪うことを受け入れた人間と――自分を抱きしめ、「大丈夫だ」と言ってくれた人間とが、エリスの中で重ならなかった。
アリィは、そんなエリスの戸惑いに気づかないまま、ベッドの脇に腰を下ろした。
「ほら、朝ごはん食べに行こうよ。みんな、もう食堂に集まってるよ」
いつもと変わらない声。いつもと変わらない笑顔。
だからこそ、エリスは何も言えなかった。
昨夜、どこにいたのか。何を話していたのか。
本当に、ガイルと一緒にレインたちを殺しに行くのか。
尋ねたいことは、いくつもあった。
けれど、声にしようとすると、喉の奥が塞がってしまう。
エリスはただ、アリィの顔を見つめていた。
その笑顔の奥に、何が隠されているのか。
知ることが、怖かった。
―――。
アリィに促されるまま、エリスは食堂へ向かった。
廊下を歩いている間も、足元がひどく覚束なかった。
身体に力が入らず、頭の中には昨夜の会話が何度も蘇ってくる。
――あたしは、ガイル様に賛成だ。
――私も。ガイル様を傷つけた奴らは許せないよ。
――私たちも同感。
耳の奥に残った声が、何度も何度も繰り返される。
食堂の扉を開けると、朝の喧騒がエリスを迎えた。
窓の外では雨が降り続いている。薄暗い空から差し込む光は弱く、食堂の中にはどこか重たい空気が漂っていた。それでも、テーブルの上には朝食が並べられている。
焼きたてのパン。香草の匂いが漂う肉料理。
そして、湯気を立てる暖かなスープ。
本来なら、冷えた身体を温めてくれるはずの食事だった。
けれど、エリスにはそのどれもが目に入らなかった。
アリィに促されるまま椅子へ腰を下ろし、目の前に置かれたスープを見つめる。
白い湯気がゆらゆらと立ち上り、鼻先をくすぐる。けれど、食欲は少しも湧いてこなかった。
手元に置かれたスプーンを握ることすらできない。指先が震えていた。
「エリス、少しでも食べたほうがいいよ」
隣に座ったアリィが、優しい声で言う。
エリスは返事をしなかった。視線を上げることもできなかった。
やがて、テーブルの上座に座っていたガイルが口を開いた。
「レインたちの居場所は、すでに掴んである」
その声を聞いた瞬間、エリスの肩が小さく跳ねた。
ガイルは、目の前の食事には一切手をつけず、地図を広げていた。そこには街の位置や街道、森の形が細かく書き込まれている。いくつかの場所には、赤い印までつけられていた。
「奴らが次に受ける依頼も調査済みだ。目的地はここから西へ向かった先にある鉱山跡。依頼を受けて移動する前に、こちらが先回りする」
「了解!」
アリィが、いつもの調子で答えた。
「任せてよ、ガイル様!」
「敵の人数は?」
シリアンが尋ねる。
「レインを含めて四人。前衛がレイン、魔法使いが一人、治癒術師が一人、弓使いが一人だ」
ガイルは淡々と説明を続けた。
その口調には、迷いも怒りも感じられなかった。
まるで、危険な魔獣の討伐依頼について話しているだけのようだった。
「なら、正面から潰せばいい」
アマンダが、スープを飲みながら言う。
「その程度なら、そう時間はかからないだろ」
「私たちも、ガイル様の指示に従う」
リアンが頷く。
「絶対に逃がさない」
エテルネルも続けた。
二人の声は、まるで重なり合うように響いた。
エリスは、目の前のスープを見つめたまま、耳だけを塞ぎたくなった。
今から、人を殺しに行く。そのための話をしている。
それなのに、誰も特別なことを話しているようには見えなかった。
声を荒らげる者もいない。躊躇う者もいない。恐怖に顔を歪める者もいない。
ただ、ひとつの依頼をこなすために、手順を確認しているだけ。
その異様さが、エリスには理解できなかった。
「……っ」
胸の奥が、大きく波打った。息が苦しい。喉の奥が焼けるように熱い。
何かが込み上げてくる。
エリスは慌てて口元を押さえた。
けれど、間に合わなかった。
「――おえっ」
胃の奥からせり上がったものが、激しく吐き出された。
食堂の空気が、一瞬で凍りつく。
「エリス!?」
アリィが椅子を蹴るように立ち上がった。
エリスは床に手をつき、何度も嘔吐した。胃の中にはほとんど何も入っていなかったため、吐き出されるのはわずかな液体ばかりだった。それでも、身体は止まらなかった。
喉が痛い。目の奥が熱い。息ができない。
「ちょ、エリス……!」
アリィはすぐに彼女の傍へしゃがみ込み、背中を支えた。
「大丈夫、大丈夫だから!」
そう言いながら、近くにあった布を手に取り、床へこぼれたものを急いで拭い始める。
シリアンも立ち上がり、エリスの背中へ手を添えた。
「ゆっくり息をしてください。無理に止めようとしなくていいです」
その手が、一定のリズムで背中を摩る。
けれど、エリスの身体は震え続けていた。
「ひっ……う、うぅ……!」
嗚咽が、喉の奥から途切れ途切れに漏れる。
何度も息を吸おうとするのに、胸がうまく膨らまない。涙が頬を伝い、床へ落ちていく。
「どうしたんだよ、急に……」
アマンダが戸惑ったように呟いた。
双子も、困惑した表情でエリスを見つめている。
「エリス……?」
「苦しいの……?」
誰も、どうして彼女が吐いたのか分かっていなかった。
いや――分かろうとしていなかったのかもしれない。
エリスは、震える身体をアリィとシリアンに支えられながら、ゆっくりと顔を上げた。
その視線の先に、ガイルがいた。
ガイルは椅子に座ったまま、エリスを見下ろしていた。
その瞳には、心配の色がなかった。冷たく、静かな目。
まるで、作戦会議を邪魔されたことを責めているような目だった。
エリスの胸が、さらに強く締めつけられた。
違う――ガイルは、そんなことを言っていない。怒鳴ってもいない。
ただ、こちらを見ているだけだ。
それなのに、エリスには分かった。そう思えてしまった。
――邪魔をするな。
――今は、お前のことを考えている場合ではない。
そんな言葉を、冷たい視線から勝手に感じ取ってしまう。
「……ご、ごめんなさい……」
エリスは、震える声で呟いた。
何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。
吐いたことか。泣いていることか。
それとも、殺すという決意を受け入れられないことか。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
ガイルは何も答えなかった。
その沈黙が、エリスには何よりも恐ろしかった。
「ガイル様……」
シリアンが、わずかに咎めるような声を出す。
けれど、ガイルは視線を地図へ戻した。
「話を続ける」
淡々とした声だった。
「鉱山跡へ向かう街道は二つある。奴らが使う可能性が高いのは北側の街道だ。アリィとシリアンは、俺とともに先行する。双子とアマンダは南側へ回り、逃走経路を塞げ」
「分かった!」
「任せて!」
返事が次々に上がる。
人を殺しに行くというのに。これから誰かの命を奪うというのに。
彼らは、いつもの依頼と変わらない様子で、ガイルの指示を受け入れていた。
その姿を見て、エリスは理解した。
自分だけが、この場から取り残されている。
自分だけが、この話の異常さに怯えている。
「……シリアンさん」
エリスは、かすかな声で彼女を呼んだ。
背中を摩っていたシリアンの手が、ほんの一瞬だけ止まる。
「どうしましたか、エリス?」
エリスは答えようとして、シリアンの顔を見た。そこで、初めて気づいた。
昨日まで、あれほど艶やかで美しかった黒髪。光を受けるたびに滑らかに輝いていたその髪に、数え切れないほどの白いものが混じっていた。
一本や二本ではない。
黒の中に、白が幾筋も走っている。
まるで、一晩のうちに何年もの時間が過ぎ去ったかのようだった。
「……え?」
エリスの視線に気づいたシリアンが、わずかに顔を逸らす。
その仕草で、エリスはさらに多くの異変に気づいた。
目の下には、濃い隈が浮かんでいる。唇は乾いてひび割れ、血が滲んでいた。
いつも姿勢を正し、冷静な表情を崩さないシリアンが、今は見るからに疲れ果てている。
それでも、彼女はエリスの背中を摩り続けていた。
まるで、自分の苦痛など存在しないかのように。
昨夜――一体、何があったのだろう。何を話し合ったのだろう。
ガイルは、仲間たちに何を告げたのだろう。
そして、シリアンは何を失ったのだろう。
エリスには、何も分からなかった。
ただひとつ分かったのは、昨夜の間に、何かが決定的に変わってしまったということだけだった。
エリスは、もう何も言えなかった。
何かを尋ねる気力も。誰かを止める勇気も。
自分の思いを伝える力も、残っていなかった。
ただ、祈ることしかできない。
これから起こる惨状に――。
誰かが命を落とす未来に――。
ほんの少しでも、別の道が残されていることを。
エリスは、声にならない願いを胸の奥で繰り返した。
どうか。どうか、まだ間に合いますように。
雨音だけが、食堂の静寂に重なっていた。




