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Herobrave's Hope -英雄たちが遺した希望-  作者: かげ2500
第1章 『プロローグ』

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第7話 死んだも同然

 翌朝――。


 エリスは、目を覚ましてからも、ベッドの上で身動きひとつ取れずにいた。


 薄いカーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。雨はまだ降り続いていた。昨夜ほど激しくはないものの、窓を叩く雨音は絶えることなく、湿った空気が部屋の中にまで入り込んでいるようだった。


 起きなければならない。

 そう思っているのに、身体が動かなかった。


 手足が重い。胸の奥には、冷たい何かが沈んでいる。息を吸うたび、それが肺の奥へと広がり、身体の内側から少しずつ体温を奪っていくような感覚があった。


 エリスは、ゆっくりと隣のベッドへ目を向けた。

 そこには、誰もいなかった。


「……アリィさん」


 掠れた声で名前を呼ぶが、返事はない。


 昨夜まで、確かに隣にあったはずの温もりも消えていた。掛け布団は乱れたままなのに、その下には人の気配がない。エリスが手を伸ばして触れてみると、ベッドはひどく冷たかった。


 まるで、氷のように。


「……いつから……?」


 指先に伝わる冷たさに、エリスは小さく身を震わせた。

 アリィは、いつ部屋を出ていったのだろう。


 昨夜、エリスが扉の向こうの会話を聞いたあとも、アリィは戻ってこなかった。少なくとも、エリスが眠りに落ちるまで、その姿を見ることはなかった。


 もしかすると――アリィは、一度も眠っていないのかもしれない。

 どこか別の部屋で、ガイルたちと話をしていたのだろうか。


 今日のことを。レインたちを殺しに行く、そのことを。


 エリスは、ぎゅっと毛布を握りしめた。

 何を話していたのか。どんな顔をしていたのか。

 ガイルの復讐を、どんな言葉で肯定していたのか。


 考えれば考えるほど、胸の奥が締めつけられた。


 聞きたくない。知りたくない。

 もう、何も聞きたくなかった。


 昨夜の会話を、すべて忘れてしまいたかった。

 扉の向こうから聞こえた声も、アリィの言葉も、双子の言葉も、アマンダの冷たい声も。


 そして、ガイルの「殺す」という言葉も。

 全部、夢だったことにしたかった。


「……もう、やめて」


 エリスは、毛布の中で小さく呟いた。

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 ガイルに向けたのかもしれない。

 アリィたちに向けたのかもしれない。

 それとも、この胸の奥で膨らみ続ける恐怖に向けたのかもしれない。


「もう……やめてよ……」


 そんな願いが叶うはずのないことくらい、エリスにも分かっていた。


 一度動き始めたものは、簡単には止まらない。

 ガイルは、もう決めてしまった。アリィたちも、その決意を支えると決めてしまった。

 ならば、エリスがどれほど願ったところで、何も変わらない。


 それでも、願わずにはいられなかった。

 誰も傷つかないでほしい。誰も死なないでほしい。

 また、いつものように笑っていてほしい。


 ただ、それだけだった。

 けれど、その願いは、エリスがこれまで抱いてきたどんな願いよりも、遠く感じられた。


「……怖い」


 喉の奥から、震えた声が漏れる。

 エリスは膝を抱え、身体を丸めた。


 あの屋敷で、父と母を奪われたときのことが脳裏に浮かぶ。

 血の匂い。冷たい床。聞こえていた母の叫び声。

 そして、目の前で命が消えていった瞬間。


 あのときも、エリスは何もできなかった。

 ただ、恐怖に震えていた。


 また同じことが起きるのだろうか。

 今度は、ガイルが誰かの命を奪う。

 あるいは、ガイル自身が命を奪われる。


 そう考えただけで、胸が張り裂けそうになった。


 エリスは、ベッドから起き上がろうとした。

 けれど、腕に力が入らない。身体を起こすことさえできなかった。


「……動いて」


 自分に言い聞かせるように、何度も呟く。


「起きなきゃ……」


 それでも、身体は言うことを聞かなかった。

 まるで、ベッドそのものに縫い付けられてしまったかのようだった。


 そのとき――。


「おっはよー!」


 勢いよく扉が開いた。

 湿った朝の空気を押しのけるように、明るく弾んだ声が部屋へ飛び込んでくる。


「エリス、起きてるー?」


 入ってきたのは、アリィだった。

 短い金髪を揺らし、いつもと変わらない笑顔を浮かべている。声も、表情も、普段と何ひとつ変わらない。

 まるで、昨夜など存在しなかったかのように。


「……アリィさん」


 エリスの唇から、名前がこぼれた。

 アリィはベッドの上で身を起こせずにいるエリスを見ると、ぱちりと目を瞬かせた。


「ん? どうしたの? まだ眠い?」


 そう言いながら、いつもの調子で近づいてくる。

 その笑顔が、今のエリスにはひどく眩しかった。


 昨夜、扉の向こうで聞いた声と同じ人とは思えない。

 ガイルの復讐を肯定し、命を奪うことを受け入れた人間と――自分を抱きしめ、「大丈夫だ」と言ってくれた人間とが、エリスの中で重ならなかった。


 アリィは、そんなエリスの戸惑いに気づかないまま、ベッドの脇に腰を下ろした。


「ほら、朝ごはん食べに行こうよ。みんな、もう食堂に集まってるよ」


 いつもと変わらない声。いつもと変わらない笑顔。

 だからこそ、エリスは何も言えなかった。


 昨夜、どこにいたのか。何を話していたのか。

 本当に、ガイルと一緒にレインたちを殺しに行くのか。


 尋ねたいことは、いくつもあった。

 けれど、声にしようとすると、喉の奥が塞がってしまう。


 エリスはただ、アリィの顔を見つめていた。

 その笑顔の奥に、何が隠されているのか。


 知ることが、怖かった。



 ―――。



 アリィに促されるまま、エリスは食堂へ向かった。


 廊下を歩いている間も、足元がひどく覚束なかった。

 身体に力が入らず、頭の中には昨夜の会話が何度も蘇ってくる。


 ――あたしは、ガイル様に賛成だ。

 ――私も。ガイル様を傷つけた奴らは許せないよ。

 ――私たちも同感。


 耳の奥に残った声が、何度も何度も繰り返される。

 食堂の扉を開けると、朝の喧騒がエリスを迎えた。


 窓の外では雨が降り続いている。薄暗い空から差し込む光は弱く、食堂の中にはどこか重たい空気が漂っていた。それでも、テーブルの上には朝食が並べられている。


 焼きたてのパン。香草の匂いが漂う肉料理。

 そして、湯気を立てる暖かなスープ。


 本来なら、冷えた身体を温めてくれるはずの食事だった。

 けれど、エリスにはそのどれもが目に入らなかった。


 アリィに促されるまま椅子へ腰を下ろし、目の前に置かれたスープを見つめる。

 白い湯気がゆらゆらと立ち上り、鼻先をくすぐる。けれど、食欲は少しも湧いてこなかった。


 手元に置かれたスプーンを握ることすらできない。指先が震えていた。


「エリス、少しでも食べたほうがいいよ」


 隣に座ったアリィが、優しい声で言う。

 エリスは返事をしなかった。視線を上げることもできなかった。


 やがて、テーブルの上座に座っていたガイルが口を開いた。


「レインたちの居場所は、すでに掴んである」


 その声を聞いた瞬間、エリスの肩が小さく跳ねた。


 ガイルは、目の前の食事には一切手をつけず、地図を広げていた。そこには街の位置や街道、森の形が細かく書き込まれている。いくつかの場所には、赤い印までつけられていた。


「奴らが次に受ける依頼も調査済みだ。目的地はここから西へ向かった先にある鉱山跡。依頼を受けて移動する前に、こちらが先回りする」


「了解!」


 アリィが、いつもの調子で答えた。


「任せてよ、ガイル様!」


「敵の人数は?」


 シリアンが尋ねる。


「レインを含めて四人。前衛がレイン、魔法使いが一人、治癒術師が一人、弓使いが一人だ」


 ガイルは淡々と説明を続けた。

 その口調には、迷いも怒りも感じられなかった。


 まるで、危険な魔獣の討伐依頼について話しているだけのようだった。


「なら、正面から潰せばいい」


 アマンダが、スープを飲みながら言う。


「その程度なら、そう時間はかからないだろ」


「私たちも、ガイル様の指示に従う」


 リアンが頷く。


「絶対に逃がさない」


 エテルネルも続けた。


 二人の声は、まるで重なり合うように響いた。

 エリスは、目の前のスープを見つめたまま、耳だけを塞ぎたくなった。


 今から、人を殺しに行く。そのための話をしている。

 それなのに、誰も特別なことを話しているようには見えなかった。


 声を荒らげる者もいない。躊躇う者もいない。恐怖に顔を歪める者もいない。

 ただ、ひとつの依頼をこなすために、手順を確認しているだけ。


 その異様さが、エリスには理解できなかった。


「……っ」


 胸の奥が、大きく波打った。息が苦しい。喉の奥が焼けるように熱い。

 何かが込み上げてくる。


 エリスは慌てて口元を押さえた。

 けれど、間に合わなかった。


「――おえっ」


 胃の奥からせり上がったものが、激しく吐き出された。

 食堂の空気が、一瞬で凍りつく。


「エリス!?」


 アリィが椅子を蹴るように立ち上がった。


 エリスは床に手をつき、何度も嘔吐した。胃の中にはほとんど何も入っていなかったため、吐き出されるのはわずかな液体ばかりだった。それでも、身体は止まらなかった。


 喉が痛い。目の奥が熱い。息ができない。


「ちょ、エリス……!」


 アリィはすぐに彼女の傍へしゃがみ込み、背中を支えた。


「大丈夫、大丈夫だから!」


 そう言いながら、近くにあった布を手に取り、床へこぼれたものを急いで拭い始める。

 シリアンも立ち上がり、エリスの背中へ手を添えた。


「ゆっくり息をしてください。無理に止めようとしなくていいです」


 その手が、一定のリズムで背中を摩る。

 けれど、エリスの身体は震え続けていた。


「ひっ……う、うぅ……!」


 嗚咽が、喉の奥から途切れ途切れに漏れる。

 何度も息を吸おうとするのに、胸がうまく膨らまない。涙が頬を伝い、床へ落ちていく。


「どうしたんだよ、急に……」


 アマンダが戸惑ったように呟いた。

 双子も、困惑した表情でエリスを見つめている。


「エリス……?」


「苦しいの……?」


 誰も、どうして彼女が吐いたのか分かっていなかった。

 いや――分かろうとしていなかったのかもしれない。


 エリスは、震える身体をアリィとシリアンに支えられながら、ゆっくりと顔を上げた。


 その視線の先に、ガイルがいた。

 ガイルは椅子に座ったまま、エリスを見下ろしていた。


 その瞳には、心配の色がなかった。冷たく、静かな目。

 まるで、作戦会議を邪魔されたことを責めているような目だった。


 エリスの胸が、さらに強く締めつけられた。


 違う――ガイルは、そんなことを言っていない。怒鳴ってもいない。

 ただ、こちらを見ているだけだ。


 それなのに、エリスには分かった。そう思えてしまった。


 ――邪魔をするな。

 ――今は、お前のことを考えている場合ではない。


 そんな言葉を、冷たい視線から勝手に感じ取ってしまう。


「……ご、ごめんなさい……」


 エリスは、震える声で呟いた。

 何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。


 吐いたことか。泣いていることか。

 それとも、殺すという決意を受け入れられないことか。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 ガイルは何も答えなかった。

 その沈黙が、エリスには何よりも恐ろしかった。


「ガイル様……」


 シリアンが、わずかに咎めるような声を出す。

 けれど、ガイルは視線を地図へ戻した。


「話を続ける」


 淡々とした声だった。


「鉱山跡へ向かう街道は二つある。奴らが使う可能性が高いのは北側の街道だ。アリィとシリアンは、俺とともに先行する。双子とアマンダは南側へ回り、逃走経路を塞げ」


「分かった!」


「任せて!」


 返事が次々に上がる。

 人を殺しに行くというのに。これから誰かの命を奪うというのに。

 彼らは、いつもの依頼と変わらない様子で、ガイルの指示を受け入れていた。


 その姿を見て、エリスは理解した。

 自分だけが、この場から取り残されている。

 自分だけが、この話の異常さに怯えている。


「……シリアンさん」


 エリスは、かすかな声で彼女を呼んだ。

 背中を摩っていたシリアンの手が、ほんの一瞬だけ止まる。


「どうしましたか、エリス?」


 エリスは答えようとして、シリアンの顔を見た。そこで、初めて気づいた。

 昨日まで、あれほど艶やかで美しかった黒髪。光を受けるたびに滑らかに輝いていたその髪に、数え切れないほどの白いものが混じっていた。


 一本や二本ではない。

 黒の中に、白が幾筋も走っている。


 まるで、一晩のうちに何年もの時間が過ぎ去ったかのようだった。


「……え?」


 エリスの視線に気づいたシリアンが、わずかに顔を逸らす。

 その仕草で、エリスはさらに多くの異変に気づいた。


 目の下には、濃い隈が浮かんでいる。唇は乾いてひび割れ、血が滲んでいた。

 いつも姿勢を正し、冷静な表情を崩さないシリアンが、今は見るからに疲れ果てている。


 それでも、彼女はエリスの背中を摩り続けていた。

 まるで、自分の苦痛など存在しないかのように。


 昨夜――一体、何があったのだろう。何を話し合ったのだろう。

 ガイルは、仲間たちに何を告げたのだろう。

 そして、シリアンは何を失ったのだろう。


 エリスには、何も分からなかった。

 ただひとつ分かったのは、昨夜の間に、何かが決定的に変わってしまったということだけだった。


 エリスは、もう何も言えなかった。

 何かを尋ねる気力も。誰かを止める勇気も。

 自分の思いを伝える力も、残っていなかった。


 ただ、祈ることしかできない。


 これから起こる惨状に――。

 誰かが命を落とす未来に――。


 ほんの少しでも、別の道が残されていることを。

 エリスは、声にならない願いを胸の奥で繰り返した。


 どうか。どうか、まだ間に合いますように。

 雨音だけが、食堂の静寂に重なっていた。

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