第6話 雨の中の絶望
あの騒動から、数日が過ぎた。
その間、ガイルたちは一度も依頼を受けなかった。
正確には、ガイルが受けさせなかった。
レインと再会したあの日から、彼は仲間たちに数日間の休暇を言い渡した。理由を尋ねても、ガイルは「少し休め」としか答えなかった。
それ以上、何かを語ることもなかった。
そして今日、久しぶりに全員が宿の一室へ集められていた。
部屋の中央には、簡素な木製の机が置かれている。その周囲を囲むように、ガイルたちはそれぞれ椅子へ腰を下ろしていた。
ガイルは、机の上に肘をつくこともなく、背筋を伸ばして座っている。
シリアンは彼の正面。アリィはその隣。
リアンとエテルネルは並んで座り、アマンダは腕を組みながら椅子の背もたれに身体を預けていた。
そしてエリスは、ガイルから少し離れた場所に座っていた。
誰も、口を開こうとしなかった。
部屋の中には、重苦しい沈黙が横たわっている。
窓の外では、激しい雨が降り続いていた。
無数の雨粒が屋根や窓ガラスを叩き、絶え間ない音を響かせている。時折、遠くで雷が轟いた。
その音は、空の彼方で巨大な何かが身じろぎしているようだった。
大地そのものが軋み、ゆっくりと移動している。そんな錯覚さえ覚えるほどの轟音だった。
エリスは膝の上で両手を握り締めた。
数日前の出来事が、頭から離れない。
路地裏で壁を砕いたガイル。怒りに震えた声。
そして、自分へ向けられた鋭い眼差し。
あのときから、ガイルとまともに目を合わせることができなくなっていた。
怖いと、そう思ってしまった自分が、嫌だった。
ガイルは、自分を救ってくれた人だ。
暗い地下牢から引きずり出し、死にかけていた命を繋いでくれた。
何も知らなかった自分に言葉を教え、文字を教え、魔法を教えてくれた。
初めて見る景色を、初めて食べる料理を、初めて知る温もりを与えてくれた。
そんな人を、怖いと思うはずがない。
そう思いたかった。
けれど、あの日のガイルの姿は、どうしても脳裏から消えてくれなかった。
「……」
アリィもまた、ガイルの様子を窺っていた。
いつもなら、沈黙に耐えきれず何かしら軽口を叩く彼女が、今日は一言も発しない。
シリアンは眼鏡の位置を直しながら、何度もガイルの顔を見ては視線を逸らしている。
双子のリアンとエテルネルも、互いの手を握ったまま、じっと黙り込んでいた。
アマンダでさえ、いつものように苛立ちを口にすることはなかった。
誰もが、ガイルの言葉を待っている。
けれど、ガイルもまた、口を閉ざしていた。
ただ、窓の外で降り続ける雨を見つめている。
その横顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
怒っているようにも見えない。悲しんでいるようにも見えない。
ただ、何かを決めてしまった人間の顔だった。
エリスは、胸の奥に嫌な予感を覚えた。
やがて――。
「――っ」
ガイルの口が、わずかに開いた。
全員の視線が、彼へ集まる。
ガイルはしばらく黙ったまま、机の上に置かれた自分の手を見つめていた。
その指先には、かすかな傷跡が残っている。
数日前、石壁を殴りつけたときについたものだろう。傷はすでに塞がっていた。
けれど、その拳を握り締める動きだけは、どこか不自然なほどゆっくりだった。
そして、ガイルは顔を上げた。
「……明日」
低い声だった。
雨音にかき消されそうなほど静かな声。
それでも、誰も聞き逃さなかった。
「明日、レインたちを殺す」
その一言が、部屋の中へ落ちた。
瞬間――空気が凍りついた。
窓の外では、変わらず雨が降っている。雷も鳴っている。
けれど、エリスにはそれらの音が、突然遠ざかったように感じられた。
何も聞こえない。
目の前にいるガイルの声だけが、頭の中で何度も繰り返されている。
――レインたちを殺す。
殺す。人を。レインを。
エリスは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
理解したくなかったのかもしれない。
「……え?」
喉の奥から、かすれた声が漏れた。
ガイルは、何事もなかったかのように座っている。
まるで、明日の天気について話しただけのような、平然とした表情だった。
エリスにとって、「殺す」という言葉は、どんな罵倒や暴言よりも重かった。
地下牢で死を待っていたとき。父が殺されたとき。母が目の前で斬首されたとき。
命が奪われる瞬間を、エリスは知っている。
それは、決して簡単な言葉ではなかった。
誰かの人生を終わらせること。
その人が見ていた景色も、抱いていた思いも、これから迎えるはずだった未来も、すべてを断ち切ること。
それを、ガイルは今、あまりにも淡々と口にした。
「が、ガイル様……?」
シリアンが、信じられないものを見るような顔で彼の名を呼んだ。
声が震えていた。
いつもなら、どんな状況でも冷静に判断し、仲間を導く彼女が、明らかに動揺している。
ガイルはシリアンへ視線を向けた。
「なんだ?」
その声は、いつもと変わらなかった。
「何か作戦でも思いついたか?」
「い、いえ……そういうことではなく……その……」
シリアンの唇が、何度も言葉を探すように動く。
しかし、すぐには続きが出てこなかった。
ガイルは首を傾げる。
「なら、何だ?」
「……」
シリアンは、眼鏡の奥からガイルを見つめた。
そこに浮かんでいるのは、困惑だけではない。恐怖だった。
ガイルが怒鳴ったときに見せた怯えとは違う。
これから何か取り返しのつかないことが起きるのではないかという、漠然とした恐怖。
「本当に……」
シリアンは、震える声で言った。
「本当に、彼を……」
そこで言葉が途切れる。
喉に引っかかった言葉を、無理やり飲み込もうとするように、シリアンは唇を噛んだ。
「……いえ」
一度、視線を落とす。
そして、覚悟を決めるように顔を上げた。
「本当に、彼を……手に掛けるのですか?」
その言葉が発せられた瞬間、再び沈黙が部屋を覆った。
誰も、ガイルの返答を急かさなかった。
雨音だけが、窓の外で激しく鳴り続けている。
ガイルはシリアンを見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、彼はゆっくりと口を開く。
「……ああ」
短い返事だった。
迷いも、躊躇いもない。
その声を聞いた瞬間、エリスの胸の奥で、何かが大きく崩れ落ちた。
あの優しかったガイルが。自分を救ってくれたガイルが。誰かを助けるために旅をしていたガイルが。
今、誰かの命を奪おうとしている。
エリスは、膝の上で握り締めた手に、さらに力を込めた。
爪が皮膚へ食い込む。痛みはあった。
けれど、その痛みさえも、今は遠く感じられた。
ガイルの目には、何が映っているのだろう。
レインへの憎しみか。過去への怒りか。
それとも――自分たちには決して見せない、もっと深い闇なのか。
エリスには、分からなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
ガイルは、もう後戻りするつもりがない。
そう思わせるほど、彼の声は静かで、冷たかった。
―――。
その日の夜――エリスは、ふと目を覚ました。
重い瞼を擦りながら、ゆっくりと上体を起こす。薄暗い室内には、夜の冷気が漂っていた。
窓の外からは、絶え間なく降り続ける雨の音が聞こえている。先ほどまで激しく屋根を叩いていた雨は、今では幾分か勢いを弱めていた。
けれど、静かになったわけではない。
一定の間隔で響く雨音が、かえって夜の静寂を際立たせていた。
「……アリィさん?」
寝ぼけた声で呼びかける。返事はなかった。
エリスは隣の寝台へ視線を向けた。そこにいるはずの少女の姿はない。乱れた毛布だけが残されており、先ほどまで誰かが眠っていた気配だけが、かすかに残っていた。
いつもなら、アリィは隣にいる。
宿を借りるとき、エリスは決まってアリィと同じ部屋で過ごしていた。女同士であることに加え、二人で一部屋を使えば宿代を節約できる。そして何より、エリス自身がアリィを慕っていたからだ。
剣を振るう姿は凛々しく、誰よりも明るく、どんなときでも周囲に笑顔を振りまく。
エリスにとって、アリィは憧れそのものだった。
けれど、この数日間だけは、その明るさが少し違って見えていた。
ガイルのことを深く考えすぎてしまうエリスに、アリィはずっと寄り添ってくれていた。
「考えすぎだよ、エリス」
そう言って、優しく頭を撫でてくれた。
「ガイル様だって、きっとまたいつものガイル様に戻ってくれるって」
そして、不安で震えるエリスの身体を、そっと抱きしめてくれた。
その腕は温かかった。
その温もりに包まれている間だけは、胸の奥で膨らみ続けていた不安が、少しずつ薄れていくような気がした。アリィの鼓動を聞き、柔らかな体温を感じているうちに、エリスはようやく眠りにつくことができたのだ。
けれど――不安が消えたわけではなかった。
ガイルの冷たい声。怒りに歪んだ表情。
そして、何の迷いもなく告げられた言葉。
――明日、レインたちを殺す。
その言葉は、眠りに落ちたあとも、エリスの心の奥にこびりついていた。
だからこそ、今、アリィがいないことが恐ろしかった。
眠りにつくまで、ずっと傍にいてくれたはずのアリィが。
「……どこに行ったの?」
小さく呟きながら、エリスは寝台から降りた。
裸足のまま床に触れると、ひやりとした冷たさが足裏を伝った。部屋の隅には、脱ぎ捨てられた靴と、畳まれた衣服が置かれている。いつもなら見慣れているはずの光景なのに、今夜はどこかよそよそしく感じられた。
エリスは胸元を押さえた。
心臓が、早鐘のように鳴っている。
どうして、こんなに不安なのだろう。
アリィはすぐ戻ってくるかもしれない。少し用事があるだけかもしれない。ガイルやほかの仲間たちと、何か話をしているだけかもしれない。
そう考えようとしても、胸の奥に生まれた嫌な予感は、消えてくれなかった。
窓の外では、雨が降り続いている。
雲の向こうで雷が鳴った。遠く、くぐもった音だった。
エリスは窓辺に近づき、暗い外を見つめた。
明日――本当に、ガイルはレインとその仲間たちを殺しに行くのだろうか。
それは、ただの怒りに任せた言葉ではなかった。あのときのガイルの声には、決意があった。
長い間、胸の奥に押し込めていたものを、ようやく吐き出すような――そんな恐ろしさがあった。
「……いや」
エリスは、かすかに首を振った。
考えたくなかった。
誰かが誰かを殺すことも、ガイルが人を殺すことも。
そして、ガイルが殺されてしまうことも。
脳裏に、かつての光景が蘇る。
血に濡れた父の姿。首を失った母の身体。
あの屋敷で見た、決して忘れることのできない光景。
殺すという言葉は、エリスにとって、ただの言葉ではなかった。
それは、大切なものを奪い、二度と戻らない場所へと追いやる行為だった。
「……ガイル様」
唇から、震えた声が漏れる。
そのとき――。
「――」
扉の向こうから、誰かの話し声が聞こえた。
エリスは、びくりと肩を震わせた。
耳を澄ます。
雨音に紛れていた声が、少しずつはっきりと聞こえてきた。
「あたしは、ガイル様に賛成だ」
その声を聞いた瞬間、エリスの身体が強張った。
アマンダの声だった。
エリスは扉へ目を向けた。部屋の外に、アマンダがいる。
それだけなら、何もおかしくはない。けれど、その言葉の意味が、エリスの胸を締めつけた。
ガイルに賛成する。
それはつまり――。
「……」
エリスは、扉へ伸ばしかけた手を止めた。
開けてはいけない。なぜか、そう思った。
扉の向こうにいるのは、いつもの仲間たちだ。いつも笑い合い、食事をともにし、旅を続けてきた人たちだ。
それなのに、今はその向こう側が、ひどく遠い場所に感じられた。
「私も。ガイル様を傷つけた奴らは許せないよ」
続いて聞こえてきた声に、エリスの呼吸が止まった。
アリィの声だった。
「――っ」
喉の奥から声が漏れそうになる。
エリスは慌てて両手で口を覆った。
アリィも、ガイルに賛成している。
レインたちを殺すことに。
さっきまで自分を抱きしめ、「いつものガイル様に戻ってくれる」と言ってくれたアリィが――。
「私たちも同感」
さらに、双子の声が重なった。
「シリアンは、少し怖がりすぎ」
「ガイル様がどれだけ苦しんできたか、私たちは知っているもの」
リアンとエテルネル。
二人の声まで聞こえてきた。
エリスの指先が、細かく震え始める。
扉一枚を隔てた向こう側で、仲間たちは同じ考えを口にしている。
ガイルを傷つけた者たちを許さない。ガイルの復讐を認める。
誰も、止めようとはしていない。
いや――止めようとしているのは、シリアンだけなのかもしれない。
「でも……本当に、それでいいのでしょうか」
シリアンの声が聞こえた。
いつもの落ち着いた声音ではなかった。そこには、隠しきれない不安と戸惑いが滲んでいる。
「あの方たちを殺してしまえば、ガイル様は……もう、戻れなくなるかもしれません」
「戻る必要なんてないだろ」
アマンダが吐き捨てるように言った。
「ガイル様は、あいつらに”一度殺された”んだ。だったら、今度はこっちが殺したって、何が悪い?」
その言葉が、エリスの胸に突き刺さった。
一度、殺された。
ガイルは、かつて仲間たちに見捨てられた。
魔獣の森に置き去りにされ、死んだものとして扱われた。
それがどれほど恐ろしく、苦しいことなのか――エリスには想像することしかできない。
けれど、だからといって。
だからといって、人を殺していいのだろうか。
エリスには、分からなかった。
「ガイル様は、ずっと耐えてきた」
アリィの声が続く。
「ずっと、何も言わずに私たちを守ってくれた。私たちが今こうして生きていられるのだって、ガイル様のおかげなんだよ」
「だから、今度は私たちがガイル様を支える」
双子の声が重なった。
「どこまでも」
「最後まで」
エリスは、扉の前で立ち尽くしていた。
足が動かない。
扉を開けて、仲間たちに問いかければいい。
どうして、そんなことを言うのか。
どうして、ガイルを止めないのか。
どうして、殺すことを怖いと思わないのか。
そう尋ねればいいだけなのに――。
手は、扉の取っ手へ伸びなかった。
怖かった。
扉を開けた先で、アリィたちが自分とは違う顔をしているような気がした。
いつも笑っているアリィも。
口が悪いけれど優しいアマンダも。
仲良く寄り添う双子も。
眼鏡の奥から静かに皆を見つめるシリアンも。
みんな、エリスにとって大切な人たちだった。
けれど今、その大切な人たちの心の中に、自分には理解できない何かがある。
それが、たまらなく恐ろしかった。
扉の向こうで、誰かが椅子を引く音がした。
続いて、低い声が響く。
「明日、私たちはガイル様と一緒に行く」
アリィだった。
「そして、あいつらに償わせる。ガイル様が受けた苦しみを、命で」
エリスは、ゆっくりと後ずさった。
背中が壁に触れる。
冷たい感触が、衣服越しに伝わってきた。
「……いや」
今度は、はっきりと声になった。
小さな、小さな呟きだった。
けれど、その声を聞く者は誰もいない。
エリスは両手で胸元を押さえた。
心臓が、壊れてしまいそうなほど激しく鳴っている。
明日、ガイルは人を殺す。
アリィたちも、その隣に立つ。
そして自分は――。
エリスは、扉の向こうにいる仲間たちを見つめた。
その向こうには、エリスが初めて知った世界がある。
温かな食事。柔らかな寝台。笑い声。優しい言葉。
そして、家族のような人たち。
そのすべてが、今はひどく遠く感じられた。
まるで、扉一枚を隔てて、別の世界に閉じ込められてしまったかのように。
エリスは声を殺し、震える身体を抱きしめた。
雨音だけが、夜の宿に降り続いていた。




