第5話 違和感
酒場を出たガイルは、誰もいない路地裏へと足を踏み入れた。
夜の街は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。建物と建物の隙間に挟まれた細い路地には、月明かりさえ十分に届かない。
湿った石畳の上には、酒場から流れてきた料理の匂いと、夜風に混じった冷たい空気が漂っていた。
その奥で、ガイルは立ち止まった。
「……ガイル様?」
後ろから呼びかけたアリィの声に、ガイルは振り返らなかった。
ただ、目の前にある古びた石壁を見つめている。
その背中からは、先ほどまで酒場で見せていた穏やかな雰囲気が、完全に消え失せていた。
「ガイル様、どうしたのよ?」
シリアンが心配そうに声をかける。
しかし、ガイルは答えなかった。
握り締めた拳が、かすかに震えている。
その震えは、怒りによるものなのか。それとも、抑えきれない何かを必死に押し殺しているのか。
エリスには分からなかった。
ただ、ガイルの周囲に漂う空気が、明らかに変わっていることだけは理解できた。
重い。息が詰まる。
肌に見えない刃を押し当てられているような、鋭く冷たい気配。
それは、これまでエリスがガイルから感じたことのないものだった。
「……ガイル様」
アリィが、少しだけ声を落とす。
「落ち着いて。あいつはもう行ったんだ。今さら追いかけたって――」
「……」
ガイルは、ゆっくりと拳を持ち上げた。
そして次の瞬間。
「――ッ!」
轟音が、静かな路地裏に響き渡った。
ガイルの拳が、目の前の石壁へ叩きつけられたのだ。
たった一振り、それだけだった。
にもかかわらず、拳のめり込んだ箇所を中心に、石壁へ大きな亀裂が走った。乾いた音を立てながら、壁の一部が崩れ落ち、砕けた石片が足元へ転がっていく。
「ガイル様!?」
アリィが思わず声を上げる。
だが、ガイルは拳を壁から引き抜くと、再び振り上げた。
「やめて!」
シリアンが叫ぶ。
「ガイル様、落ち着いてください!」
「落ち着け……?」
ガイルの肩が、大きく上下した。
低く押し殺された声が、路地裏に響く。
「落ち着けだと……?」
その声には、怒りだけではなかった。
憎悪。悔恨。
そして、何年もの間、心の奥底に沈め続けてきた傷が滲んでいた。
ガイルはゆっくりと振り返った。
その目を見た瞬間、エリスの身体が強張る。
「お前ら……誰にものを言ってる!?」
怒声が、夜の闇を震わせた。
いつものガイルからは想像もつかないほどの激しい声だった。
エリスは反射的に両手で耳を塞いだ。
身体が勝手に動いていた。
怒鳴り声。荒々しい足音。誰かの命乞い。
暗い地下牢で何度も聞いた、恐怖を呼び起こす音。
それらが、記憶の底から一気に蘇ってくる。
「……っ」
息が苦しい。
胸の奥が締めつけられ、指先が冷たくなっていく。
目の前にいるのは、あの優しいガイルのはずだった。
自分を暗闇から救い出してくれた人。何も知らなかった自分に、言葉を教えてくれた人。魔導書を買ってくれた人。初めて魔法を使えたとき、誰よりも嬉しそうに笑ってくれた人。
そのガイルが、今はまるで別人のように怒り狂っている。
「……エリス」
不意に、名前を呼ばれた。
エリスの肩が跳ねる。
ガイルは、先ほどまでの怒気をわずかに残したまま、エリスを見つめていた。
「今のは……なんだ?」
「え……?」
「なぜ耳を塞いだ?」
「な、なんでって……」
声が震えた。
ガイルの顔を見られない。
怖い。そう思ってしまったことが、何よりも苦しかった。
ガイルは、自分にとって恐れる必要のない人だった。
それなのに今は、目を合わせることすらできない。
「……」
ガイルが何かを言おうとした。
だが、その前にアリィが一歩進み出た。
「ガイル様。エリスに当たらないで」
「当たってねぇだろ」
「そういう問題じゃない」
アリィの声は、いつもの明るさを失っていた。
彼女はガイルを睨むように見つめている。
しかし、その目の奥には怒りよりも、深い心配が浮かんでいた。
シリアンもまた、怯えを隠しきれないまま、ガイルの傍へ歩み寄る。
眼鏡の奥の瞳は揺れていた。
それでも彼女は、逃げようとはしなかった。
「今日はもう……宿に戻って休みましょう?」
優しく、静かな声だった。
「少し疲れているんですよ。あの男のことは、今は考えなくてもいいですから」
ガイルは答えなかった。
拳を握ったまま、俯いている。
やがて、長い息を吐いた。
「……そう、だな」
その声からは、先ほどの激しさが消えていた。
「酔いも覚めちまったよ」
アマンダが呆れたように言いながら、腰に手を当てる。
いつもの悪態に近い口調だったが、その表情は険しかった。
リアンとエテルネルも、互いに顔を見合わせている。
二人とも、何かを知っている。何かを知っているのに、エリスには話そうとしない。
そんな気がした。
「……帰るぞ」
ガイルが、崩れた石壁から目を逸らす。
その横顔は、ひどく疲れていた。
怒りをぶつけたことで、少しは楽になったのだろうか。
それとも、胸の奥にあるものをさらに深く抉ってしまったのだろうか。
エリスには分からなかった。
ただ、誰も口を開かないまま、彼の後を追った。
その夜――それ以上、何かが起きることはなかった。
けれど、エリスの胸には、消えることのない疑問が残った。
レインという男は、ガイルに何をしたのか。
なぜ、あの男の姿を見ただけで、ガイルはあそこまで変わってしまったのか。
そして――。
自分は、ガイルの何を知らないのだろうか。
―――。
翌朝。
エリスが宿の食堂で朝食を取っていると、アリィが声をかけてきた。
「エリス。ちょっと、いいか?」
「……はい」
呼ばれた理由は、なんとなく分かっていた。
昨夜のことだ。
ガイルの怒声。壁を砕いた拳。そして、あの目。
エリスは一晩中、その光景を忘れられなかった。
アリィに案内されたのは、宿の裏手にある小さな中庭だった。
朝の空気は冷たく、まだ太陽も十分に昇っていない。濡れた草の先には朝露が残り、遠くから街の目覚めを告げる音が聞こえていた。
アリィはしばらく黙ったまま、空を見上げていた。
やがて、静かに口を開く。
「昨日のこと……気になってるんだろ?」
エリスは答えなかった。答えられなかった。
アリィはそんなエリスを見て、小さく息を吐く。
「無理もない。あんなガイル様を見たのは、エリスは初めてだったんだろうからね」
「……アリィさんたちは、知っているんですか?」
「何を?」
「その……ガイル様の、過去を」
その問いに、アリィの表情がわずかに曇った。すぐには答えなかった。
風が吹き抜け、彼女の短い金髪を揺らす。
「……ああ。知ってる」
その一言が、エリスの胸を重くした。
「ガイル様は昔、あの男の……レインのパーティーに所属していた」
「昔の……パーティー」
「そうだ」
アリィは腕を組み、遠くへ視線を向けた。
「数年前の話だ。ガイル様は、あいつらと一緒に冒険者をしていた。今よりもずっと若くて、まだ経験も浅かったらしいけどな」
「それなら……どうして?」
「追放されたんだ」
エリスは目を瞬かせた。
「追放……?」
「ただの追放じゃない」
アリィの声が低くなる。
「ガイル様は、魔獣が蔓延る森に置き去りにされた」
朝の風が、急に冷たく感じられた。
「……置き去り?」
「ああ。あいつらはガイル様を森の奥へ連れて行って、そこで捨てた。助けるつもりなんて、最初からなかったんだろうな」
「そんな……」
「その後、レインたちはギルドに戻って、ガイル様は魔獣に襲われて殉職したと報告した」
アリィは淡々と話していた。
だが、その声の奥には、抑えきれない怒りがあった。
「仲間を見捨てた挙げ句、死んだことにした。そういうことだ」
エリスは言葉を失った。
森の中に、一人で置き去りにされる。
周囲には魔獣がいる。助けを呼んでも、誰も来ない。暗闇の中で、死を待つしかない。
それがどれほど恐ろしいことなのか、エリスには想像することしかできなかった。
けれど、地下牢で死を待っていた自分の記憶が、脳裏に浮かんだ。
誰も助けに来ない。誰も自分の存在を知らない。
ただ、ゆっくりと命が消えていくのを待つだけ。
「……ガイル様は、助かったんですよね?」
「ああ」
アリィは頷いた。
「死の間際、ガイル様は一振りの『神器』を拾った」
「神器……?」
「詳しいことは、私も知らない。どこで、どうやって手に入れたのか。ガイル様自身も、あまり話したがらないからな」
アリィは一度、言葉を選ぶように口を閉じた。
「ただ、その神器のおかげで、ガイル様は生き延びた」
死ぬはずだった。
誰にも知られず、誰にも看取られず、森の奥で朽ち果てるはずだった。
それでもガイルは生き残った。生き残ってしまった。
エリスは、そんなふうに感じた。
「……それから、ガイル様は一人で旅をしていた」
アリィは続けた。
「行く先々で、困っている人を助けていたらしい。魔獣に襲われている村を救ったり、盗賊に捕まった人を助けたり……死ななくていい人間が死ぬのを、見ていられなかったんだろうな」
その言葉に、エリスの胸が締めつけられた。
死ななくていい人が死ぬのは、見ていられない。その思いがあったからこそ、ガイルはエリスを救った。
地下牢の奥で、誰にも気づかれず、死を待っていた自分を。
「……私も、その一人なんですね」
エリスが呟くと、アリィは静かに頷いた。
「そうだ」
「ガイル様に助けられた……」
「私も、シリアンも、リアンもエテルネルも、アマンダも。みんな、ガイル様に命を救われた」
アリィは、拳を軽く握った。
「だから私たちは、彼の傍にいる」
「……」
「ガイル様は、たくさんの人間を助けてきた。けど……その分、彼の心は擦り切れている」
アリィの声が、わずかに震えた。
「誰かを助けることで、自分の中にあるものを忘れようとしているのかもしれない。自分が見捨てられたことも、殺されたことにされたことも……全部、誰かを救うことで埋めようとしているのかもしれない」
エリスは黙って聞いていた。
アリィの言葉は、優しかった。
ガイルを理解しようとしている。
ガイルを支えようとしている。
その気持ちは、エリスにも分かった。
「だから、私たちが支えるしかないんだ」
アリィは、エリスをまっすぐに見つめた。
「ガイル様は、私たちを救ってくれた。今度は、私たちが支える番だ」
その言葉に、エリスは頷きかけた。
確かに、ガイルの昔の仲間たちは酷いことをした。仲間を森に置き去りにし、死んだことにした。
それは、決して許されることではない。
ガイルは、そんな過去を乗り越えた。
誰かを憎み続けるのではなく、たくさんの人を助ける道を選んだ。
エリスも、その中の一人だった。
ガイルがいなければ、自分はとうの昔に死んでいた。
だからこそ、ガイルには幸せになってほしい。これ以上、苦しんでほしくない。
そう思うのは当然だった。
それなのに――。
エリスの胸の奥には、どうしても拭えない違和感が残っていた。
昨夜、ガイルから感じたもの。
あの殺気。あの怒声。壁へ叩きつけられた拳。
あれは、ただ過去の傷を思い出した人間の反応だったのだろうか。
本当に、そうなのだろうか。
「……アリィさん」
「ん?」
「ガイル様は……本当に、立ち直ったんですか?」
アリィの眉が、わずかに動いた。
「どういう意味?」
「いえ……」
エリスは俯いた。
うまく言葉にできない。
ガイルは優しい。
誰よりも優しくて、強くて、たくさんの人を救ってきた。
けれど、昨夜のガイルは違った。
あの男を見た瞬間、まるで心の奥に封じていた何かが、無理やり引きずり出されたようだった。
怒りだけではない。憎しみだけでもない。
もっと深く、もっと暗い何か。
あれは、傷ついた人間が見せる感情なのだろうか。
それとも――。
「……何でもありません」
エリスは、そう答えるしかなかった。
アリィはしばらくエリスを見つめていたが、やがて優しく笑った。
「大丈夫だ。ガイル様はもう、昔のガイル様じゃない」
その言葉を聞いても、エリスの胸は軽くならなかった。
アリィたちは、ガイルの過去を知っている。
ガイルがどれほど苦しみ、どれほど多くの人を救ってきたのかも知っている。
だからこそ、彼のことを信じているのだろう。
けれど――エリスは、昨夜のガイルを見た。
あの目を。あの声を。
あの、すべてを壊してしまいそうな気配を。
アリィたちは、気づいていないのだろうか。
それとも、気づいていても、見ないふりをしているのだろうか。
分からない。分からないことが、怖かった。
エリスは胸の前で、ぎゅっと手を握り締めた。
救われたはずだった。
新しい家族に出会い、言葉を覚え、魔法を覚え、少しずつ世界を知っていった。
もう、暗い地下牢に戻ることはない。
そう思っていた。
けれど今、エリスの目の前には、別の暗闇が広がっている。
それは、ガイルという人間の心の奥にある暗闇だった。
そしてエリスは、その暗闇の正体を知らない。
知らないまま、ガイルの傍にいていいのか。
それとも――知らなければならないのか。
答えは、どこにも見つからなかった。




