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Herobrave's Hope -英雄たちが遺した希望-  作者: かげ2500
第1章 『プロローグ』

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第5話 違和感

 酒場を出たガイルは、誰もいない路地裏へと足を踏み入れた。


 夜の街は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。建物と建物の隙間に挟まれた細い路地には、月明かりさえ十分に届かない。

 湿った石畳の上には、酒場から流れてきた料理の匂いと、夜風に混じった冷たい空気が漂っていた。


 その奥で、ガイルは立ち止まった。


「……ガイル様?」


 後ろから呼びかけたアリィの声に、ガイルは振り返らなかった。

 ただ、目の前にある古びた石壁を見つめている。


 その背中からは、先ほどまで酒場で見せていた穏やかな雰囲気が、完全に消え失せていた。


「ガイル様、どうしたのよ?」


 シリアンが心配そうに声をかける。

 しかし、ガイルは答えなかった。


 握り締めた拳が、かすかに震えている。

 その震えは、怒りによるものなのか。それとも、抑えきれない何かを必死に押し殺しているのか。


 エリスには分からなかった。

 ただ、ガイルの周囲に漂う空気が、明らかに変わっていることだけは理解できた。


 重い。息が詰まる。

 肌に見えない刃を押し当てられているような、鋭く冷たい気配。


 それは、これまでエリスがガイルから感じたことのないものだった。


「……ガイル様」


 アリィが、少しだけ声を落とす。


「落ち着いて。あいつはもう行ったんだ。今さら追いかけたって――」


「……」


 ガイルは、ゆっくりと拳を持ち上げた。

 そして次の瞬間。


「――ッ!」


 轟音が、静かな路地裏に響き渡った。

 ガイルの拳が、目の前の石壁へ叩きつけられたのだ。


 たった一振り、それだけだった。

 にもかかわらず、拳のめり込んだ箇所を中心に、石壁へ大きな亀裂が走った。乾いた音を立てながら、壁の一部が崩れ落ち、砕けた石片が足元へ転がっていく。


「ガイル様!?」


 アリィが思わず声を上げる。

 だが、ガイルは拳を壁から引き抜くと、再び振り上げた。


「やめて!」


 シリアンが叫ぶ。


「ガイル様、落ち着いてください!」


「落ち着け……?」


 ガイルの肩が、大きく上下した。

 低く押し殺された声が、路地裏に響く。


「落ち着けだと……?」


 その声には、怒りだけではなかった。


 憎悪。悔恨。

 そして、何年もの間、心の奥底に沈め続けてきた傷が滲んでいた。


 ガイルはゆっくりと振り返った。

 その目を見た瞬間、エリスの身体が強張る。


「お前ら……誰にものを言ってる!?」


 怒声が、夜の闇を震わせた。

 いつものガイルからは想像もつかないほどの激しい声だった。


 エリスは反射的に両手で耳を塞いだ。

 身体が勝手に動いていた。


 怒鳴り声。荒々しい足音。誰かの命乞い。

 暗い地下牢で何度も聞いた、恐怖を呼び起こす音。


 それらが、記憶の底から一気に蘇ってくる。


「……っ」


 息が苦しい。

 胸の奥が締めつけられ、指先が冷たくなっていく。


 目の前にいるのは、あの優しいガイルのはずだった。

 自分を暗闇から救い出してくれた人。何も知らなかった自分に、言葉を教えてくれた人。魔導書を買ってくれた人。初めて魔法を使えたとき、誰よりも嬉しそうに笑ってくれた人。


 そのガイルが、今はまるで別人のように怒り狂っている。


「……エリス」


 不意に、名前を呼ばれた。

 エリスの肩が跳ねる。


 ガイルは、先ほどまでの怒気をわずかに残したまま、エリスを見つめていた。


「今のは……なんだ?」


「え……?」


「なぜ耳を塞いだ?」


「な、なんでって……」


 声が震えた。

 ガイルの顔を見られない。


 怖い。そう思ってしまったことが、何よりも苦しかった。

 ガイルは、自分にとって恐れる必要のない人だった。

 それなのに今は、目を合わせることすらできない。


「……」


 ガイルが何かを言おうとした。

 だが、その前にアリィが一歩進み出た。


「ガイル様。エリスに当たらないで」


「当たってねぇだろ」


「そういう問題じゃない」


 アリィの声は、いつもの明るさを失っていた。

 彼女はガイルを睨むように見つめている。

 しかし、その目の奥には怒りよりも、深い心配が浮かんでいた。


 シリアンもまた、怯えを隠しきれないまま、ガイルの傍へ歩み寄る。


 眼鏡の奥の瞳は揺れていた。

 それでも彼女は、逃げようとはしなかった。


「今日はもう……宿に戻って休みましょう?」


 優しく、静かな声だった。


「少し疲れているんですよ。あの男のことは、今は考えなくてもいいですから」


 ガイルは答えなかった。

 拳を握ったまま、俯いている。


 やがて、長い息を吐いた。


「……そう、だな」


 その声からは、先ほどの激しさが消えていた。


「酔いも覚めちまったよ」


 アマンダが呆れたように言いながら、腰に手を当てる。

 いつもの悪態に近い口調だったが、その表情は険しかった。


 リアンとエテルネルも、互いに顔を見合わせている。

 二人とも、何かを知っている。何かを知っているのに、エリスには話そうとしない。


 そんな気がした。


「……帰るぞ」


 ガイルが、崩れた石壁から目を逸らす。

 その横顔は、ひどく疲れていた。


 怒りをぶつけたことで、少しは楽になったのだろうか。

 それとも、胸の奥にあるものをさらに深く抉ってしまったのだろうか。


 エリスには分からなかった。

 ただ、誰も口を開かないまま、彼の後を追った。


 その夜――それ以上、何かが起きることはなかった。

 けれど、エリスの胸には、消えることのない疑問が残った。


 レインという男は、ガイルに何をしたのか。

 なぜ、あの男の姿を見ただけで、ガイルはあそこまで変わってしまったのか。


 そして――。

 自分は、ガイルの何を知らないのだろうか。



 ―――。



 翌朝。

 エリスが宿の食堂で朝食を取っていると、アリィが声をかけてきた。


「エリス。ちょっと、いいか?」


「……はい」


 呼ばれた理由は、なんとなく分かっていた。

 昨夜のことだ。


 ガイルの怒声。壁を砕いた拳。そして、あの目。

 エリスは一晩中、その光景を忘れられなかった。


 アリィに案内されたのは、宿の裏手にある小さな中庭だった。

 朝の空気は冷たく、まだ太陽も十分に昇っていない。濡れた草の先には朝露が残り、遠くから街の目覚めを告げる音が聞こえていた。


 アリィはしばらく黙ったまま、空を見上げていた。

 やがて、静かに口を開く。


「昨日のこと……気になってるんだろ?」


 エリスは答えなかった。答えられなかった。

 アリィはそんなエリスを見て、小さく息を吐く。


「無理もない。あんなガイル様を見たのは、エリスは初めてだったんだろうからね」


「……アリィさんたちは、知っているんですか?」


「何を?」


「その……ガイル様の、過去を」


 その問いに、アリィの表情がわずかに曇った。すぐには答えなかった。

 風が吹き抜け、彼女の短い金髪を揺らす。


「……ああ。知ってる」


 その一言が、エリスの胸を重くした。


「ガイル様は昔、あの男の……レインのパーティーに所属していた」


「昔の……パーティー」


「そうだ」


 アリィは腕を組み、遠くへ視線を向けた。


「数年前の話だ。ガイル様は、あいつらと一緒に冒険者をしていた。今よりもずっと若くて、まだ経験も浅かったらしいけどな」


「それなら……どうして?」


「追放されたんだ」


 エリスは目を瞬かせた。


「追放……?」


「ただの追放じゃない」


 アリィの声が低くなる。


「ガイル様は、魔獣が蔓延る森に置き去りにされた」


 朝の風が、急に冷たく感じられた。


「……置き去り?」


「ああ。あいつらはガイル様を森の奥へ連れて行って、そこで捨てた。助けるつもりなんて、最初からなかったんだろうな」


「そんな……」


「その後、レインたちはギルドに戻って、ガイル様は魔獣に襲われて殉職したと報告した」


 アリィは淡々と話していた。

 だが、その声の奥には、抑えきれない怒りがあった。


「仲間を見捨てた挙げ句、死んだことにした。そういうことだ」


 エリスは言葉を失った。

 森の中に、一人で置き去りにされる。


 周囲には魔獣がいる。助けを呼んでも、誰も来ない。暗闇の中で、死を待つしかない。

 それがどれほど恐ろしいことなのか、エリスには想像することしかできなかった。


 けれど、地下牢で死を待っていた自分の記憶が、脳裏に浮かんだ。


 誰も助けに来ない。誰も自分の存在を知らない。

 ただ、ゆっくりと命が消えていくのを待つだけ。


「……ガイル様は、助かったんですよね?」


「ああ」


 アリィは頷いた。


「死の間際、ガイル様は一振りの『神器』を拾った」


「神器……?」


「詳しいことは、私も知らない。どこで、どうやって手に入れたのか。ガイル様自身も、あまり話したがらないからな」


 アリィは一度、言葉を選ぶように口を閉じた。


「ただ、その神器のおかげで、ガイル様は生き延びた」


 死ぬはずだった。

 誰にも知られず、誰にも看取られず、森の奥で朽ち果てるはずだった。


 それでもガイルは生き残った。生き残ってしまった。

 エリスは、そんなふうに感じた。


「……それから、ガイル様は一人で旅をしていた」


 アリィは続けた。


「行く先々で、困っている人を助けていたらしい。魔獣に襲われている村を救ったり、盗賊に捕まった人を助けたり……死ななくていい人間が死ぬのを、見ていられなかったんだろうな」


 その言葉に、エリスの胸が締めつけられた。

 死ななくていい人が死ぬのは、見ていられない。その思いがあったからこそ、ガイルはエリスを救った。

 地下牢の奥で、誰にも気づかれず、死を待っていた自分を。


「……私も、その一人なんですね」


 エリスが呟くと、アリィは静かに頷いた。


「そうだ」


「ガイル様に助けられた……」


「私も、シリアンも、リアンもエテルネルも、アマンダも。みんな、ガイル様に命を救われた」


 アリィは、拳を軽く握った。


「だから私たちは、彼の傍にいる」


「……」


「ガイル様は、たくさんの人間を助けてきた。けど……その分、彼の心は擦り切れている」


 アリィの声が、わずかに震えた。


「誰かを助けることで、自分の中にあるものを忘れようとしているのかもしれない。自分が見捨てられたことも、殺されたことにされたことも……全部、誰かを救うことで埋めようとしているのかもしれない」


 エリスは黙って聞いていた。


 アリィの言葉は、優しかった。

 ガイルを理解しようとしている。

 ガイルを支えようとしている。


 その気持ちは、エリスにも分かった。


「だから、私たちが支えるしかないんだ」


 アリィは、エリスをまっすぐに見つめた。


「ガイル様は、私たちを救ってくれた。今度は、私たちが支える番だ」


 その言葉に、エリスは頷きかけた。


 確かに、ガイルの昔の仲間たちは酷いことをした。仲間を森に置き去りにし、死んだことにした。

 それは、決して許されることではない。


 ガイルは、そんな過去を乗り越えた。

 誰かを憎み続けるのではなく、たくさんの人を助ける道を選んだ。


 エリスも、その中の一人だった。

 ガイルがいなければ、自分はとうの昔に死んでいた。

 だからこそ、ガイルには幸せになってほしい。これ以上、苦しんでほしくない。


 そう思うのは当然だった。


 それなのに――。

 エリスの胸の奥には、どうしても拭えない違和感が残っていた。


 昨夜、ガイルから感じたもの。

 あの殺気。あの怒声。壁へ叩きつけられた拳。

 あれは、ただ過去の傷を思い出した人間の反応だったのだろうか。


 本当に、そうなのだろうか。


「……アリィさん」


「ん?」


「ガイル様は……本当に、立ち直ったんですか?」


 アリィの眉が、わずかに動いた。


「どういう意味?」


「いえ……」


 エリスは俯いた。

 うまく言葉にできない。


 ガイルは優しい。

 誰よりも優しくて、強くて、たくさんの人を救ってきた。


 けれど、昨夜のガイルは違った。

 あの男を見た瞬間、まるで心の奥に封じていた何かが、無理やり引きずり出されたようだった。


 怒りだけではない。憎しみだけでもない。

 もっと深く、もっと暗い何か。


 あれは、傷ついた人間が見せる感情なのだろうか。


 それとも――。


「……何でもありません」


 エリスは、そう答えるしかなかった。

 アリィはしばらくエリスを見つめていたが、やがて優しく笑った。


「大丈夫だ。ガイル様はもう、昔のガイル様じゃない」


 その言葉を聞いても、エリスの胸は軽くならなかった。


 アリィたちは、ガイルの過去を知っている。

 ガイルがどれほど苦しみ、どれほど多くの人を救ってきたのかも知っている。


 だからこそ、彼のことを信じているのだろう。


 けれど――エリスは、昨夜のガイルを見た。


 あの目を。あの声を。

 あの、すべてを壊してしまいそうな気配を。


 アリィたちは、気づいていないのだろうか。

 それとも、気づいていても、見ないふりをしているのだろうか。


 分からない。分からないことが、怖かった。

 エリスは胸の前で、ぎゅっと手を握り締めた。


 救われたはずだった。

 新しい家族に出会い、言葉を覚え、魔法を覚え、少しずつ世界を知っていった。


 もう、暗い地下牢に戻ることはない。

 そう思っていた。


 けれど今、エリスの目の前には、別の暗闇が広がっている。

 それは、ガイルという人間の心の奥にある暗闇だった。

 そしてエリスは、その暗闇の正体を知らない。


 知らないまま、ガイルの傍にいていいのか。


 それとも――知らなければならないのか。

 答えは、どこにも見つからなかった。

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