第3話 成長の証
あれから――三年の月日が流れた。
エリスは、十二歳になっていた。
あの頃の面影を残しながらも、少女の身体は少しずつ成長していた。
かつては骨ばかりが目立っていた細い身体にも、今では年相応の肉付きがつき、長かった髪も肩の辺りまで切り揃えられている。
そして何より、大きく変わったものがあった。
言葉だ。
かつてのエリスは、誰かが何を言っているのかさえ分からなかった。
自分の名前すら曖昧で、文字を読むこともできなかった。
けれど、あの日から始まった日々の中で、エリスは少しずつ言葉を覚えていった。
文字を覚え、単語を覚え、文章を覚え。
やがて、人と会話ができるようになった。
今では、ガイルたちと当たり前のように言葉を交わしている。
それでも――エリスには、決して手放さないものがあった。
あの日、ガイルが買ってくれた一冊の魔導書。
幼い頃のエリスにとって、それは初めて自分のために与えられた物だった。
最初は、ただ絵を見ることしかできなかった。
けれど、文字を覚えるにつれて、本に書かれている内容が少しずつ理解できるようになった。
そこには、言葉があった。歴史があった。
そして――魔法があった。
エリスは今でも、その魔導書を大切に持ち歩いている。
何度も読み返したせいで、表紙には細かな傷が増え、ページの端も少しずつ擦れていた。
それでもエリスにとっては、何よりも大切な一冊だった。
「今日はそうだな……火元素魔法、いってみよう!」
少し離れたところから、ガイルの声が飛んでくる。
「うん!」
エリスは元気よく頷いた。
目の前に広がっているのは、街から少し離れた森。
周囲に人の姿はなく、魔法の練習をするにはちょうどいい場所だった。
エリスは一歩前へ出る。
ゆっくりと息を吸い込み、右手を前へ突き出した。
その瞬間、身体の奥底にある何かが、熱を帯び始める。
胸の奥から手のひらへ、血液とは違う何かが流れていくような感覚。
エリスは、その力を意識しながら、頭の中に一つの光景を思い浮かべた。
燃え盛る炎。熱。赤く輝く火。
それを球状にまとめ、前方へ放つ。
「――ファイア・ボール!」
叫んだ瞬間だった。
エリスの手のひらから、轟々と燃え盛る火球が飛び出した。
赤々と燃える炎の塊は一直線に森へと突き進み――木々へと直撃した。
炎が一気に広がる。
葉が燃え、枝が弾け、熱風が周囲へ吹き抜けていく。
そして、火球の直撃を受けた木の幹が大きく傾いた。
ミシミシと嫌な音を立てながら、巨木がゆっくりと倒れていく。
大地が揺れた。
「……っ」
エリスは、自分の手のひらを見つめる。
その指先は、わずかに震えていた。
何度経験しても、魔法を使った直後には不思議な感覚が残る。
自分の身体の中にあった力が、一気に外へ放出されたような感覚。
そして――。
「よくやったじゃないか、エリス!」
後ろからガイルの声が聞こえた。
振り返ると、ガイルが嬉しそうな笑顔を浮かべながら駆け寄ってくる。
「今のは下級魔法並みの威力だった!」
「本当?」
「ああ。本当に」
ガイルは倒れた木を眺めながら頷いた。
「最初の頃は、火を出すことすらできなかったのにな」
「……うん」
エリスは、少しだけ嬉しそうに笑った。
魔法。
それは、エリスがこの三年間で学んだものの中でも、特に強く惹かれたものだった。
そもそも、この世界における魔法とは何なのか。
それは――自然界に存在する現象を、人の力によって再現する技術だ。
火を生み出す。水を操る。風を起こす。土を動かす。
人間が本来持っていない力を、魔法という形に変えて実現する。
魔法は大きく四つに分類される。
火。水。風。土。
この四つは、総称して――『四大元素』と呼ばれている。
もっとも、魔法には四大元素だけしか存在しないわけではない。
四大元素から派生した様々な属性や、それらを組み合わせた特殊な魔法も存在する。
しかし、魔法を学ぶ者にとって、その基礎となるのはやはり四大元素だった。
そして、魔法を使うためには二つのものが必要になる。
一つは――想像力。
もう一つは――魔力。
魔力とは、人間の身体の中に宿っているエネルギーのことだ。
魔法を使う際には、この魔力を消費する。
だが、魔力があるだけでは魔法を使うことはできない。
例えば火を生み出すのであれば、ただ「火を出したい」と思うだけでは足りない。
どんな火なのか。どれほどの大きさなのか。どのような形で、どの方向へ飛んでいくのか。
それを頭の中で明確に思い描く必要がある。
つまり――魔力によって現象を生み出し、想像力によってその現象を形作る。
それが、魔法だった。
なお、大気中にも微量の魔力は漂っている。
だが、それを魔法の創造に直接利用することはできない。
魔法を使う際に必要となる魔力は、あくまでも術者自身の身体に宿る魔力なのだ。
だからこそ、魔力が尽きれば魔法は使えなくなる。
そして、強力な魔法を使おうとすればするほど、多くの魔力と、より鮮明な想像力が必要になる。
エリスは、そのことを魔導書から学んだ。
そして今――自分自身の身体で、それを理解していた。
「……もっと、強くなりたい」
ぽつりと、エリスが呟いた。
「ん?」
「もっと魔法を上手に使えるようになりたい」
エリスは、自分の手を見つめる。
三年前、この手は何も知らなかった。
言葉も、文字も、世界のことも。
自分が何者なのかすら、知らなかった。
けれど今は違う。
本を読めば、知らなかったことを知ることができる。
言葉を覚えれば、誰かと話すことができる。
魔法を覚えれば、自分の力で何かを生み出すことができる。
世界は、少しずつ広がっていた。
「もちろんだよ」
ガイルは笑った。
「だったら、もっと勉強しないとな」
「うん!」
エリスは大きく頷いた。
その瞳には、かつて地下牢で死を望んでいた少女の面影はない。
そこにあるのは――。
もっと知りたい。もっと見てみたい。もっとできるようになりたい。
そんな、純粋な好奇心だった。
エリスは再び魔導書を抱きしめる。
自分の世界を広げてくれた、一冊の本を。
そして彼女は知らなかった。
今覚えたばかりの小さな魔法が――やがて、自分自身の人生を大きく変えていくことを。
―――。
エリスたちは今、魔法大国ノワラ王国の首都――カーヴァインから少し離れた場所にある、オノクスという街に滞在していた。
オノクスは、どこまでも広がる平原に囲まれた交易都市である。
街道には朝早くから荷馬車が行き交い、商人たちは声を張り上げながら商品を売り込んでいる。大通りには様々な種族の人々が歩き、露店からは焼いた肉の香ばしい匂いや、香辛料の刺激的な香りが漂っていた。
人の声。馬のいななき。車輪が石畳を踏みしめる音。
それらが絶えず混ざり合い、街全体が一つの生き物のように騒がしく息づいている。
そんなオノクスには、別の顔もあった。
街の近隣には、大小様々な迷宮が存在している。
地中深くへと続く古代遺跡の迷宮。魔力の影響によって生まれた洞窟。さらには、強力な魔獣たちが巣を作る広大な森まであった。
迷宮や魔獣の巣窟には、貴重な魔石や素材、珍しい薬草などが眠っている。
そのため、オノクスには多くの冒険者たちが集まっていた。
彼らは街の冒険者ギルドに掲示された依頼を引き受け、魔獣の討伐や護衛、素材の採取などをこなしながら、生計を立てている。
オノクスが交易都市として栄えている理由の一つは、そうした冒険者たちの存在にあった。
商人が物資を運び、冒険者が道中の危険を排除する。
迷宮から持ち帰られた素材が市場に並び、それを求めてさらに商人が集まってくる。
人と物と金が絶えず行き交うこの街は、まさに冒険者たちの拠点と呼ぶに相応しかった。
そして――。
ガイルたち一行もまた、そんな冒険者の一組だった。
「今日は……そうだな」
冒険者ギルドの前。
壁一面に並べられた依頼書を見上げながら、ガイルは腕を組んで唸っていた。
掲示板には、様々な依頼が貼り出されている。
薬草の採取。街道の護衛。迷宮内の捜索。魔獣の討伐。
依頼内容によって報酬も危険度も大きく異なり、冒険者たちは自分たちの力量や人数、目的に応じて仕事を選んでいく。
ガイルは一枚一枚の依頼書に目を走らせていた。
「これなんかどう?」
そう言って、ガイルの隣に歩み寄ったのはシリアンだった。
かつて、エリスがガイルに救われたあの日。彼女を助けるために力を貸してくれた仲間の一人である。
シリアンは、華麗な剣技で戦う剣士だ。
眼鏡の奥にある瞳は知的で落ち着いており、艶やかな黒髪は今日も乱れ一つなく整えられている。
長い髪が風に揺れても、彼女はすぐに指先で整えてしまう。
エリスは、シリアンの髪が乱れたところを一度も見たことがなかった。
「どれどれ……」
ガイルがシリアンの指差す依頼書へ視線を向ける。
そこには、街の近くにある森での薬草採取依頼が記されていた。
「いやいや、こっちの方が効率的に稼げるでしょ!」
横から勢いよく割り込んできたのは、魔剣士のアリィだった。
短い金髪を揺らしながら、アリィはシリアンの背中へ軽く肩をぶつける。
「ちょっと、危ないわよ!」
「いいじゃん、いいじゃん! あたしたちの仲なんだからサ!」
悪びれる様子もなく、アリィはいたずらっぽく笑った。
少し切れ長の目に、凛とした雰囲気を宿した美女。
その見た目だけなら、近寄りがたい印象を与えるかもしれない。
しかし、実際のアリィは明るく、細かいことをあまり気にしない性格だった。
シリアンに怒られても、まるで堪えた様子がない。
そんな彼女の姿を、エリスはいつも少し離れた場所から眺めていた。
強くて、明るくて。
誰に対しても臆することなく接することができる。
エリスにとって、アリィは憧れの存在だった。
「こっちもいいと思うの」
不意に、二つの声が重なった。
エリスが振り向くと、そこには瓜二つの少女が並んで立っていた。
二人ともエリスとそれほど変わらない小柄な体格をしている。顔立ちも、瞳の色も、表情の作り方さえもよく似ていた。
彼女たちは双子の姉妹――リアンとエテルネルである。
短い髪のほうがリアン。長い髪のほうがエテルネル。
それが、二人を見分けるための数少ない手掛かりだった。
もともとの顔立ちがあまりにも似ているため、髪型や服装、身に付けている装飾品などで違いをつけなければ、誰であっても見分けるのは難しい。
だが、二人はとても仲が良かった。仲が良すぎる、と言ってもいい。
同じ服を着て、同じ装飾品を身に付け、同じような髪型にしなければ気が済まないらしい。
そのため、エリスも出会ったばかりの頃は、どちらがリアンでどちらがエテルネルなのか、まったく見分けられなかった。
見かねたガイルが、とうとう二人にこう言い渡したのだ。
『せめて、どちらかは髪を伸ばしてくれ』
その結果、現在のように髪の長さだけで区別できるようになったのである。
「うるせぇぞ、馬鹿ども」
低く、不機嫌そうな声が響いた。
最後に姿を現したのは、魔法使いのアマンダだった。
炎を思わせる真っ赤な赤毛。鋭く細められた目。
その視線には、見た者を無意識に怯ませるような迫力がある。
エリスも、初めて会った頃はアマンダの顔を見るだけで少し緊張していた。
しかし、彼女の性格は見た目とは大きく異なっていた。
アマンダは、可愛らしいものが大好きなのだ。
ぬいぐるみ。小さな人形。花飾り。
そして、可愛い服を着た少女。
エリスも何度か、アマンダの着せ替え人形にされたことがある。
最初は戸惑ったものの、アマンダが嬉しそうに服を選ぶ姿を見ているうちに、いつしか嫌な気持ちはしなくなっていた。
「朝っぱらから騒ぐんじゃねぇ。依頼を選ぶだけで、なんでこんなに時間がかかるんだよ」
「アマンダが遅れてきたんじゃん!」
「うるせぇ」
「ほら、また怒った!」
「てめぇ……」
アリィが楽しそうに笑い、アマンダが眉間に皺を寄せる。
その様子を見ながら、シリアンは小さくため息をつき、双子の姉妹は顔を見合わせてくすくすと笑っていた。
ガイルはそんな仲間たちを見て、困ったように肩をすくめる。
ガイルが率いる冒険者パーティーは、彼を含めて六人で構成されていた。
前衛を担う魔剣士のアリィ。その補助の剣士シリアン。
息の合った連携を得意とするリアンとエテルネル。
そして、強力な火元素魔法を操る魔法使いのアマンダ。
それぞれが異なる役割を持ち、互いの弱点を補い合う。
攻撃、守備、支援、魔法。バランスの取れた、優れた冒険者パーティーだった。
エリスは、そんな彼女たちの姿を眺めながら、胸の奥に小さな願いを抱いていた。
いつか、自分もこの中に入りたい。いつか、自分も彼女たちの隣に立ちたい。
それは、いつの間にかエリスの中に芽生えていた、新しい目標だった。
「今日はエリスの特訓も兼ねてるんだ。あまり危険な依頼は受けられない」
ガイルがそう告げると、アリィたちは一斉にエリスへ視線を向けた。
「そっかぁ。今日はエリスの魔法の練習もするんだね」
「もう魔法が使える歳になったんだもんねぇ」
アリィの言葉に、エリスはこくりと頷いた。
「うん。もっと上手に使えるようになりたい」
「その意気だよ!」
アリィは嬉しそうに笑い、エリスの頭を軽く撫でた。
エリスはくすぐったそうに目を細める。
魔法。それは、エリスがこの三年間で学んできたものの中でも、特に強く惹かれたものだった。
しかし、ノワラ王国では、誰もが自由に魔法を使えるわけではない。
魔法の使用には、年齢による厳しい制限が設けられている。
この国では、十二歳以下の子供が魔法を使用することを固く禁じられていた。
それは単なる決まり事ではない。王国の法律によって定められた、明確な禁止事項だった。
十二歳に満たない者が魔法を使った場合、その者には悪魔が宿ると考えられている。
人々はそれを――『悪魔付き』と呼んだ。
悪魔付きとされた者には、非常に重い罰則が科せられる。
その処罰は時代や事情によって異なるものの、過去には死刑を言い渡された者さえ存在したという。
なぜ十二歳なのか。なぜ魔法を使うと悪魔が宿るとされるのか。
その理由を、エリスはまだ詳しく知らなかった。
ただ、十二歳になった今、ようやく自分も魔法を使うことを許された。
それだけは、はっきりと理解している。
そして今日、エリスは初めて、ガイルたちと共に冒険者としての一歩を踏み出そうとしていた。




