第2話 エリスの勉強
晴れて自由の身となった――。
そう言われても、エリスにはその意味が分からなかった。
奴隷として生まれ、奴隷として育った彼女にとって、「自由」という言葉はあまりにも遠いものだった。
ただ、今までいた薄暗い地下牢から連れ出され、見たこともない男たちや女たちと共に歩いている。
そして何より――自分の手を握っている、この温かな手。
それだけが、今のエリスにとって確かなものだった。
ガイルたちに連れられて、エリスは近くの街へとやって来た。
街へ入った瞬間、彼女は足を止めた。
目の前に広がっていたのは、これまで見たことのない光景だった。
行き交う人々。大きな建物。道端に並ぶ露店。荷物を積んだ馬車。店先から聞こえてくる店員の声。笑いながら歩く子供たち。
そして――空。
地下牢では決して見ることのできなかった、どこまでも青い空が頭上いっぱいに広がっていた。
エリスは呆然と空を見上げる。
眩しい。けれど、不思議と目を逸らしたくなかった。
九歳のときに奴隷商人によって牢から連れ出された日、一度だけ見た太陽。
あの日は眩しさに耐えられず、すぐに目を閉じてしまった。
けれど今は違う。
隣にいるガイルの手を握りながら、エリスは何度も空を見上げた。
まるで、自分が本当にここにいていいのか確かめるように。
「まずは服だな」
ガイルが何かを言った。エリスには、その意味は分からない。
それでも、彼が自分を見ながら笑っていることだけは分かった。
そして連れて行かれたのは、一軒の仕立て屋だった。
店内に入った瞬間、エリスは再び目を見開いた。
色とりどりの布が、壁一面に並んでいる。
赤。青。黄。白。
今までエリスが身に着けてきた布は、薄汚れた灰色ばかりだった。
その鮮やかな色彩に、エリスは思わず足を止めた。
ガイルはそんな彼女を見て、いくつかの服を手に取っていく。
そして、その中から一着を選んだ。
明るい色合いの、可愛らしい服だった。
襟元には細かなレースがあしらわれ、スカートの裾には柔らかなフリルが付いている。
エリスは、それを見つめたまま動かなかった。
こんな服を見たことがない。
いや――服そのものなら見たことはある。
だが、それは貴族の娘たちが身に着けているものを遠目に見た程度だった。
自分が着るものだとは、一度も考えたことがない。
エリスにとって服とは、寒さを凌ぎ、身体を隠すためのものだった。
それ以上でも、それ以下でもない。
だから、目の前に差し出された可愛らしい服を見ても、どうしていいのか分からなかった。
「これ、着てみようか」
ガイルが笑う。言葉の意味は分からない。
けれど、その服を自分に差し出していることだけは理解できた。
エリスはおそるおそる服を受け取った。
柔らかい。指先に伝わる感触に、エリスは驚いた。
今まで触れてきた布とはまるで違う。
何度も洗われ、擦り切れ、硬くなった古布ではない。
新品の布は柔らかく、そしてどこか温かかった。
それを抱きしめるように胸元へ寄せると、エリスの胸の奥がほんの少しだけ軽くなった。
着替えを終え、鏡の前に立つ。
そこに映っていた少女を見て、エリスは言葉を失った。
誰だろう――そう思った。
頬は痩せこけている。髪も整っていない。
身体には奴隷として生きてきた痕跡が残っている。
それでも――服だけは、今までの自分とは違っていた。
スカートの裾を指先で摘まんでみる。ふわり、と布が揺れた。
もう一度、今度は少しだけ強く揺らしてみる。
ふわふわと揺れる裾を見つめているうちに、エリスの口元から小さな笑みがこぼれた。
嬉しい。理由は分からない。
ただ、嬉しかった。
そんなエリスを見て、ガイルも笑った。
だが――。
この幸福感が、次に訪れた場所で別の感情へと変わることになる。
―――。
服を仕立てた後、エリスたちは一軒の酒場へと入った。
扉を開けた瞬間、暖かな空気が身体を包み込む。
香ばしい匂い。人々の笑い声。食器が触れ合う音。
そこには、エリスがこれまで暮らしてきた地下牢とは正反対の世界が広がっていた。
席へ案内されると、ほどなくして料理が運ばれてきた。
湯気の立つスープ。丸く形作られた白い穀物。肉と野菜を炒めた料理。
どれもこれも、エリスにとっては見たことのないものばかりだった。
けれど――匂いだけは分かった。
鼻をくすぐる香ばしい匂いに、胃が大きく鳴る。
エリスは慌てて腹部を押さえた。
恥ずかしい。けれど、それ以上に食べたかった。
目の前にある料理を、じっと見つめる。
しかし、手は伸ばさない。伸ばせなかった。
食べていいのか分からないのだ。
奴隷にとって、食事は自由なものではなかった。
与えられたときだけ食べる。許可されたものだけ食べる。
勝手に手を伸ばせば、怒鳴られる。殴られる。
だからエリスは、ただ料理を見つめていた。
「どうしたんだ、エリス? 食べないのか?」
ガイルが声を掛ける。意味は分からない。
エリスは困ったように彼の顔を見つめ返した。
何をすればいいのだろう。どうすれば怒られないのだろう。
身体が勝手に縮こまっていく。
「えーっと……」
ガイルは困ったように頭を掻いた。
そして何かを思いついたように、テーブルの上へ手を伸ばした。
フォークを掴む。
その瞬間――エリスの身体が跳ねた。
肩が震える。呼吸が止まる。瞳孔が大きく開く。
――怖い。
銀色の細い先端。
それを見た瞬間、身体が覚えていた。
フォークは食事のためだけの道具ではない。
逃げようとした奴隷に突き立てられるもの。反抗した人間の身体を傷つけるもの。
何度も見てきた。何度も聞いてきた。
だから――怖い。
エリスの瞳に涙が滲む。身体が動かない。
逃げなければ――そう思っているのに、足が震えて動かなかった。
しかし――。
「……あ」
エリスの鼻先を、ふわりと香りが通り過ぎた。
肉だった。フォークの先には、小さく切り取られた肉が刺さっていた。
ガイルがそれをエリスの目の前へ差し出している。
「ほら。食べてみな?」
彼は笑っていた。
怒っていない。怖い顔もしていない。
ただ、食べ物を差し出している。
エリスは困惑した。これは何なのだろう。
フォークなのに、怖い道具なのに。
ガイルは自分の口を大きく開けてみせた。
そして、もぐもぐと口を動かす。
エリスはしばらくその姿を見つめた。
やがて、恐る恐る同じように口を開く。
その瞬間、フォークの先にあった肉が、口の中へ滑り込んだ。
――温かい。
最初に感じたのは、それだった。
次に、肉汁が舌の上へ広がった。
香ばしい匂い。柔らかな食感。噛むたびに溢れる旨味。
エリスの瞳が大きく見開かれる。
美味しい。
知らない味だった。知らない料理だった。
けれど――美味しい。
夢中になって咀嚼する。
もう一口。もっと食べたい。
そんな感情が、胸の奥から溢れてくる。
そのときだった。
ふと、遠い記憶が蘇った。
母がくれたパン。父が笑っていた顔。
少ない食事を、二人が自分へ譲ってくれた日のこと。
あれも、美味しかった。
けれど――あの日々には、もう戻れない。
そう思った瞬間、エリスの目から涙がこぼれた。
「……っ」
慌てて袖で拭う。
それでも、涙は止まらなかった。
悲しい。寂しい。
なのに――嬉しい。暖かい。
自分でもよく分からない感情だった。
エリスは涙を拭いながら、もう一度ガイルを見る。
彼は何も言わず、ただ笑っていた。
その笑顔を見ていると、不思議と胸の奥が温かくなる。
エリスは再び差し出されたフォークへ目を向けた。
さっきまで怖かった銀色の道具。
けれど今は――その先にある料理を、もっと食べてみたいと思った。
ほんの少しだけ。
エリスの中で、過去の恐怖が薄れた瞬間だった。
―――。
食事を終えたエリスたちは、次に雑貨店へ向かった。
街を歩いている間、エリスは何度も足を止めそうになった。
道端に並ぶ果物。色鮮やかな布。窓辺に飾られた人形。焼き菓子を売る店から漂ってくる甘い香り。走り回る子供たち。
どれも、エリスにとっては初めて見るものだった。
気がつけば、エリスはガイルの手を握っていた。
離してしまえば、この世界から置いていかれるような気がした。
ガイルはそんなエリスの小さな手を見下ろす。
そして、何も言わずに握り返した。
「楽しそうだね、エリス」
その言葉の意味は分からない。
けれど、優しい声だった。
エリスはガイルを見上げる。
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
この街は怖くない。
この人の隣にいるなら――。
そんな感覚が、少しずつエリスの中に芽生え始めていた。
やがて、エリスたちは一軒の雑貨店へ入った。
ガイルが向かったのは、店の奥にある書物の棚だった。
「おっ、これならいいかな」
彼が手に取ったのは、一冊の魔導書だった。
幼い子供向けに内容を簡単にまとめ直したものらしい。
人族の共通言語。文字の読み書き。初歩的な『四大元素魔法』。簡単な歴史。
子供が学ぶための、基礎的な知識がまとめられている。
「これなら分かりやすいだろう!」
ガイルが嬉しそうに言う。
すると、その後ろにいた気の強そうな女性が眉を寄せた。
「ちょっと、本当にいいの? 結構な値段するけど……」
「いいんだよ。これもエリスのためだ」
迷いのない返事だった。
ガイルは店主へ代金を渡す。
そして、その魔導書をエリスへ差し出した。
エリスは両手で受け取った。
ずしりとした重み。表紙には見たことのない模様が描かれている。
エリスは指先で、それをそっとなぞった。
ページを開くと、そこには――。
見たことのない文字が並んでいた。
分からない、一文字も読めない。
当然だった。エリスはこれまで、文字を教えられたことが一度もなかった。
それでもページをめくる。
すると、文字の隙間に描かれた挿絵が目に入った。
大きな杖を持った男。その杖の先から、赤い光が飛び出している。
別のページには、緑色の光。そのさらに隣には、水のようなものを操る人間が描かれている。
エリスは目を輝かせた。
これは何だろう。どうしてこんなことができるのだろう。
文字は分からない。意味も分からない。
けれど――かっこいい。
エリスは何度もそのページを眺めた。
その日から、彼女は魔導書を手放さなくなった。
―――。
ガイルたちが宿を出ている間、エリスは部屋に一人残されていた。
膝の上には、あの魔導書。意味の分からない文字を、指先で一つずつ追っていく。
これは何だろう。この絵は何を意味しているのだろう。
分からない。でも、知りたい。
何度も同じページを開く。
同じ絵を見る。同じ文字を眺める。
すると――宿の下にある酒場から、声が聞こえてきた。
「お嬢ちゃん、そこ読んでみたいのか?」
ガイルの知り合いを名乗る男の一人だった。
エリスはおそるおそる頷く。
「じゃあ、教えてやるよ」
男は隣に座ると、魔導書を覗き込んだ。
「これは『炎』だ」
「……ほ、の……?」
「そうそう。『炎』だ」
エリスは何度も口の中で繰り返す。
「ほの……?」
「炎、な」
「……ほのう」
「そうだ」
男が笑った。
次のページを開く。
「こっちは『風』」
「か……ぜ」
「そう。風だ」
「かぜ……」
エリスは、一つずつ覚えていった。
炎。風。水。土。
初めて知る言葉。初めて知る文字。初めて知る世界。
最初は挿絵を見るだけだった魔導書。
やがて、それはエリスにとって別の意味を持つようになった。
知りたい。もっと知りたい。
文字が読めるようになれば、この本に書かれていることが分かる。
言葉が分かれば、ガイルたちが何を話しているのか理解できる。
そして――もっと、この世界を知ることができる。
エリスは、そんなことをまだ言葉にすることはできなかった。
ただ、本能的に感じていた。
この本の中には、自分が今まで知らなかった世界がある。
ならば――知りたい。
彼女は必死に文字を覚えた。
一文字。また一文字。
何度も書き、何度も口にする。
間違えても諦めない。分からなくても、もう一度見る。
そんなエリスの姿を、ガイルたちは優しく見守っていた。
やがて――。
エリスは、ほんの少しずつではあるが、文字を読めるようになっていった。
「……ほのお」
魔導書に書かれた文字を指でなぞりながら、エリスが呟く。
その声を聞いたガイルが、嬉しそうに笑った。
「そうだ。よく読めたね」
エリスは、その言葉の意味をまだ完全には理解できない。
それでも、褒められたことだけは分かった。
胸の奥が、ぽっと温かくなる。
昨日よりも、今日。
今日よりも、明日。
少しずつ、自分の世界が広がっていく。
かつてのエリスにとって、世界とは薄暗い牢獄だった。
そこから出ることなど、想像すらできなかった。
けれど今は違う。
青い空がある。温かな食事がある。柔らかな服がある。
そして――。
自分の知らない言葉と、知らない世界が詰まった一冊の本がある。
エリスはまだ知らない。
この小さな一歩が、やがて彼女自身の人生を大きく変えていくことを。
ただ今は――新しく与えられた世界を知ることが、楽しくて仕方がなかった。




