第15話 あなたはどっち?
エリスがベルモンド家の養子に迎えられ、数週間が経った頃――。
昼下がりのベルモンド家。窓から差し込む暖かな陽光が、リビングを優しく照らしていた。
その光の中で、ベルモンド家の夫妻とエリスは、ソファーに腰掛けていた。
「ようやくエリスちゃんも、明日から学校だね」
ベルモンド家の大黒柱、ノルスが笑顔で呟く。
その手には、新品の革製の鞄をはじめ、ペンケースやノート、インクなど、たくさんの荷物が抱えられていた。
その全てが、ノルスとルーシュがエリスのために新しく購入してくれたものだった。
学校へ通うために必要な品々。
どれも綺麗で、まだ一度も使われていない。
「こんなにたくさん……本当に、良いんですか?」
エリスは荷物と夫妻の顔を交互に見ながら、遠慮がちに尋ねた。
「もちろんよ」
隣に座るルーシュが、柔らかな笑みを浮かべる。
「学校に通うには必要なものだもの。何も気にしなくていいのよ」
「でも……」
エリスは、膝の上で両手を握った。
「私、まだ何も……お二人に、何も返せていないのに」
口にしてから、少しだけ俯く。
この家に迎え入れてもらってから、エリスは何度も同じことを考えていた。
温かな食事。柔らかな寝具。帰ってくれば迎えてくれる人たち。
そして、こうして自分のために用意してくれるもの。
どれも、かつてのエリスには縁のなかったものばかりだった。
だからこそ、受け取るたびに思ってしまう。
自分は、こんなにも良くしてもらっていいのだろうか、と。
「……エリスちゃん」
ノルスが、静かに声をかけた。
「僕たちはね、何かを返してほしくて君を迎えたわけじゃないんだよ」
「……え」
「君に元気でいてほしい。それだけさ」
ノルスは荷物をテーブルの上に置き、エリスの目を見て微笑んだ。
「学校で勉強して、友達を作って、たくさん遊んで。家に帰ってきたら、今日あったことを話してくれる。それだけで、僕たちは嬉しいんだ」
「そうよ。それにね、学校へ行くのはエリスちゃんなんだから、必要なものを揃えるのは私たちの役目でしょう?」
ルーシュも、楽しそうに頷いた。
「お母さんだって、娘が明日から学校へ行くとなったら、いろいろ準備してあげたくなるものよ」
「……娘」
エリスの唇から、思わず言葉がこぼれた。
ルーシュは、きょとんとした顔をした。
「ええ。エリスちゃんは、私たちの娘だもの」
何のためらいもなく。
まるで、それが当たり前であるかのようにルーシュはそう言った。
エリスは、俯いた。
胸の奥が、じんわりと熱くなっていく。
まだ、慣れない。
自分が誰かの娘だと言われることも。自分のために、誰かが何かをしてくれることも。
そして――それを、嬉しいと思ってしまうことも。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
けれど、今度は遠慮からではなかった。
「大切にします」
エリスは、テーブルの上に置かれた鞄をそっと手に取った。
新品の革の匂いがした。
これから、この鞄を持って学校へ行く。
文字を学び、知らないことを知り、同じ年頃の子供たちと過ごす。
まだ、どんな毎日になるのかは分からない。不安がないわけでもなかった。
それでも――。
「明日が、楽しみだね」
ノルスが言った。
エリスは顔を上げた。
「……はい!」
自然と、笑顔がこぼれた。
窓から差し込む陽光は、相変わらず暖かかった。
その光に包まれながら、エリスは明日を思い描く。
初めて通う学校。初めて出会う友達。
そして、帰る場所には、自分を待っていてくれる家族がいる。
そんな日々が、明日から始まるのだ。
―――。
翌日――エリスが足を止めたのは、大きな門の前だった。
門の奥には広大な庭園が広がっている。
整えられた芝生の中央には小さな噴水が設置され、そのさらに奥には、白く巨大な建物がそびえ立っていた。
空まで伸びているのではないかと思うほど、高く、長い三本の塔。
それらを中心に、いくつもの校舎が立ち並んでいる。
その場所の名は――カーヴァイン魔法学園。
魔法大国ノワラ王国でも有数の魔法学園であり、国内外を問わず、多くの入学希望者が押し寄せる名門校だ。
最先端の魔法教育を受けられることで知られ、ここで学ぶことは、魔法使いを志す者にとって大きな名誉でもあった。
そして今日、エリスはこの学園に中途入学する。
なぜ自分が、こんなにも立派な学園に通えることになったのか。
その理由を、エリスはまだ知らない。
ただ、ノルスとルーシュが自分のためにどれほど尽力してくれたのか。それだけは、想像することができた。
(ノルスさん、ルーシュさん……本当に、ありがとうございます)
胸の内で二人に感謝しながら、エリスは目の前にそびえる学園の威容に目を丸くした。
こんな場所で、自分が勉強する。
友達を作り、授業を受け、家に帰れば家族が待っている。
少し前まで、そんな未来が自分に訪れるなど、想像すらできなかった。
エリスは小さく息を吸い込むと、意を決して門をくぐった。
まず向かうのは、学長室。
このカーヴァイン魔法学園を取り仕切る学園長、アルヴェリオン・レナスのもとで入学に関する手続きを済ませ、教科書を受け取り、自分が在籍するクラスを教えてもらう予定だった。
――ところが。
「なんで……っ、こんなところに学長室っ、なんて……!」
しばらくして、エリスは汗だくになりながら螺旋階段を登っていた。
カーヴァイン魔法学園を象徴する三本の巨大な塔。その内部には、それぞれ頂上へと続く螺旋階段が設けられている。
そして、三本の塔の頂上には、学長室、研究室、資料室といった重要な部屋が配置されていた。
エリスが目指しているのは、その中央に位置する学園長室。
つまり――この果てしなく続く螺旋階段の、頂上である。
「はぁっ……はぁっ……!」
一段、また一段。
震える膝を叱咤しながら、エリスはひたすら階段を登り続けた。
途中で何度も立ち止まりたくなった。けれど、初日から遅刻するわけにはいかない。
せっかく入学させてもらったのだ。だらしのない生徒だと思われるようなことだけは、なんとしてでも避けたかった。
そして、ようやく。
「つ、着いた……!」
エリスは最後の一段を踏みしめると、その場にへたり込みそうになる身体をなんとか支えた。
「はぁ……はぁ……」
膝に手をつき、大きく肩を上下させる。
息が整うまでには、もう少し時間がかかりそうだった。
(……学園長は、毎日ここを登ってるのかな……)
そんな疑問が頭をよぎったものの、今はそれどころではない。
エリスは深呼吸を繰り返し、どうにか立ち上がろうとした。
そのときだった。
目の前にある扉が、ひとりでに開き始めた。
「え?」
思わず顔を上げる。
誰も触れていないはずの扉が、まるで来訪者を迎え入れるかのように、ゆっくりと開いていく。
魔法だろうか。
驚きながらも扉の奥へ視線を向けたエリスは、そこに立つ人物を見て、今度こそ息を呑んだ。
黄金の光をまとったような、輝く金髪。整った顔立ちに、透き通るような肌。
背丈はエリスとさほど変わらない。華奢な身体つきも相まって、遠目には年若い少女にしか見えなかった。
それなのに、不思議と目を離せない。
その小さな背中からは、確かな威厳が感じられた。
この人物こそ、ルークからあらかじめ聞いていた学園長――アルヴェリオン・レナスなのだろう。
「あ、あのっ……!」
エリスは慌てて立ち上がり、まだ荒い呼吸をどうにか整えながら、恐る恐る扉の横を通り抜けた。
部屋の中へ入った瞬間、背後で扉がひとりでに閉じた。
「ひゃっ……!」
びくりと肩を跳ねさせ、エリスは振り返る。
すると、どこからともなく、低い男の声が響いた。
「君が……エリス・ベルモンド君だね?」
「えっ?」
エリスはきょろきょろと室内を見回した。
誰もいない。
いや、正確には、部屋には自分と学園長らしき人物がいる。
しかし、男の姿はどこにも見当たらなかった。
いったい、誰が話しているのだろう。
困惑するエリスをよそに、目の前の人物がこちらを振り返った。
「私はこのカーヴァイン魔法学園の学園長、アルヴェリオン・レナス。どうぞ、レナス学長と呼んでくれ」
「…………」
エリスは固まった。
今、目の前にいるのは、どう見ても美しい少女だった。
ところが、その口から発せられた声は、少女の見た目からは想像もつかないほど低い。
美しいフィドルの音色というよりは、むしろ、地の底から響き渡るパイプオルガンの重低音。
それも、ただ低いだけではない。
言葉の一つひとつが、腹の底にずしりと響いてくるような声だった。
「え……えぇ……?」
エリスの思考が追いつかない。
目の前の人物は、どう見ても少女。けれど、声は完全に男性のものだ。
では、実際のところ、どちらなのだろう。
そもそも、見た目と声がここまで一致しない人間が、この世に存在するものなのだろうか。
エリスは必死に考えた。
考えて、考えて――そして、ついに。
「レナス学長は、”どっち”ですか!?」
思考を放棄した。
部屋の中に、沈黙が落ちた。
エリスは自分の口から飛び出した言葉を理解した瞬間、顔から血の気が引いていくのを感じた。
(あっ……わ、私、今……何を……!?)
初登校。初対面。
しかも相手は、学園の頂点に立つ学園長。
その人物に対して、開口一番に投げかけた質問がこれである。
エリスは今すぐ穴があったら入りたかった。
一方、アルヴェリオン・レナスは――。
「…………」
しばらくエリスを見つめたあと、ゆっくりと口元を緩めた。
「……なるほど。実に率直な質問だね」
再び響く、重厚な低音。
エリスの背筋が、ぴんと伸びた。
(お、怒られる……?)
そう身構えたエリスに向けて、レナスは穏やかに告げた。
「さて、エリス君。君はどう思う?」
「えっ!?」
まさかの逆質問。
エリスは、今度こそ完全に言葉を失った。




