第14話 恰好良い人
「……こんな僕のために、ありがとう」
帰り道、ルークは隣を歩くエリスに向かって、そう言った。
その声は震えていた。今にも泣き出しそうな顔をして、何度も目元を拭っている。
「……」
エリスは、そんなルークを見つめた。
「……そんなこと、なんて言わないで」
「え……?」
「自分のことを……”こんな”、なんて言わないでほしい」
エリスは真っ直ぐにルークを見ていた。
「ルークくんは、優しい人だよ」
「……っ」
ルークは何も言えなかった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。けれど、顔を上げることはできなかった。
「……ありがとう」
ようやく絞り出した声は、やっぱり震えていた。
それ以上、言葉は続かなかった。
二人は再び歩き始めた。
空は、すっかりオレンジ色に染まっていた。傾いた太陽が、街並みを赤く照らしている。
昼間の賑わいが嘘のように、通りは静かだった。
二人の足音だけが、ゆっくりと響く。
エリスは何も言わなかった。ルークも、何も言えなかった。
ただ、隣を歩いていた。
「……」
ルークは、ちらりと隣を見た。
エリスの横顔が目に入る。けれど、すぐに視線を落とした。
――恰好悪いところを見せてしまった。
そう思った。
格好つけて街を案内して、自分の知っている店を我が物顔で紹介して、エリスに楽しんでもらいたくて、張り切っていた。
なのに、いざとなったら何もできなかった。
怖くて、逆らうこともできなくて。
殴られても、ただ耐えることしかできなかった。
それどころか、エリスに助けられてしまった。
「……」
情けなかった、恥ずかしかった。
何より――エリスに、あんな姿を見られてしまったことが辛かった。
きっと、失望しただろう。
自分のことを、弱くて情けない奴だと思ったに違いない。
せっかく仲良くなれたと思ったのに。これから、一緒に暮らしていくのに。
もう、今までのようには接してくれないかもしれない。
そんな考えが、頭の中をぐるぐると回っていた。
「……」
ルークは、ますます顔を上げられなくなった。
隣を歩くエリスの顔を見ることができなかった。
赤い夕陽が、二人の影を長く伸ばしていく。
その影は、寄り添うように並んでいた。
けれど、ルークの心は、ひどく遠くに離れてしまったような気がしていた。
「……ルークくんは、恰好良い人だよ」
そのとき、ふとエリスが呟いた。
「……え?」
ルークは思わず顔を上げた。
まるで、自分の心を読み取られたかのような言葉だった。
「僕が……恰好良い人?」
エリスは前を向いたまま、こくりと頷いた。
ルークは困ったように笑った。
「そんな……だって、僕はそんな奴じゃないよ」
言葉を重ねるたびに、声が小さくなっていく。
「アダムス君たちに抵抗することもしなかった。……諦めて、ただ我慢して、いつか終わってくれるんじゃないかって、祈ることしかできなかったんだ」
最後の方は、ほとんど独り言のようだった。
ルークは、自分が弱い人間であることを知っていた。
諦めればいい。我慢すればいい。
何もせず、ただ耐えていれば、いつか終わる。
そうやって自分に言い聞かせてきた。
いつか、彼らが飽きてくれることを願いながら。
自分が傷つくだけで済むのなら、それでいい。
そう思うことで、何とか毎日をやり過ごしてきた。
争うことを諦め、抵抗することを諦め、自分自身にさえ期待しなくなっていた。
それは、弱者の考え方なのかもしれない。
実際、ルークは小柄だった。
腕も細く、身体つきも華奢で、表情にはいつも気弱な色が浮かんでいる。
自分が誰かに勝てるとは思えなかった。
だからこそ、争わないことを選んだ。
それが自分にできる、唯一のことだと思っていた。
けれど。
「そんなこと、ないよ」
エリスは、はっきりと言った。
「……え?」
ルークが目を丸くする。
エリスは足を止めなかった。
夕陽に照らされた道を、ゆっくりと歩きながら続ける。
「ルークくんは、やり返さなかった」
「……」
「どんなに辛い目に遭っても、苦しくても、恥ずかしくても……ルークくんは、”争いを選ばなかった”」
その言葉に、ルークは息を呑んだ。
”争いを選ばなかった”。
そんな風に考えたことは、一度もなかった。
自分はただ、怖かっただけだ。
逆らえば、もっと酷い目に遭う。抵抗すれば、もっと痛い思いをする。
だから、我慢した。
そうするしかなかった。
それを、争いを選ばなかったと言うのだろうか。
「……でも、僕は」
「怖かったんだよね?」
エリスは、そっと尋ねた。
ルークは言葉を失った。
「……うん」
小さく頷く。
「怖かった。ずっと……怖かったんだ」
口にした途端、胸の奥に押し込めていたものが、少しだけ溢れ出した。
情けないと思っていた。恥ずかしいと思っていた。
誰にも知られたくなかった。
なのに、エリスはそれを責めなかった。
「そうだよね」
エリスは静かに頷いた。
「……怖いよね」
その声は、どこまでも優しかった。
ルークは、隣を歩くエリスを見つめた。
彼女は何も知らないはずだった。
自分がどれほど臆病なのかも、どれほど情けないのかも。
それなのに、まるでずっと前から知っていたかのように、そう言ってくれた。
「……」
ルークは、再び顔を伏せた。
けれど、今度は先ほどとは少し違っていた。
胸の奥が、じんわりと熱かった。
夕陽が、二人の横顔を赤く染めている。
エリスは前を向いたまま、歩き続けた。
「……私もね」
そして、ぽつりと呟いた。
「……本当は、私も怖かったんだよ」
エリスの言葉に、ルークは顔を上げた。
「怖かったって……」
「うん。アダムス君たちに立ち向かうのも、魔法を使うのも。……本当は、すごく怖かった」
そう言って、エリスは苦笑した。
あのときの自分を思い出す。
震える手。動かない足。逃げてしまいたいという気持ち。
それでも、ルークを助けたいと思った。
その理由を、今なら少しだけ言葉にできる気がした。
「……私ね。少し前まで、奴隷だったんだ」
「え……?」
ルークは思わず足を止めた。
エリスも立ち止まり、静かに彼を見つめる。
「奴隷……だったの?」
「うん」
あまりにも淡々とした返事だった。
ルークは何かを言おうとしたが、言葉が見つからなかった。
エリスが奴隷だった。
それがどういうことなのか、ルークには想像することしかできない。
けれど、簡単に聞き返していい話ではないことくらい、分かった。
だから、ルークは何も尋ねなかった。
ただ、エリスの次の言葉を待った。
「……私はね、一度、全部諦めたことがあるんだ」
エリスは、赤く染まった空を見上げた。
「生きることも。明日が来ることも。……何もかも、どうでもよくなっちゃった」
声に悲しみはあった。
けれど、そこに当時の絶望はなかった。
それは、もう遠い過去のことだったから。
「そんなときに、ある人が私を助けてくれたの」
エリスの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「その人は、私にいろんなことを教えてくれた。文字の読み書きも、ご飯の食べ方も、魔法も……。それから、人を信じることも」
「……」
「その人のおかげで、私は暖かさを知ったんだ」
家族の暖かさ。誰かと食卓を囲むこと。自分のことを心配してくれる人がいること。帰る場所があること。
そんな、当たり前のようでいて、かつての自分には何一つなかったもの。
「それからも、いろんなことがあったよ。楽しいことも、辛いことも……たくさん」
エリスは小さく笑った。
「勇者に拾われて、少しの間、一緒に旅をしたこともあるんだよ」
「勇者……!?」
ルークの目が丸くなる。
けれど、すぐに口を閉じた。
今は、驚いて話を遮る場面ではない。
そう思ったのだろう。
エリスはそんなルークを見て、微笑んだ。
「そこでね、私はいろんなものを見たの」
風景も、知らない街も、たくさんの人たちも。
そして――。
「怖くても、前に進む人たちを見た」
エリスは自分の手に目を落とした。
小さな手だった。けれど、この手で魔法を使い、誰かを傷つけたことがある。
誰かを守るために、力を振るったこともある。
「怖いって気持ちを、力で押し殺すんだよ。怖くないふりをして、立ち向かうの」
そう言いながら、エリスは自分の拳をそっと握った。
「私も、そうしてきた」
怖くても、前に出る。震えていても、魔法を使う。
恐怖を押し殺して、相手を倒す。
それが、自分の知っている戦い方だった。
「……でもね」
エリスは、握った拳を見つめたまま続けた。
「私には、こんな方法しか知らないんだ」
ルークは、じっとエリスを見つめていた。
「怖いから、怖くないように頑張る。怖くても、相手を倒せるように頑張る。……そうやって、何とかしてきただけなの」
それは、エリスが身につけた生き方だった。
そうしなければ、生きてこられなかった。
だから、今日もそうした。
けれど。
「ルークくんは、違った」
「……僕?」
「うん」
エリスは顔を上げた。
「ルークくんは、怖かったんだよね。私と同じように」
「……うん」
「でも、ルークくんは、私みたいに相手を傷つけようとはしなかった」
ルークは、何も言えなかった。
「それって、簡単なことじゃないんだよ」
エリスは少しだけ困ったように笑った。
「私は、怖いときにどうすればいいのか、あんまり知らないから。……だから、ルークくんがすごいと思った」
「……」
「私は、ルークくんみたいにはできないよ」
夕陽が、二人の間を赤く照らす。
「だからね」
エリスは、もう一度、はっきりと告げた。
「ルークくんは、恰好良い人だよ」
ルークは俯いた。
胸の奥が、苦しいほど熱くなっていた。
ずっと、弱い自分が嫌いだった。
怖くて、何もできなくて。誰かに助けてもらうことしかできない自分が、情けなかった。
けれど、エリスはそんな自分を恰好良いと言ってくれた。
自分にはできないことを、ルークはしているのだと。
「……っ」
目の奥が熱くなる。
慌てて顔を背けたが、もう遅かった。
涙が一粒、頬を伝った。
「……ありがとう、エリスちゃん」
今度の声は、先ほどよりも少しだけ、しっかりしていた。
エリスは何も言わず、隣を歩いていた。
オレンジ色の空の下、二人の影が長く伸びていく。
ルークは、もうエリスの顔から目を逸らさなかった。




