第13話 エリスの選択
「エリスちゃん、エリスちゃん!!」
翌日――。
学校が休みだったルークは、エリスを連れて街へ出ていた。
「ここの店が一番魔導書の取り扱いが良くて――」
「ここが一番おいしい店で――」
ルークはエリスの手を引きながら、目を輝かせて街を駆け回る。
行く先々で、自分が知っている店を嬉しそうに紹介していく。
エリスはカーヴァインの生まれだ。ガイルに救われてから、長い間この街を拠点に活動していた。
だから、カーヴァインの街については、エリスもよく知っている。
「ここはね! 僕の父さんと母さんもよく行くんだ!」
「それから――」
ルークは楽しそうに話し続ける。
エリスは、そんなルークの姿を見て、あえて口を挟まなかった。
「全部知ってる」と言えば簡単なことだった。
けれど――目を輝かせながら自分を案内してくれるルークを見ていると、どうしても言い出せなかった。
それに、エリス自身、かなり楽しんでいた。
こんな風に、誰かに手を引かれて街を歩いたことなど、一度もなかったからだ。
ガイルと行動を共にしていた頃には、見ることのできなかった景色。
ただ街を歩き、店を眺め、くだらない話をして笑う。そんな当たり前の時間が、エリスには新鮮だった。
「それで、ここがね――」
そのとき、急にルークが足を止めた。
繋いでいた手も、離れる。
「?」
不思議に思ったエリスが、ルークの顔を覗き込む。
すると――先ほどまで楽しそうだったルークの表情が、怯えたものに変わっていた。
「ルークくん?」
呼びかけると、ルークははっと顔を上げた。
「エリスちゃん……」
ルークは前方とエリスを何度も見比べる。
そして、ぎこちない笑みを浮かべた。
「こ、こっちの方にも面白い店が――」
そのときだった。
「おい、“猿ーク”!!」
突然、怒号が響いた。
「さる……なに?」
エリスが呟いた瞬間、目の前のルークが勢いよく手を上げた。
「ウッキー!!!!」
「えっ!?」
ルークは奇声を上げると、そのまま地面に手をついた。
そして、四足歩行で街中を駆け始めた。
「ルークくん!?」
突然の奇行に、エリスは目を丸くする。
ルークが止まった先。そこには、大柄な少年が立っていた。
その隣には、さらに二人の少年。三人とも、ルークを見ながらニヤニヤと笑っている。
「よーし、“猿ーク”。今のは早かったぞ」
大柄な少年がそう言って、乱雑にルークの頭を撫でる。
エリスは、その光景を呆然と見つめた。
「嬉しい限りでございまする!! ウッキー!!」
ルークは笑っていた。いや、笑おうとしていた。
尻を地面につけ、両手を前に出し、猿のような動きを続けている。
「どこの国に喋る猿がいるんだぁ?」
大柄な少年が、わざとらしく顔をしかめる。
「ごめ――」
ルークは一瞬、普通に謝ろうとした。
しかし、すぐに口を閉じる。
「ウキキッキー!!」
「よーし、それでいい」
大柄な少年は満足そうに笑った。
その笑顔を見て、エリスは気づいた。
――怖がっている。
ルークは、この少年たちを怖がっている。
だから、言われるままに猿の真似をしている。
「……」
エリスの胸の奥に、嫌なものが込み上げてくる。
大柄な少年は、そんなエリスの存在に気づいたようだった。
ルークの背後に立つエリスへ視線を向ける。
「ん?」
そして、口元を歪めた。
「あの可愛い女は誰だ?」
少年はルークを見る。
「まさか、お前のフィアンセじゃないだろうな?」
「……」
ルークはエリスを一瞥した。
それから、大柄な少年を見上げる。
「あ、そうか」
少年は、何かを思いついたように手を叩いた。
「猿は喋らないのか」
そして腰に手を当てる。
「よし。あの子は誰だ、”ルーク”?」
その瞬間、ルークの表情が僅かに強張った。
それでも、今度は普通に答えた。
「あ、あの子は孤児で……」
声が震えている。
「昨日、僕の家に里子として迎え入れられたんだ」
「お前の家に、ねぇ」
大柄な少年が、つまらなそうに呟く。
「そ、そうなんだ」
ルークは苦笑いを浮かべ、頭を掻いた。
そして――次の瞬間。
「ぐぶッッ!!?」
鈍い音が響いた。
ルークの身体が、宙に跳ね上がる。
「……え?」
エリスには、一瞬何が起きたのか分からなかった。
だが、少年の突き上げた拳。
そして、その拳を振り抜いた後に浮かべる陰湿な笑み。
それを見て、すぐに理解した。
――殴った。
ルークが殴られた。
「ルークくん!」
地面に背中を強く打ちつけたルークへ、エリスはすぐに駆け寄った。
「……っ、う……」
ルークは荒い息を吐きながら、腹を押さえている。
「ルークくん……!」
エリスが身体を起こしてやる。
ルークの顔は、痛みに歪んでいた。
エリスは、目の前の大柄の少年を睨みつける。
「おぉ、怖い怖い」
大柄な少年が笑う。
「美人が睨むと、一層際立つなぁ?」
隣の少年たちも、エリスを見る。
「ああ、そうだなぁ」
「近くで見ても、ホントに可愛いなぁ」
三人の視線が、エリスに向けられる。
その瞬間、エリスの中で何かが切れた。
「貴方たちは誰!?」
怒号が街中に響く。
「なんでルークくんにこんなことするの!?」
「……」
三人は一瞬、黙った。
そして――一斉に笑い出した。
「ルーク“君”!?」
「君だって!?」
「かっわいい~!」
大柄な少年が腹を抱えて笑う。
「なら俺のことも君付けしてくれよ!!」
少年は自分の胸を親指で指した。
「ほら!」
そして、下品な笑みを浮かべる。
「アダムス“君”って!」
「ぎゃはははは!!」
二人の少年も、それにつられて笑う。
「アダムス君、だってよ!」
「お似合いじゃん!」
笑い声が響く。
けれど――エリスは、笑わなかった。
ただ静かに、目の前の少年たちを睨みつけていた。
その瞳に宿っていたのは、恐怖ではない。怒りだった。
「やめて!」
エリスは立ち上がった。
「ルークくんに謝って!」
怒りに任せて、一歩前へ踏み出す。
その瞬間だった。
「エリスちゃん!」
ルークが叫んだ。
「やめて!」
「でも――!」
「いいんだ!」
ルークは慌てて立ち上がる。
まだ腹を押さえている。
痛いはずなのに、それでもエリスの前に立とうとする。
「僕なら大丈夫だから!」
「でも……!」
「本当に大丈夫!」
ルークは笑おうとした。
けれど、その笑顔は明らかに引きつっていた。
「だから、エリスちゃんは何もしなくていいんだ」
「……」
エリスは言葉を失った。
すると、大柄な少年――アダムスが、面白そうに口元を歪めた。
「へぇ?」
そして、エリスを見ながら笑う。
「カッコイイねぇ?」
「……」
「お友達を守ろうとするなんて、勇ましいじゃん」
その言葉に、周囲の少年たちも笑う。
「本当にカッコイイよなぁ」
「ルークなんかより、よっぽど男らしいんじゃね?」
「……っ」
エリスは唇を噛んだ。
馬鹿にされている。それが分かる。
それでも、ルークの前に立とうとした。
だが――。
「ほら、ルーク」
アダムスがルークの肩を掴んだ。
「行くぞ」
「え……?」
「ちょっと付き合えよ」
「ど、どこに……?」
「いいから来いよ」
「待って!」
エリスが叫ぶ。
しかし、ルークは振り返った。
「エリスちゃん……」
その顔には、怯えが浮かんでいる。
それでも――。
「大丈夫だから」
そう言って、笑った。
「……っ」
エリスの足が止まる。
「じゃあな、カッコイイお嬢ちゃん」
アダムスが笑いながら手を振る。
三人の少年たちは、ルークを連れて歩き始めた。
「待って!」
エリスは追いかけようとした。
けれど――足が動かなかった。
「……」
少年たちは、そのまま路地裏へ入っていく。
ルークの背中が遠ざかる。
「ルーク……くん……」
そして、三人の姿が路地の向こうへ消えた。
エリスは、その場に立ち尽くしていた。
追いかけることができなかった。助けることもできなかった。
ただ――見ていることしかできなかった。
「……」
そのときになって、ようやく気づいた。
自分の手が震えている。
小さくかすかに、拳が震えていた。
「……怖い」
ぽつりと、言葉が漏れる。
怖かった。
今まで、これ以上の恐怖など何度も経験してきた。
暗い地下牢。飢え。痛み。両親を失った夜。死んだ方が楽だと思った日々。
あの頃に比べれば――目の前の少年たちなど、大したことではない。
魔法を使えばいい。
自分なら、あんな奴らを一蹴できるかもしれない。
ルークを助けることだってできる。
なのに怖い。
立ち向かうことが怖かった。
魔法を使うことが怖いのではない。
あの少年たちに向かっていくことそのものが、怖かった。
「……」
ルークを助けようとしたときだって、本当は怖かった。
それでも、前に出た。
なぜだろう。
エリスは考えた。
そして――すぐに答えが浮かんだ。
ルークは、自分に優しくしてくれた。
昨日、家に来たばかりの自分を見て、何の疑いもなく笑ってくれた。
今日だって、自分のために街を案内してくれた。
それだけじゃない。
ルークの両親もそうだった。
ノルスもルーシュも、こんな自分を嫌な顔ひとつせず、家族として迎え入れてくれた。
温かい食事をくれた。暖かい部屋をくれた。帰る場所をくれた。
――家族を。
「……嫌だ」
エリスは、小さく呟いた。
あの暖かさを、この場所を、失いたくない。
せっかく手に入れたものを、もう二度と失いたくない。
「……」
いつの間にか、拳の震えは止まっていた。
エリスは自分の手を見る。
怖い。今だって怖い。
それでも――。
「……助けたい」
ここで魔法を使ってやり返すことは、いけないことなのかもしれない。子供らしくないのかもしれない。
普通の子供なら、大人に助けを求めるのかもしれない。
でも、それはそれだ。
エリスにはエリスの理由がある。
「……」
脳裏に浮かんだ、ガイルの姿。
いつも笑っていた。誰かが困っていれば、手を差し伸べた。
自分が傷ついていても、誰かを助けることを諦めなかった。
そして――レイン。
不器用で、後悔を抱えて。
それでも最後には、自分を守ってくれた。
二人とも強かった。
そして――優しかった。
「……」
エリスは、路地裏を見る。
そこにルークがいる。
助けを待っているかもしれない。怖がっているかもしれない。
だったら自分が行く。
ここでルークを助けなければ、きっと自分は、両親に顔向けできなくなる。
それだけは嫌だった。
「……ガイル様」
エリスは、小さく呟いた。
「……レインさん」
そして、一歩。
路地裏へ踏み出す。
怖い。足は、まだ少し震えている。
それでもエリスは歩き始めた。
ルークを助けるために。自分が受け取った、あの暖かさを守るために。
―――。
路地裏。
薄暗い建物の隙間に、ルークの苦しそうな声が響いていた。
「ぐっ……!」
「へへっ!」
「何だよ、あんなカワイイ子と一緒に住みやがって!」
「猿ークのくせによ!」
「お前みたいな奴にはもったいねぇんだよ!」
少年たちは、倒れたルークを取り囲んでいた。
「や、やめてよ……」
「うるせぇ!」
大柄な少年――アダムスが、ルークの腹を蹴り飛ばす。
「ぐっ……!」
ルークの身体が地面を転がった。
「ルークくん!」
その声に、少年たちが振り返る。
路地裏の入口。そこにエリスが立っていた。
「……」
荒い息を吐きながら、エリスはルークを見つめる。
「エリス……ちゃん……」
ルークは苦しそうに身体を起こした。
「来ちゃ……ダメだ……」
「どうして?」
「僕は……大丈夫だから……」
「大丈夫じゃないよ」
エリスは静かに言った。
そして、ルークへ歩み寄る。
「一緒に、帰ろう」
「でも……!」
「待ってて、ルークくん」
エリスは振り返った。
その顔には、先ほどまであった怯えがなかった。
「すぐに終わるから」
「……エリスちゃん?」
エリスは少年たちへ向き直る。
「俺たちをどうしようって?」
アダムスが笑った。
「まさか、俺たちに何かするつもりか?」
「……」
エリスは答えない。
代わりに、ゆっくりと懐へ手を入れた。
そして取り出したのは――一本の木の棒だった。
「なんだ、それ?」
少年たちが笑う。
しかし、それはただの木の棒ではなかった。
木彫りの矢。精巧に削られた、小さな矢だった。
エリスが大切に持ち続けている、お守り。
かつて――『蒼銀の翼』と別れるとき、ミカから渡されたものだった。
「木の……矢?」
アダムスが、それを見て吹き出す。
「それで俺を刺そうってか!?」
「ぎゃはは!」
「そんなので何ができるんだよ!」
少年たちの笑い声が路地裏に響く。
エリスは、手の中の木彫りの矢を見る。
そして、ぎゅっと握りしめた。
「……」
自分を守ってくれた人たち。自分に生きることを教えてくれた人たち。
その思いを胸に抱き――エリスは目を細めた。
「そんなことはしない」
「……あ?」
「もっと……」
エリスの周囲で、空気が揺らいだ。
「痛いことよ」
瞬間、エリスを中心に、何かが渦を巻き始めた。
「!?」
少年たちの顔から笑みが消える。
「な、なんだ……これ……?」
ルークも目を丸くした。
エリスの周囲を取り巻いているもの。
それは――魔力だった。
ただの魔力ではない。高密度に圧縮され、研ぎ澄まされた魔力。
まるで、エリスの身体そのものから噴き出しているように、周囲を渦巻いている。
ルークは息を呑んだ。
こんな魔力、今まで見たことがない。
「て、てめぇ!」
アダムスが恐怖を振り払うように叫ぶ。
「脅かしやがって!」
そして、拳を握りしめた。
「そんなもんで俺が――!」
アダムスがエリスへ向かって駆け出す。
拳を振り上げる。
「死ねぇ!」
しかし、その拳がエリスへ届くことはなかった。
エリスの方が、速かった。
「ウィンド・カッター」
小さな呟き。
その瞬間、路地裏を突風が駆け抜けた。
「うわぁっ!?」
ルークが思わず目を閉じる。
風が巻き起こる。
その中で、エリスの周囲にかすかな空間の歪みが生まれた。
それは一瞬だけ、しかし確かに、刃の形をしていた。
目には見えない風の刃。それが、ゆっくりと前へ進む。
「……!」
ルークが目を見開く。
そして、瞬きをした。
次の瞬間――風が止んだ。
「……え?」
何が起きたのか。
ルークには、一瞬分からなかった。
けれど、すぐに理解した。
エリスの目の前に立っていた、大柄な少年。
アダムス、彼の頬に――大きな切り傷が走っていた。
「……」
頬から血が流れる。
赤い筋が頬を伝い、そのまま口端へ落ちていく。
「……え、りす」
ルークが呟いた。
エリスは何も言わない。
ただ、凛とした表情でアダムスを見つめている。
アダムスの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「……な」
自分の頬に触れる。
指先についた赤い血。
「な……んだよ……これ……」
「どう?」
突然エリスが尋ねた。
「……っ」
アダムスの肩が震える。
エリスは一歩、前へ出た。
「これが、ルークくんが貴方たちに受けた痛み」
そして、木彫りの矢を握ったまま、静かに告げる。
「その一部」
「い……一部……?」
「そう」
エリスの瞳は冷たい。
「これからもっと――」
周囲の魔力が、再び渦を巻く。
「その“痛み”を受けてもらう」
「ひっ……!」
少年の一人が、思わず後ずさった。
アダムスも拳を握りしめる。
だが、先ほどまでの威勢は、もうどこにもなかった。
「ふ、ふざけんな……!」
「……」
「俺たちが……こんな女に……!」
「アダムス……」
隣の少年が震えた声を漏らす。
「もう……やめようぜ……」
「うるせぇ!」
「でも……!」
少年はエリスを見る。
その周囲を渦巻く魔力を。そして、頬から血を流しながらも、微動だにしないアダムスを見る。
「こいつ……普通じゃねぇよ……!」
「……っ」
アダムスの喉が鳴った。
エリスは、ただ静かに少年たちを見ていた。
「……来るなら、来て」
「……!」
その言葉に、三人の少年たちは、一斉に身を震わせた。
「逃げるぞ!」
「お、おい! アダムス!」
「待ってよ!」
一人が叫ぶ。
だが、アダムスはもう走り出していた。
「こんなの……やってられるかぁ!!」
三人は、我先にと路地裏を駆けていく。
その背中をエリスは追わなかった。
ただ、握りしめていた木彫りの矢を見つめる。
ミカからもらった、小さなお守り。
「……」
そして、ゆっくりと息を吐いた。
全身から力が抜ける。
「……終わったぁ」
その場に膝を付き、ぺたりと座り込む。
すると、背後から声がした。
「エリスちゃん……」
振り返る。
そこには、傷だらけのルークが立っていた。
しかし彼の表情は、先程までの怯えたものではなくなっていた。
エリスはその姿を見て、張り詰めていた表情を、少しだけ緩めた。




