第12話 家族
レインたちと別れたエリスは、ベルモンド夫妻に連れられ、カーヴァインの街を歩いていた。
「ここから少し歩けば、僕たちの家だ」
そう言ったのは、ノルス・ベルモンドだった。
穏やかな笑顔を浮かべながら、エリスの歩幅に合わせてゆっくりと歩いている。その隣には、妻のルーシュ・ベルモンド。
二人とも、特別に裕福そうな服装をしているわけではない。
けれど、その表情にはどこか温かさがあった。
――やがて。
「ここだ」
ノルスが立ち止まる。
エリスは顔を上げた。
そこにあったのは――。
大きすぎず、小さすぎない、ごく普通の一軒家だった。
「……ここが」
「そうだよ」
ノルスが笑う。
「今日からエリスちゃんが暮らす家だ」
「……」
エリスは家を見つめた。
立派な屋敷ではない。豪華な装飾もない。
けれどなぜだろう。胸の奥が、少しだけ温かくなった。
「さあ、入りましょう」
ルーシュが扉を開ける。
「お、オジャマシマス……」
思わず片言になってしまう。
すると。
「ふふっ」
ルーシュが優しく笑った。
「そんなに硬くならないで、”ただいま”、でいいのよ」
「……え」
エリスが目を丸くする。
「ここは、エリスちゃんの家になるんだから」
「……私の……家」
その言葉を聞いた瞬間、エリスの胸がきゅっと締め付けられた。
家――その言葉を、自分に向けて使われたのはいつ以来だろう。
「……はい」
小さく頷いた。
「た、ただいま……」
「ええ!」
ルーシュは嬉しそうに笑った。
「おかえりなさい、エリスちゃん」
その一言が、妙に胸に響いた。
「……」
エリスは俯く。
泣きそうになった。
けれど、今度は涙を流さなかった。
「こっちが居間だ」
ノルスが家の中を案内していく。
「ここでみんなでご飯を食べるんだ」
テーブルと椅子。壁際には食器棚。
窓からは柔らかな日差しが差し込んでいる。
「それから、こっちが台所」
「……わ」
エリスの目が僅かに輝いた。
「エリスちゃんも料理を覚えたければ、いつでも教えるわ」
「本当、ですか?」
「もちろん」
ルーシュが笑う。
「ノルスより、私のほうが料理は得意だからね」
「おいおい」
ノルスが苦笑する。
「僕だって、それなりには作れるよ」
「それなり、でしょう?」
「……否定はできないな」
二人のやり取りにエリスは思わず笑った。
「ふふっ」
その笑顔を見て、ノルスとルーシュも笑う。
「それから――」
ノルスは廊下を進み、二階へ続く階段を指差す。
「二階に寝室がある。もちろん、エリスちゃんの部屋もね」
「私の部屋も……?」
エリスの足が止まった。
「もちろんだ」
ノルスが頷く。
「好きに使っていいからね」
扉を開ける。そこには、小さなベッドと机。
そして、衣服をしまうための棚が置かれていた。
「……」
エリスは、部屋の中へ一歩入る。
自分だけの場所。
誰かに奪われることもない。鍵をかけて閉じ込められる場所でもない。
ただ、自分が眠るための部屋。
「……綺麗」
思わず、そんな言葉が漏れた。
「気に入った?」
ルーシュが尋ねる。
「はい」
エリスは笑った。
「すごく……好きです」
「それならよかったわ」
ルーシュも嬉しそうに頷く。
そして。
「ああ、そうそう」
ノルスが何かを思い出したように振り返った。
「うちには、もう一人家族がいるんだ」
そこでエリスは思い出した。
以前レインが言っていた、ベルモンド家の一人息子、エリスと同い年の男の子の存在を。
「……もう一人?」
「ええ」
ルーシュも笑う。
「息子のルークよ」
「ルーク……くん」
「エリスちゃんと同い年なの」
「同い年……」
エリスは少しだけ緊張した。
「今は学校に行っていて、まだ帰ってきてないけどね」
ノルスがそう言う。
「学校……」
「そうだよ」
ノルスが頷く。
「帰ってきたら紹介するよ」
「……どんな子なんですか?」
エリスが尋ねる。
すると、ノルスはなぜか自信満々に笑った。
「きっとエリスちゃんと気が合うよ」
「そう……でしょうか?」
「うん。絶対だ」
「どうして分かるんですか?」
エリスが首を傾げる。
ノルスは少しだけ考えてから。
「父親の勘、かな」
「ふふっ」
エリスは笑った。
その横から、ルーシュも口を開く。
「私もそう思うわ」
「ルーシュさんも?」
「あの子は少し元気すぎるところもあるけれど、優しい子だから」
ルーシュは優しく笑う。
「エリスちゃんとも、きっと仲良くなれるわ」
「……」
エリスは二人を見つめた。
まだ会ったこともない男の子。どんな人なのかも分からない。
それでも、不思議と少しだけ楽しみになった。
「……はい」
エリスは頷く。
「私も……仲良くなれたら嬉しいです」
「大丈夫だよ」
ノルスが笑う。
「きっとすぐ仲良くなる」
「ええ」
ルーシュも頷いた。
「焦らなくても大丈夫よ。ゆっくりでいいの」
そう言って、ルーシュはエリスの手を優しく握った。
その手の温かさに、エリスは少しだけ目を細める。
ここには怒鳴る人はいない、殴る人もいない、自分を道具のように扱う人もいない。
ただ笑っている人がいる。
そして、自分を迎えてくれる家がある。
「……」
エリスは、小さく息を吐いた。
――今日から、ここが自分の家。
そんな実感が少しずつ、胸の中に広がっていった。
―――。
それから、しばらくの時間が流れ――午後。
窓から差し込む夕日が、リビングを橙色に染め始めた頃、玄関の扉が勢いよく開かれた。
「母さん、ただいま!!」
元気いっぱいの声。
続いて、廊下を駆けてくる、慌ただしい足音。
「んぐっ!?」
リビングでルーシュから出された紅茶を飲んでいたエリスが、声量に驚いて肩を震わせた。
危うく、口に含んでいた紅茶を吹き出しそうになる。
「ふふっ」
向かいに座っていたルーシュが笑いながら立ち上がった。
「ルークだわ」
そして、呆れたように呟く。
「あの子……また手も洗わずに」
その直後、リビングの入り口から、ひょこっと茶色の何かが飛び出した。
それは、穂先のようにも見えた。枯れた草のようにも見える。
だが、次の瞬間。
その正体が、ようやく姿を現した。
男の子だった。
頭の上で跳ねるような茶色の髪。その髪が、まるで草むらのようにあちこちへ跳ねている。
「母さん母さん!」
少年は元気いっぱいに叫びながら、ルーシュへ駆け寄ってくる。
「僕、今日ね! 授業ですごい発見しちゃった!」
「まあ」
ルーシュは嬉しそうに笑う。
「今日は何を発見しちゃったのかしら、ルーク?」
「それがね――」
少年、ルークはそこでようやく気づいた。
母親の後ろ、ソファーに座っているエリスの存在に。
「……」
ぴたりと、ルークの動きが止まった。
「……」
エリスも、ルークを見る。
少年の姿を見て、エリスは目を丸くした。
ルークの姿は、話を聞いてエリスが想像していたものとは違っていた。
眉の上で綺麗に切り揃えられた茶髪。丸眼鏡。
そして――その眼鏡の奥にある茶色の瞳は、まるで顔の大半を占めているかのように大きかった。
度が強いのだろう。
眼鏡越しの瞳は、夕日の光を受けてきらきらと輝いている。
「……」
ルークが、エリスを見る。
エリスも、ルークを見る。
数秒、何も言わない。
やがて。
「あ」
ルークが言いかけた。
しかし、その言葉は途中で途切れた。
「あがっ」
奇妙な声を漏らす。
そして、一歩二歩後ずさる。
「ルーク?」
ルーシュが不思議そうに声をかける。
しかし、ルークは答えない。ただひたすらに、エリスを見つめながら後退していく。
「……」
エリスの胸が、ざわついた。
何だろう。どうして、あんな反応をするのだろう。
もしかして――歓迎されていないのか。
「……」
胸の奥が、きゅっと縮こまる。
ベルモンド夫妻は優しくしてくれた。
家を案内してくれた。自分の部屋まで用意してくれた。
けれど、この家の息子であるルークまで、自分を歓迎してくれるとは限らない。
当然のことだった。
それなのに、自分は何も考えず、のんびりとリビングで紅茶なんか飲んでいた。
まるで、この家に最初から住んでいたかのように。
「……」
急に、今までの自分が恥ずかしくなった。みじめだった。
やっぱり自分は――ここにいてはいけないのかもしれない。
そんな考えが、頭をよぎった。
「ごめんなさ――」
エリスが小さく呟こうとした、その瞬間。
「かわいい!!!」
「え」
エリスの思考が、止まった。
ルークは目を見開いていた。
頬を紅潮させ、両手を胸の前で握りしめながら。
「誰このかわいい子!!」
もう一度。
今度は、先ほどよりも大きな声で叫ぶ。
「母さん! この子、めちゃくちゃかわいい!!」
「……え?」
エリスは呆然とする。
ルーシュも一瞬、目を丸くした。
「ふふっ」
そして。
「あらあら」
嬉しそうに笑う。
「ルーク、驚かせちゃ駄目でしょう?」
「だって!」
ルークは興奮したようにエリスを指差す。
「こんなかわいい子、ぼ、僕見たことないよ!」
「……か、かわ……」
エリスの顔が、一気に熱くなる。
「え……あの……」
何を言えばいいのか分からない。
すると、ルークは今度こそ、エリスの前まで駆け寄ってきた。
「もしかして、君がエリスちゃん!?」
「は、はい……」
「僕、ルーク!」
「……ルーク、くん」
「”君”付け……! く、可愛すぎるっ!」
満面の笑み。大きな瞳が、キラキラと輝いている。
「今日から一緒に暮らすんだよね!?」
「……はい」
「やったぁ!」
両手を上げて喜ぶルーク。
そのあまりの勢いに、エリスは思わず目を瞬かせる。
「母さん!」
「何かしら?」
「僕、エリスちゃんと仲良くなれるかな!?」
「もう仲良くなってるんじゃない?」
ルーシュが笑う。
「そっか!」
ルークは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、エリスちゃん!」
「は、はい」
「僕がこの街のこと、いっぱい教えてあげる!」
「……!」
エリスは目を見開いた。
そしてほんの少しだけ、緊張が解けた。
「お……お願いします!」
エリスが微笑む。
「うん!」
ルークも笑った。
夕日の差し込むリビング。
そこに二人の子供の笑顔が並んだ。
その光景を見つめながら、ルーシュは優しく微笑む。
「ほらね」
「……え?」
「きっと仲良くなるって言ったでしょう?」
エリスはルーシュを見る。
そして、隣で嬉しそうに笑っているルークを見る。
「……はい」
エリスもまた笑った。
「私も……そう思います」




