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Herobrave's Hope -英雄たちが遺した希望-  作者: かげ2500
第1章 『プロローグ』

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第11話 遺された希望

 次にエリスが目を覚ましたとき。


 ――全ては、もう終わっていた。


「……」


 最初に感じたのは、揺れだった。

 身体がゆっくりと上下している。それに合わせて、木の軋む音が聞こえていた。


 エリスは重たい瞼を、ゆっくりと開いた。


「……ここ……は……?」


 ぼんやりとした視界に映ったのは、見覚えのある馬車の内部だった。

 ガイルと共に乗ってきた馬車。薄暗い車内には、窓から差し込む光が細く伸びている。


 そして――。


「ねぇ、レイン……この子、どうするの?」


 若い女の声が聞こえた。

 エリスは、ゆっくりと顔を動かす。


 聞いたことのある声だった。

 けれど、誰の声だったのか。まだ頭が上手く働かない。


「この子に罪はない」


 続いて、低い男の声が響いた。


「俺たちがやるべきことをするだけだ」


 その声には、疲労が滲んでいた。

 それだけではない。深い苦痛と、何かを背負い込んだような重さがあった。


(……誰……?)


 声を出そうとする。


 だが――。


「……っ」


 次の瞬間、喉が焼けるように痛んだ。


「ゴホッ……ゴホッ!」


 突然、激しい咳が込み上げる。

 身体が大きく揺れ、エリスはその勢いで上半身を起こした。


「っ……!」


 口元に手を当てる。

 手のひらに、赤いものが付着していた。


 それは血だった。


「……え……?」


 口の端から一筋の血が垂れた。

 白い服の上へ落ちる。


 エリスは、呆然と自分の服を見下ろした。


「……」


 息が止まった。

 そこには――大量の血痕が残っていた。


 白い布地を染める、赤黒い染み。

 まるで模様のように、胸元から腹部にかけてべったりと付着している。


 今、吐き出した血など比べ物にならない。


「なに……これ……」


 恐る恐る指先で触れる。

 大部分は、もう乾いていた。指に触れた乾いた血が、ざらりとした感触を残す。

 そのすぐ隣では、今しがた吐き出したばかりの血が、ゆっくりと布へ染み込んでいく。


「……」


 その瞬間、エリスの頭の中に、途切れていた記憶が一気に蘇った。


 森。倒れていた仲間たち。レインたち。怒り狂ったガイル。

 そして――セリナと呼ばれていた女性の前に、自分が飛び出した。


 止めなければと、そう思った。

 けれど、止められなかった。


 ガイルの手に握られた短剣。

 自分へ向かって振り下ろされる刃。

 腹部へ突き刺さる、鋭い感触。


「――っ!」


 思い出した瞬間、腹部に激痛が走った。


「……ッッ!!」


 エリスは身体を丸める。

 呼吸が乱れる。


「はぁ……っ、はぁ……!」


 震える手で、服をめくり上げた。


 そこには――。


「……え?」


 傷は、なかった。

 腹部を深々と貫いたはずの傷口が、跡形もなく塞がっている。


 ただ、そこには大きな傷跡だけが残されていた。

 治癒魔法。おそらく、誰かが治してくれたのだ。


 エリスは震える指先で、傷跡へ触れた。


「……っ」


 少しだけ痛む。

 けれど、内臓も骨も無事だった。命に関わる傷は、もう残っていない。


 それなのに――どうしようもなく痛かった。


 傷が痛いのではない。


 あのときの記憶が。

 自分が何もできなかったことが。

 ガイルを止められなかったことが。

 仲間たちを救えなかったことが。


 その全てが、まだ胸の奥に残っていた。


「……う……」


 エリスの目から、涙がこぼれた。

 拭っても、次から次へと溢れてくる。


 そのときだった。


 ふわりと、柔らかな感触。

 肩に、布が掛けられた。


「……!」


 エリスが振り返る。

 そこにいたのは――森でガイルに襲われた女性だった。


 セリナと呼ばれていた女性。

 彼女はエリスを心配そうに見つめていた。


「……大丈夫?」


 どこかぎこちない声だった。

 どう声を掛ければいいのか分からない。そんな戸惑いが、その表情から伝わってくる。


「……」


 エリスは涙を拭った。

 そして、小さく頷く。


「……はい」


 声は震えていた。

 それでも、ちゃんと返事をする。


 セリナは、ほっとしたように息を吐いた。


「よかった……」


 その言葉を聞いて、エリスは胸の奥に小さな安堵を覚えた。


 ――よかった。女性は、生きている。

 ガイルは、女性を殺せなかった。


 自分が飛び出したことで、ほんの少しでも、ガイルの暴挙を止めることができたのだ。


 そう思った。


 けれど――。


「……?」


 エリスは周囲を見渡した。


 おかしい。いるはずの人たちがいない。


 ガイル。アリィ。シリアン。リアン。エテルネル。アマンダ。

 誰一人として、死体一つも、この馬車の中にはいなかった。


 代わりにいるのは――。

 先ほどまで、ガイルたちと死闘を繰り広げていたレインたちだけ。


「……」


 エリスの胸が、ざわついた。


「ガイル……様は? 皆は……どこ、ですか?」


 ぽつりと、その名前を口にする。


 セリナの表情が固まった。


「……」


 そして、気まずそうに目を逸らした。

 その反応だけで、何かがおかしいことをエリスは悟った。


「……?」


 何故、目を逸らすのだろう。

 どうして、何も答えてくれないのだろう。


 エリスは呆然としたまま、車内を見回した。


 そのとき。


「……エリス」


 低い声がした。


 レインだった。

 ゆっくりと立ち上がり、エリスの前まで歩いてくる。


 その顔には、疲労が刻まれていた。戦いの傷も残っている。


 けれど、それ以上に――。

 何かを後悔しているような、何かに苦しめられているような、そんな表情だった。


「ガイルは……」


 レインが口を開く。

 しかし、その先の言葉が続かない。


 視線が一度、床へ落ちる。

 拳が、わずかに震えていた。


「……」


 エリスは黙ってレインを見る。


 嫌な予感がした。

 聞きたくない。でも、聞かなければならない。


「みんな……は、どこ……?」


 もう一度、尋ねる。


 レインは目を閉じた。

 そして――何かを決意するように、ゆっくりと目を開いた。


 そこにあったのは、先ほどまでの苦悩とは違う。覚悟だった。


「ガイルは……」


 一瞬の沈黙。


「――俺が殺した」


「…………え?」


 エリスの思考が止まった。


 聞き間違いだと思った。

 いや――そうであってほしかった。


「……なんて……?」


 レインは、もう一度繰り返した。


「ガイルは、俺が殺した」


「……」


 エリスの唇が、わずかに震える。


 頭の中が真っ白になった。

 涙さえ、止まった。


 ただ、その言葉だけが何度も頭の中で繰り返される。


 ――ガイルは、俺が殺した。


 その瞬間、胸の奥に残っていた最後の何かが、音もなく崩れ落ちた。


「……どうして……?」


 ようやく絞り出した声は、ひどく小さかった。

 レインは答えるまでに、少しだけ時間を置いた。


「……あいつは、もう自分を失っていた」


「そんな……」


「神器だ」


 レインは、そう呟いた。


「あの盾……あれの力に、ガイルは呑まれていた」


「……神器……」


 エリスは俯いた。


 あの盾の力を何度も見た。

 木々を押し潰し、地面を抉り、レインたちを吹き飛ばした異常な力。


 腕を斬られても、炎に焼かれても。

 何事もなかったように傷を再生させた。


「神器の力を手にしたことで、あいつは自分の力を過信した。いや……違うな」


 レインは苦しそうに言葉を選ぶ。


「過信なんてものじゃない。力に、自分自身を持っていかれたんだ」


「……」


「仲間であるはずのお前を刺した」


 エリスの身体が、小さく震えた。


「それだけじゃない。お前を人質に取った。盾として使った。俺たちが攻撃できないと分かっていてな」


「……」


「それでも、あいつは止まらなかった」


「……そんな……」


 エリスは首を横に振った。


「そんなわけ……ない……」


 声が震える。


「ガイル様は……そんなこと……」


 言葉が続かなかった。

 ――そんなことをする人ではない。そう言いたかった。


 けれど、言えなかった。


 自分の首を絞めた手。冷たい目。仲間たちの死体を踏みつけて歩いた姿。

 そして――自分の腹へ突き刺さった短剣。


 何より、自分を刺した直後に見た、あの笑顔。


「……」


 エリスは自分の腹へ手を当てた。

 もう傷は塞がっている。けれど、そこに残った痛みだけは消えてくれない。


「……私も……分かってました」


 小さな声だった。


「何がだ?」


「ガイル様が……おかしくなっていたこと」


 レインは何も言わず、エリスの言葉を待った。


「アリィさんも……シリアンさんも……」


 エリスの声が震える。


「リアンさんと、エテルネルさんも……アマンダさんも……」


 一人ずつ、名前を口にする。

 そのたびに胸が締め付けられた。


「みんな……何かに取り憑かれたみたいになっていました」


 怒り。憎しみ。復讐。

 その感情だけに支配されていた。


 自分が何をしているのか、誰を傷つけているのか、その先に何が待っているのか。

 考えることをやめてしまったように。


「……みんなは、もう……戻れなかったんでしょうか」


 レインは目を伏せた。


「……ああ」


 短い答えだった。


「俺は、そう思う」


 その言葉には、苦痛が滲んでいた。


「お前の仲間たちは……もう手遅れだった」


「……」


 エリスは唇を噛んだ。


 分かっていた、分かっていたのだ。

 それでも――。


「ガイルは……」


 レインが続ける。


「あいつは最後まで俺たちを殺そうとした」


 握った拳に力が込もる。


「何度止めようとしても、聞く耳を持たなかった」


「……」


「もう、どうしようもなかった」


 レインは、ゆっくりと息を吐いた。


「だから……俺が殺した」


 エリスは何も言えなかった。

 その言葉を聞いても、頭では理解できない。


 ガイルが死んだ。

 あのガイルが、自分を救ってくれた人が、もうどこにもいない。


「……嘘」


 ぽつり。


「嘘です……」


「……」


「だって……ガイル様は……」


 視界が滲む。


「ガイル様は……私を……」


 そこで、言葉が途切れた。

 何を言えばいいのか分からなかった。


 救ってくれた。守ってくれた。優しくしてくれた。

 ――そして、殺そうとした。


 相反する記憶が頭の中でぶつかり合う。


「……う……」


 身体から力が抜けていく。


「エリス?」


「……」


 次の瞬間、エリスの身体がゆっくりと傾いた。


「エリス!」


 レインが慌てて支える。

 だが、もう意識はなかった。


 受け入れられなかった。あまりにも多くのことが起こりすぎた。


 大切だった人たちが死んだ。

 そして最後には――自分を救ってくれた人まで死んだ。


 エリスの意識は、再び暗闇へ沈んでいった。



 ―――。



 ――どれだけ時間が経ったのだろう。


「……ん……」


 エリスが再び目を開けたとき、馬車の外は真っ赤に染まっていた。

 夕焼けだった。空一面を覆う赤い光が、馬車の小さな窓から差し込んでいる。


「……夕方……?」


「起きたか」


 声に振り向くと、レインがいた。

 手には、小さな器がある。


「これを飲め」


「……?」


「リーナ……俺の仲間が作った治癒効果のある白湯だ。まだ身体が本調子じゃないだろ」


 エリスは器を受け取った。


「……ありがとう、ございます」


 両手で器を包む。

 温かい。その温度が、冷え切っていた身体にゆっくりと染み込んでいく。


「もうすぐ街に着く」


「街……」


「ああ。オノクスだ」


 その言葉を聞き、エリスは窓の外を見る。


 遠くに建物が見え始めていた。

 人々の暮らす街。自分たちがこれまで何度も訪れてきた場所。


 けれど――。


「……レインさん」


「なんだ?」


「……私」


 エリスはしばらく迷った。


「あなたたちを……許せるかは、分かりません」


 レインは静かに頷いた。


「当然だ」


 そして、彼はエリスに向かって深く頭を下げた。


「俺は、君に恨まれても仕方がない」


「……」


「仲間を殺したんだ。君にとっては、家族と同じような存在だったんだろう」


 その声には、言い訳が一切なかった。


「だから……すまない」


 エリスは、しばらくその姿を見つめていた。


 そして――。


「……頭を上げてください」


「……」


「レインさん」


 レインがゆっくりと顔を上げる。

 エリスは俯きながら言った。


「私には……レインさんを責めることなんてできません」


「……どうしてだ?」


「私も……ガイル様を止めたかったから」


 エリスは自分の手を見つめた。


「アリィさんたちも……止めたかった」


 けれど、できなかった。何もできなかった。


「……ただ」


 エリスはレインを見る。


「私には……止める方法がありませんでした」


 レインは黙っている。


「レインさんたちも、きっと同じだったんですよね」


 その言葉に、レインの目がわずかに揺れた。


「……ああ」


 短い返事。

 けれど、その声には深い自責が込められていた。


 ガイルを殺した。それは事実だ。

 けれど――殺したかったわけではない。


 止めたかった。

 ただその方法が、命を奪うことしか残されていなかった。


「……ありがとう、ございます」


 エリスが言った。

 レインが目を見開く。


「ガイル様を……止めてくれて、ありがとうございました」


「……」


 レインは答えなかった。ただ、苦しそうに目を伏せる。

 まるで、その言葉だけでは拭い切れない何かを抱えているようだった。


 そのとき。


「街に着いた」


 御者席から、ミカの声がした。

 馬車がゆっくりと速度を落とし、オノクスの街へ入っていく。


 しかし、街へ入った瞬間だった。


「……あ?」


 一人の住人が、馬車の中を覗き込んだ。


「レイン……?」


 その声に、別の人間も振り返る。


「レインだ!」


「どうしてレインがここに?」


「待て……」


 そして、馬車の中にいるエリスへ視線が向けられた。


「……あの子」


「ガイル様のところの子じゃないか?」


「なんでレインたちと一緒にいるんだ?」


 ざわざわと、人が集まり始める。


 オノクスの街では、レインとガイルの関係を知る者も少なくなかった。

 かつて同じパーティーだったこと。そして――ガイルがレインたちに追放されたことも。


「まさか……」


 一人の男が、険しい顔をした。


「お前ら……ガイル様を襲ったのか?」


 レインたちは答えなかった。


「おい、答えろ!」


「……」


「ガイル様はどうした!」


 人が増えていく。

 セリナたちは何も言わず、馬車から降りる。


「行こう、レイン」


 セリナが小さく言った。


「ここにいたら、まずい」


 レインも歩き出そうとした。

 だが――足を止めた。


「……いや、待て」


「レイン?」


 レインは振り返る。

 そして、集まった住人たちを真っ直ぐに見つめた。


「俺はやるべきことをやる」


 静かな声だった。


「ガイルは――」


 一瞬だけ、目を閉じる。


 ――そして。


「俺が殺した」


「……」


 街の空気が凍った。


「……なんだと?」


「今……何て言った?」


「ガイル様を……殺した?」


 次の瞬間。


「ふざけるな!!」


 誰かが叫んだ。拳が飛んだ。


「ぐっ!」


 レインの顔が横へ弾かれる。


「お前が……!」


 さらに一発。


「レイン!」


 セリナが叫ぶ。

 だが、人々の怒りは止まらなかった。


「ガイル様を追い出したのもお前らだろう!」


「今度は殺したのか!」


「仲間だったんじゃないのか!」


「人殺しが!」


 殴られる。蹴られる。

 地面へ倒れても、誰も止めない。


「やめて!」


 セリナが叫ぶ。


「レインは……!」


 だが、声は怒号にかき消された。


 レインは抵抗しなかった。

 ただ、歯を食いしばって耐えていた。


「……っ」


 頬から血が流れる。身体中が痛む。

 それでも、立ち上がろうとする。


 だが、また蹴られた。


「ぐっ……!」


 そして――しばらくして、人々はようやく去っていった。

 残されたのは、静まり返った街路。そして、地面に倒れたレインだった。


「レイン!」


 セリナたちが駆け寄る。


「大丈夫!?」


「しっかりして!」


 レインは動かなかった。

 身体中が傷だらけだった。


 それでも、しばらくしてゆっくりと目を開ける。


「……」


 セリナが涙を浮かべる。


「どうして……どうして何も言わなかったの……!」


 レインは、かすかに笑った。


「……俺たちは」


 声は弱い。それでも、はっきりしていた。


「やるべきことを……やったんだ」


 セリナは息を呑む。


「……レイン」


 レインは空を見上げる。

 夕焼けに染まった空。それはあまりにも綺麗だった。


 けれど、その赤は――今日失われた命を思わせるほど、どこか悲しい色をしていた。


「これで……いい。これが、正しいことなんだ」


 レインは、そう呟いた。


 エリスは、地面に倒れたレインを見つめていた。


「……」


 身体中を傷だらけにしながら、それでもレインは立ち上がろうとしていた。

 けれど、身体はもう限界だった。


「レインさん……」


 エリスは小さく息を吐く。


 そして――。


「私が運びます」


「え?」


 セリナが驚いた顔をする。


「でも、あなたも怪我を――」


「大丈夫です」


 エリスはそう言って、レインの身体を支えた。

 思っていたよりも重い。けれど、何とか肩を貸しながら歩き出す。


 セリナたちも慌てて後を追った。

 向かったのは、レインたちが泊まっている宿だった。



 ―――。



「そこに寝かせて」


 宿の一室へ入ると、セリナが指示を出した。

 エリスはレインをベッドへ寝かせる。


「リーナ、お願い」


「分かった」


 治癒術士のリーナがレインの身体へ手をかざす。


「――癒しの光よ、彼の者に立ち上がる力を与えたまえ」


 淡い光が、レインの身体を包み込んだ。

 裂けた皮膚が塞がっていく。腫れ上がった顔も少しずつ元へ戻っていく。

 それでも、すぐに全ての傷が消えるわけではない。


 治癒魔法にも限界がある。


「……かなり酷い傷」


 リーナが眉を寄せる。


「命に別状はないけど、しばらく安静にしたほうがいい」


「ありがとう」


 セリナが頷いた。


「私たちは外で待っていよう」


「はい」


 エリスは部屋を出た。

 廊下には、ミカがいた。


 しばらく、誰も口を開かなかった。

 宿の廊下には静かな時間が流れている。


 エリスは二人を見つめた。


 そして――。


「……すみません」


「え?」


 セリナが振り向く。

 ミカも、僅かに眉を動かした。


「どうして謝る?」


 ミカが尋ねる。

 エリスは少し迷った。


「この街が……少し前までどうだったかは……お二人もご存じだと思います」


「……?」


 ミカは分からないというように首を傾げた。

 すると、セリナが口を開く。


「数か月前まで、廃街同然だったんでしょ?」


「……はい」


 エリスは頷いた。


「オノクスの住民にとって……ガイル様は、救世主だったんです」


「救世主?」


 ミカが呟く。


「はい」


 エリスは窓の外へ視線を向ける。


 今のオノクスには、人がいる。店もある。道を歩く人々の姿も見える。

 けれど、ほんの少し前までは違った。


「数か月前まで、この街は……ほとんど廃街だったんです」


 大地は枯れていた。草木は失われていた。畑は荒れ果て、街には活気がなかった。

 人々は、生きていくことさえ困難な状況に置かれていた。


「そんな街を救ったのが……ガイル様でした」


 エリスの声は静かだった。


「ガイル様は神器の力を使って……大地を癒しました」


「……」


「神器には、傷を癒すだけじゃない力があったんです」


 ――癒しの力。

 大地へ流れた力は枯れた土を蘇らせた。

 失われていた草木が芽吹き、大地に再び命が戻った。


 それによって、人々は再びこの街で暮らせるようになった。


「だから……街の人たちは、ガイル様を敬っていました」


 エリスは俯く。


「救世主だって……そう呼んでいたんです」


「……なるほどね」


 セリナが小さく呟いた。


「だから、さっきレインさんにしたことは――」


 エリスが言いかける。

 しかし。


「それは違う」


 セリナが遮った。


「……え?」


「レインが馬鹿だっただけよ」


 あまりにもあっさりとした言葉だった。


「……」


 エリスが目を丸くする。

 セリナは腕を組んだ。


「馬鹿正直に全部話しちゃって……」


「……」


「自分がガイルを殺したなんて、あんな大勢の前で言う必要ないでしょう」


 呆れたように息を吐く。


「そりゃ、殴られるわよ」


「……でも」


 エリスは困惑した。


「レインさんは……嘘をつけなかったんだと思います」


「分かってる」


 セリナの返事は早かった。


「だから余計に馬鹿なのよ」


 そう言いながらも、その表情にはレインを責める色はなかった。


 むしろ――仕方のない奴だ、とでも言いたげな。

 そんな、長く一緒に戦ってきた仲間を見るような目をしていた。


 エリスはその横顔を見つめた。

 少しだけ、胸の奥にあった重いものが、軽くなった気がした。



 ―――。



 それから二日後。

 傷を癒したレインたちが向かったのは、ノワラ王国の首都――カーヴァインだった。


 エリスにとっても、レインにとっても、そしてガイルにとっても、生まれ育った街。

 けれど、辿り着いたその街の中へ、馬車が入ることはなかった。


 街から少し離れた場所にある、深い森。

 馬車を降りたエリスは、辺りを見回した。


 木々の間を抜ける風。湿った土の匂い。差し込む木漏れ日。


「……ここは」


 エリスが呟く。

 レインたちは何も言わず、森の奥へと歩いていった。


 そこは、かつてレインたちがガイルをパーティーから追放した場所だった。

 ガイルを置き去りにした場所。そして――ガイルが、すべてを失った場所。


「ここで……埋葬する」


 レインが静かに言った。

 エリスは、少しだけ目を見開く。


「……ガイル様を?」


「ああ」


 けれど、そこにガイルの遺体はない。


 レインたちはあの戦いの後、森に残されたガイルの遺体を火葬していた。


 残されたものは、ほんの僅かだった。

 エリスの手元にあるのは――ガイルが身につけていた鎧。

 そして、あの忌々しい神器の盾。


 エリスは、両腕で鎧を抱きしめた。

 ずしりと重い、冷たい金属の感触。

 けれど、その重さが妙に懐かしかった。


「……」


 鎧を抱いたまま、エリスは目を閉じる。


 浮かんできたのは、最後のガイルではなかった。

 笑っていたガイル。優しかったガイル。

 初めて出会ったときの――あの『英雄』だった。


『エリス! 良い名前だ!』


 あの声が聞こえた気がした。


「……ガイル様」


 胸の奥が、また痛くなる。

 レインたちは少し離れた場所から、そんなエリスを静かに見つめていた。


 やがて。


「……もう、いいか?」


 レインが優しい声で呟く。

 エリスは俯いたまま、小さく頷いた。


「……はい」


 レインはエリスから鎧を受け取る。

 そして、地面に掘られたばかりの穴へ、丁寧に置いた。


 その隣には、神器の盾。

 忌々しいほどの力を持ち、ガイルを救い、そして――最後には、ガイルを壊してしまったもの。


 レインはしばらく盾を見つめていた。

 それから、静かに土をかける。


 乾いた音が森に響く。


 少しずつ、少しずつ、鎧が土に埋もれていく。

 やがて、その姿が見えなくなる。


「……」


 エリスは、その光景をただ見つめていた。


 胸が締め付けられる。


 もう、本当にいない。

 あの鎧の中に、ガイルはいない。


 どれだけ名前を呼んでも、どれだけ待っても、もう――帰ってこない。


「……っ」


 喉の奥から、嗚咽が漏れた。


 この数日間、レインはずっとエリスの傍にいてくれた。

 食事を用意してくれた。傷を気にかけてくれた。

 眠れない夜には、何も言わず近くにいてくれた。


 おかげで、エリスはなんとか立っていられた。


 少しずつ、前を向こうとしていた。

 けれど無理だった。


 ガイルがもういない。

 その事実は、そんな簡単に受け入れられるものではなかった。


 かつて――エリスは、絶望の中にいた。


 暗い地下牢。空腹。痛み。恐怖。

 生きる意味なんて、どこにもなかった。


 そんな自分を救ってくれた人がいた。

 ガイルだった。


 服をくれた。食事をくれた。言葉を教えてくれた。文字を教えてくれた。魔法を教えてくれた。笑うことを教えてくれた。

 生きることを――教えてくれた。


「あ……」


 一つ思い出すたびに、胸の奥から何かが溢れてくる。


 初めて服を着た日のこと。初めてまともな食事を食べた日のこと。文字が読めるようになった日のこと。初めて魔法を使えた日のこと。


 そのたびに笑ってくれたガイル。褒めてくれたガイル。

 失敗しても、何度でもやり直させてくれたガイル。


 記憶が次から次へと、走馬灯のように頭の中を駆け巡っていく。


「……うっ……」


 嗚咽が止まらない。

 涙が頬を伝う。

 拭っても拭っても、止まらなかった。


 やがて、エリスはその場に膝をついた。


「……ガイル……様……」


 土に手をつく。


「ガイル様……」


 返事はない。


「……ガイル様ぁ……」


 声が震える。

 そして。


「……寂しいよ……」


 その言葉を口にした瞬間、堪えていたものがすべて崩れた。


「寂しいよ……ガイル様……!」


 エリスは泣いた。


 子供のように声を上げて、ただ泣き続けた。


 レインは何も言わず、エリスの隣にしゃがみ込んだ。

 しばらく、言葉を探すように沈黙する。


 そして。


「……俺もだ」


 エリスが顔を上げる。

 レインは、土に埋められた墓を見つめていた。


「俺も……寂しい」


 その声には、深い後悔が滲んでいた。


「ガイルは……俺たちの仲間だった」


 レインは拳を握る。


「俺たちは、間違えた」


 エリスは黙って聞いていた。


「ガイルを追い出したことも」


 一度、目を閉じる。


「その後、あいつがどうなったのかを知ろうとしなかったことも」


 レインは自分を責めるように、言葉を続けた。


「全部……俺たちの責任だ」


 けれど。


「……それでも」


 レインはエリスを見る。


「俺たちは、やるべきことをやったんだ」


 エリスの瞳から、また涙が零れる。


「ガイルは、もう戻ってこない」


 その言葉は残酷だった。

 けれど、だからこそ。


「だったら……俺たちが生きるしかない」


「……生きる……?」


「ああ」


 レインは頷く。


「ガイルが救った人たちがいる」


 エリスは、思い出す。


 オノクスの街。枯れていた大地。

 そこに草が生え木々が戻り、人々の生活が蘇っていった。


「ガイルは……誰かを救うことをやめなかった」


 レインは静かに言った。


「最後は、道を間違えた。俺たちが止めるしかなかった」


 それでも。


「ガイルが誰かを救ったっていう事実まで、なくなるわけじゃない」


 エリスは俯いた。

 涙を拭う。


「……ガイル様の……やったこと……」


「ああ」


 レインは立ち上がった。


「俺たちは、あいつの”意思”を継ぐんだ」


 エリスは土に埋められた場所を見る。

 もう、鎧は見えない。そこにあるのは、ただの土だけだった。


 それでも、エリスにはそこにガイルがいるような気がした。


「……私も」


 小さな声。


「……私も、頑張ります」


 レインは何も言わず、エリスを見つめる。


「ガイル様が教えてくれたこと……全部、無駄にしたくない」


 涙を流しながら、エリスはもう一度だけ墓を見る。


「だから……私、生きます」


 それは、まだ弱々しい決意だった。

 けれど確かに、エリス自身の言葉だった。



 ―――。



 それから――数か月の時が経った。

 あの日から、エリスの生活は少しずつ変わっていった。


 まず、エリスは診療所で改めて身体の状態を調べてもらった。

 ガイルに刺された腹部の傷。一度はリーナの治癒魔法によって塞がっていたものの、内部に残っていた傷は決して軽いものではなかった。


 専門の治癒術士による、より高度な治癒魔法。

 何度も治療を受け、時間をかけて身体を癒していった。


 幸いにも、大きな後遺症は残らなかった。

 ただ一つ。腹部には、消えない傷跡が残った。


「……この傷は、消せますか?」


 エリスが尋ねたとき。

 治癒術士は少し考えてから答えた。


「完全に消すことは難しいでしょう。ですが、時間をかければ目立たなくすることはできます」


「……そうですか」


 エリスは、自分の腹部に手を当てた。

 そこには、あの日の傷が残っている。


 ガイルに刺された傷。大切な人に傷つけられた証。


 それでも。


「でも……このままでいいです」


 エリスはそう答えた。


「この傷は……残しておきたいです」


 それは、忘れないためだった。


 ガイルとの日々を、自分が経験したことを。

 そして――あの人が最後まで、自分にとって大切な人だったということを。


 この傷は、その証だった。


 治療を終えたエリスは、その後しばらくレインたちと行動を共にした。

 正式な仲間ではない。あくまで臨時のパーティーメンバー。


 それでも、エリスにとっては大切な時間だった。

 旅と言っても、遠くまで行ったわけではない。ノワラ王国内の限られた場所を行き来するだけ。


 魔物を討伐することもあれば、町で依頼を受けることもあった。

 食事をして、宿に泊まって、時には何もせず、町を歩くこともあった。


 そんな旅だった。


 レインが意図してそうしていた。


 ガイルとエリスが歩いた場所。ガイルがエリスに魔法を教えた場所。一緒に食事をした町。笑った場所。

 エリスが知らないうちに、レインはそうした場所を選んでいた。


 ガイルとの思い出を、少しでも感じられるように。

 それが、レインなりの優しさだった。


 エリスも、それに気づいていた。


 だから。


「……ありがとうございます」


 何度もそう言った。


 レインは、そのたびに。


「気にするな」


 とだけ答えた。


 そして――。

 そんな日々にも、終わりが近づいていた。


「……ここにいるのも、そろそろ終わりだな」


 ある日の宿。

 レインが、エリスにそう告げた。


「……はい」


 エリスは静かに頷く。


「私……どうなるんでしょう」


 その問いに、レインは少しだけ黙った。

 そして。


「里親が見つかった」


「……里親?」


「ああ」


 エリスは目を瞬かせる。


「ベルモンド家っていう家だ」


 聞いたことのない名前だった。


「貴族でも王族でもない」


 レインは続ける。


「普通の家だ」


 父親と母親。

 そして、エリスと同い年の息子が一人。


「二人とも優しい人たちだ。子供を一人増やすことにも、理解を示してくれている」


「……」


 エリスは俯いた。

 胸の奥が、少しだけざわついた。


 知らない家。知らない人。

 そこで暮らす。それは――怖かった。


「……私、迷惑になりませんか?」


 小さな声だった。


「私みたいなのを……家に置いたら」


 レインは、そんなエリスを見ていた。

 そして、静かに言った。


「エリス」


「……はい」


「子供は、子供らしくするのが一番だ」


 エリスは顔を上げる。


「……子供らしく?」


「ああ」


 レインは頷いた。


「お前はまだ十二歳だ」


 その言葉に、エリスは少しだけ目を伏せた。


 十二歳。自分がそんな年齢だったことを、エリス自身が忘れていた。


 奴隷だった頃。親を失った頃。ガイルに救われた頃。魔法を覚えた頃。

 そして――ガイルを失った頃。


 あまりにも多くのことがありすぎた。

 だから、自分がまだ子供だということを考えたことすらなかった。


「冒険者として生きていく必要なんてない」


 レインは続ける。


「少なくとも、今の君にはな」


「……でも」


「健康に生きる」


 エリスの言葉を遮るように、レインは言った。


「それだけでも、立派なことなんだ」


「……」


「毎日飯を食って、ちゃんと眠って、学校に行く」


 一つ一つ。

 当たり前のようなことを、レインは口にする。


「友達を作って」


「……友達」


「勉強して」


「……勉強」


「遊んで」


 エリスは、少しだけ困ったような顔をした。


「……遊ぶ?」


「ああ」


 レインは笑った。


「それでいい」


 エリスは黙っていた。


 そんな生活を、自分がしていいのだろうか。

 冒険者として戦うことでもなく、誰かを守るために剣を握ることでもなく。


 ただ笑って、学んで、遊んで、生きる。

 そんな普通の生活を。


「……ガイル様は」


 エリスが呟いた。


「……私に、魔法を教えてくれました」


「ああ」


「文字も」


「ああ」


「たくさん……いろんなことを」


 エリスは自分の手を見つめる。


「それなのに……私が普通に学校へ行って、普通に暮らして……」


「それでいいんだ」


 レインは、優しく言った。


「むしろ、それがいい」


「……」


「ガイルの教えを無駄にしたくないなら」


 レインはエリスの目を見る。


「ちゃんと生きろ」


「……!」


「ガイルがお前に教えたことは、戦うためだけのものじゃない」


 その言葉に、エリスは息を呑んだ。


「文字を教えたのも、魔法を教えたのも、お前が自分の人生を歩けるようにするためだったんじゃないか?」


 エリスは答えられなかった。

 けれど、胸の奥に温かなものが広がっていく。


「だから――」


 レインは笑う。


「学校へ行け」


「……」


「勉強してこい」


「……はい」


「友達を作れ」


「……はい」


「そして、ちゃんと笑え」


 エリスの瞳に、涙が浮かぶ。

 けれど、今度の涙は、あの日までとは少し違った。


「……はい」


 エリスは、涙を拭う。


「私……頑張ります」


 レインは何も言わず、頷いた。


「それでいい」


 エリスは窓の外を見る。

 そこには、青い空が広がっていた。


 奴隷だった頃、見ることすら許されなかった空。

 ガイルに救われてから、何度も見上げた空。


 そしてこれからも、きっと何度でも見ることになる。


「……ガイル様」


 小さく呟く。


「私……行ってきます」


 もう、返事はない。

 それでも、不思議と寂しくはなかった。


 エリスは立ち上がる。

 そして、自分の新しい人生へ向かって、歩き出した。



 ―――。



 数日後。ノワラ王国、カーヴァイン。


 街の外れにある広場では、レインたち――冒険者パーティー『蒼銀の翼』が、新たな冒険へ旅立つ準備を整えていた。

 馬車には荷物が積み込まれ、武器や道具の最終確認も終わっている。


 あとは、出発するだけだった。


「準備はできた?」


 セリナが微笑みながら問いかける。

 その瞳には、新たな冒険への期待と、僅かな緊張が宿っていた。


「もちろん」


 ミカは背負った矢筒を軽く叩く。

 その姿には、以前よりもどこか力強さがあった。


「準備できてるよ」


 リーナも杖の手入れを終え、明るい声で答える。


 そんな三人の姿を、エリスは少し離れた場所から見つめていた。

 近くの岩に腰を下ろしながら。


 今日で、彼らともお別れになる。

 そう思うと、胸の奥が少し寂しくなった。


 けれど、悲しいだけではなかった。

 この数か月、レインたちと旅をして、一緒に食事をして、同じ宿で眠って、時には笑って。

 エリスは、少しずつ彼らとの距離を縮めていった。


 最初は、怖かった。

 ガイルを殺した人たち。自分の大切な人を奪った人たち。


 そう思っていた。


 けれど、彼らもまた、ガイルを失ったことで傷ついていた。

 そして、エリスと同じように、ガイルのことを忘れずに生きようとしていた。


「……」


 エリスがそんなことを考えていると。


「エリス」


 声がした。


 顔を上げる。

 そこにいたのは、ミカだった。


「ミカさん?」


 ミカは少しだけ躊躇うようにしてから、エリスの前に手を差し出した。

 その手のひらに乗っていたのは、小さな木彫りの矢だった。


「……これ」


「これは……?」


 エリスが受け取る。


 小さな矢。木を削って作られた、簡素なものだった。

 ミカは少しだけ視線を逸らし、頬を掻く。


「お守り」


「お守り?」


「私が作ったやつだけど」


 そう言ってから、少しだけ間を置く。


「……守り神みたいなもんだと思って」


 不器用な言葉だった。

 けれど、その言葉がエリスには嬉しかった。


「……ふふ」


 思わず笑みがこぼれる。

 ミカが少し驚いたようにエリスを見る。


 エリスは木彫りの矢を両手で包み込んだ。


「ありがとうございます」


 そして、太陽のような笑顔を浮かべる。


「大切にします」


 ミカは少しだけ照れたように目を逸らした。


「……うん」


 短い返事。

 けれど、その声には確かな優しさがあった。


「それと」


 ミカは少しだけエリスを見る。


「元気で」


「はい」


「ちゃんと食べて」


「はい」


「無茶しないで」


「……はい」


 エリスは嬉しそうに頷く。


「ミカさんも」


「ん?」


「無茶しないでくださいね」


「……善処する」


「ふふっ」


 二人で笑った。


 そこへ。


「エリス、時間だ」


 レインの声が聞こえた。


 エリスが振り返る。

 すると、広場の向こうから、二人の男女が歩いてくるのが見えた。


「……あの人たちが?」


 レインが頷く。


「ああ」


 二人は、エリスのもとへゆっくりと近づいてきた。


 男性は四十代ほど。

 穏やかな表情をした、ごく普通の男だった。


 その隣には、優しそうな女性。

 二人とも豪華な服など着ていない。貴族らしい雰囲気もない。

 本当に、どこにでもいるような普通の夫婦だった。


「初めまして」


 男性が頭を下げる。


「ノルス・ベルモンドと申します」


「妻のルーシュ・ベルモンドです」


 女性も優しく微笑んだ。


 エリスは立ち上がり、緊張したように頭を下げる。


「エリス……です」


「ええ、知っています」


 男性は穏やかに笑った。


「レインさんから、いろいろ聞いています」


「……そうですか」


「無理に緊張しなくていいのよ」


 女性が優しく声をかける。


「今日から、私たちは家族になるんだから」


「……家族」


 その言葉を聞いた瞬間、エリスの胸が僅かに締め付けられた。

 かつて、家族と呼べる存在は、両親だけだった。


 そして、その両親はもういない。

 だから、その言葉を聞くのが、少し怖かった。


「……よろしくお願いします」


 エリスは小さく頭を下げた。


「こちらこそ」


 ベルモンド夫妻は、優しく笑った。

 その様子を見ていたレインが、一歩前へ出る。


「エリスは、少し人見知りするところがあります」


「ええ」


「それと……」


 レインは少しだけ困ったように笑う。


「妙に頑張りすぎるところがあります」


「……」


 エリスが少しだけ頬を膨らませる。


「レインさん……」


「本当のことだろ」


「……そうですけど」


 ベルモンド夫妻が小さく笑った。


「分かりました」


 男性が頷く。


「この子が無理をしないよう、私たちが見ていきます」


「お願いします」


 レインは深く頭を下げた。


「この子には……普通の生活をさせてやってください」


「もちろんです」


「できれば、学校にも通わせてください」


「はい」


「そして……」


 レインは一瞬だけ言葉を止めた。


「笑って過ごせるようにしてやってください」


 女性は優しく頷いた。


「任せてください」


 その言葉を聞いて、レインはようやく、少しだけ安心したように息を吐いた。


「……ありがとうございます」


 そして、レインはエリスを見る。


「エリス」


「はい」


「俺たちは、もう行く」


「……はい」


 分かっていた。分かっていたはずなのに、胸が寂しくなる。


 レインが近づき、エリスの前で足を止める。


「元気でな」


「……レインさんたちも」


「俺たちは冒険者だ。これからも、いろんな場所へ行く」


「はい」


「だから、お前も自分の道を歩け」


 エリスは小さく頷く。


「……私、忘れません」


「何を?」


「ガイル様のこと」


 レインの表情が僅かに変わる。


「教えてもらったことも」


 エリスは胸元に手を当てる。

 そこには、ミカからもらった木彫りの矢があった。


「そして……レインさんたちと過ごした時間も」


「……ああ」


「私、ちゃんと生きます」


 レインは静かに笑った。


「それでいい」


 少しの沈黙。

 そして。


「……レインさん」


「ん?」


「約束してください」


「何を?」


 エリスは真っ直ぐにレインを見る。


「ガイル様の意思を……一緒に背負うことを」


 レインは目を見開いた。

 エリスは続ける。


「私も、背負います」


「……」


「ガイル様が私にくれたものを、これからも大切にします」


 レインはしばらく黙っていた。

 そして、ゆっくりと頷いた。


「ああ」


 拳を握る。


「約束する」


「……はい」


「俺たちは、ガイルの分まで生きる」


 エリスの目に、涙が浮かんだ。

 けれど、今度は泣かなかった。


「……はい」


 レインは最後に、エリスの頭へ手を置いた。


「じゃあな、エリス」


「……さようなら」


 その言葉を口にした瞬間、胸が痛くなった。

 けれど、エリスは笑った。


「いってらっしゃい」


 レインも笑う。


「行ってくる」


 そして、『蒼銀の翼』は歩き出した。


 新たな冒険へ。新たな人生へ。

 何度も振り返りながら手を振るエリスに、レインたちも手を振り返す。


 やがて、その姿が小さくなっていく。

 見えなくなるまで、エリスはその場に立っていた。


「……」


 寂しい。それでも、もう立ち止まらない。


 エリスは胸元に手を当てる。

 そこには、小さな木彫りの矢。


 そして、心の中には――大切な人から受け取った、たくさんのものがある。


「……行こうか」


 ノルス・ベルモンドが優しく声をかける。

 エリスは振り返った。


「はい」


 そしてエリスもまた、新しい人生へ向かって歩き出した。



 ※※※



 その後――。


『蒼銀の翼』は、世界中で名を知られる冒険者パーティーとなった。


 ノワラ王国を出ていくつもの国を巡り、いくつもの街を訪れ、その先々で、人々を助けた。

 魔物に襲われた村を救い、盗賊に苦しめられていた人々を助け、災害に見舞われた街では、復興の手伝いをした。


 いつしか、彼らもまた、ガイルと同じように。

『英雄』と、『勇者』と、そう呼ばれるようになっていた。


 その名を聞けば、笑顔になる人がいた。

 彼らに救われたことで、明日を生きることができた人がいた。

 彼らに憧れ、冒険者を志した者もいた。


『蒼銀の翼』が救った人々の数は――もう、彼ら自身にも分からない。


 それでも、救った人々の顔を、交わした言葉を。

 その一つ一つを、彼らは決して忘れることはなかった。


 それは、かつてガイルがそうだったように。

 誰かを救ったという事実は、救った本人の胸にも残り続けるものだったからだ。


 ――数年。

 彼らは冒険者を続けた。


 そして、いつしか彼らの名は世界中へと広がっていった。


『蒼銀の翼』――その名は、希望の象徴となった。


 だが、彼らの物語には――誰にも知られていない結末がある。


 彼らが迎えた、最期の瞬間。

 それを見届けた者は、誰一人としていなかった。


『英雄』『勇者』

 そう呼ばれる者たちが、いつか必ずと言っていいほどぶつかる、大きな壁。


 それは――六星(りくせい)魔王。

 人の力では抗うことすら難しい、世界に君臨する存在。


 ある日、『蒼銀の翼』は、一人の王から依頼を受けた。


 ――勇者として、六星魔王を討て。


 討伐対象は――六星魔王の一人、『畜生道(ビーストルーン)のヴァルガルン』。


 あまりにも危険な依頼だった。

 それでも、彼らは断らなかった。


 これまで、何度も危険に立ち向かってきた。何度も死を覚悟してきた。

 そして、誰かを救うために戦ってきた。


 だから、今回も同じだと思っていた。


 王都を出る日、大勢の人々が彼らを見送った。

 たくさんの声。たくさんの期待。たくさんの願い。

 レインたちは、それに応えるように手を振った。


 そして、ヴァルガルンの下へと旅立った。

 ――それが、彼らの最後の旅となった。


『蒼銀の翼』は――全滅した。


 誰も帰ってこなかった。

 彼らが何と戦い、どのように敗れ、最後に何を思ったのか。


 それを知る者はいない。


 ただ、彼らが遺したものだけは、確かに存在した。


 かつて、彼ら自身を変えた、あの戦い。

 そこで救われた、一人の少女、エリス。


 違法な奴隷商売によって、死にかけていた少女。

 絶望の中で、生きることすら諦めていた少女。

 その少女を救ったのは――『英雄』ガイルだった。


 服を与え、食事を与え、言葉を教え、文字を教え、魔法を教えた。

 生きることを、未来を見ることを、教えてくれた。


 そして、その英雄が道を間違えたとき。

 彼を止めたのが――『勇者』レインだった。


 ガイルを殺すという、誰も望まなかった決断をし、その後も傷ついたエリスに寄り添い続けた。

 エリスが再び歩き出せるようになるまで、ずっと。


 そして最後には、彼女を普通の生活へ送り出した。


 ――そのレインたちも、もういない。

 けれど、だからこそ、残されたものがある。


 エリスは、成長した。

 かつての自分とは比べものにならないほど。


 強くなった。

 魔法を学び、知識を身につけ、人との関わりを知り、笑うことを知った。

 そして、誰かを救うということの意味を知った。


 それは。

 ガイルから受け取ったもの。レインから受け取ったもの。


 そのすべてだった。


 エリスは、歩き続ける。

 彼らが遺したものを胸に、彼らが救った命の一つとして。


 そして――いつか、自分も。

 誰かの人生を変えられる人間になるために。


 英雄だったガイル。

 勇者だったレイン。


 そして、彼らに救われた少女――エリス。


 一人の英雄から始まった物語は、一人の勇者へと受け継がれ。

 そして今、一人の少女の希望となっていく。


 その意思は、決して、途絶えない。











第1章 プロローグ -完-

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