第10話 もう戻れない
「はぁ……はぁ……あいつらは、どこだ……?」
荒々しい息遣いが、静まり返った森に響いた。
木々をなぎ倒し、獣道すら無理やり踏み潰すように進んできたガイルが、ようやく森の出口へ姿を現す。
その手には、エリスの腕が握られていた。
「……っ」
エリスは何度も足をもつれさせながら、それでも引きずられるようにしてガイルについていくしかなかった。
肩から羽織った重厚なマントは泥と雨に汚れ、髪も乱れている。
それでも、その姿には異様な威圧感があった。
だが――以前のような余裕はない。
荒い呼吸。鋭く周囲を探る目。
そして、何よりも隠しきれない焦燥。
レインたちを見失ったことが、ガイルを苛立たせていた。
「……あいつらはどこだ?」
ガイルが辺りを見回す。
その視線が、やがて地面へと落ちた。
そこに広がっていたのは、赤黒い血だまりだった。
「……」
ガイルの眉間に深い皺が刻まれる。
その先にあるものを確認した瞬間――彼の顔が、わずかに歪んだ。
地面には、仲間たちの姿があった。
リアンとエテルネル。
二人の身体には、無慈悲なほど正確に矢が突き立てられている。
少し離れた場所には、人の形を辛うじて残した黒い塊があった。
周囲には、赤い髪が散らばっている。アマンダだった。
「……逃げられたか」
ガイルは拳を握りしめる。
「クソがッ!」
怒鳴り声とともに、地面を蹴り飛ばした。
土が大きく跳ねる。
だが――エリスは、何も言えなかった。
「……」
目の前に広がる光景を見つめながら、ただ息を呑む。
遅かった。間に合わなかった。
もう――駄目なのだ。
自分以外の仲間は、ほとんど死んでいる。
シリアンとアリィは、まだ息があるのかもしれない。けれど、あれほど強かった二人が、もう自力で立ち上がれるようには見えなかった。
リアンとエテルネルは、もう動かない。アマンダも――。
エリスはそれ以上考えることを拒んだ。
これ以上、この地獄を見続けることなどできなかった。
「……もう……逃げちゃったんだよ……」
震える声が、喉の奥から漏れた。
「見て……みんな……死んじゃってる……」
エリスは涙を浮かべながら、ガイルを見上げる。
これ以上、誰かが傷つくところなんて見たくなかった。
だから――せめて、この人だけでも止めたかった。
けれど、ガイルはエリスの言葉を聞いても、足を止めなかった。
仲間たちの亡骸を避けることすらせず、その傍を通り過ぎる。
「街に行くぞ」
「……え?」
「あいつらが向かう場所なんざ、あそこしかない」
あまりにも冷たい声だった。
エリスは耳を疑った。
「……街に……?」
ガイルは振り返らない。
「でも……あの人たちは、もう……」
その言葉が最後まで続くことはなかった。
ガイルが足を止めたからだ。
ゆっくりと振り返る。
「なんだ?」
その瞳には、以前の優しさがなかった。
「何か不満があるのか?」
「い……いえ……」
「こっちを向け」
「……っ」
ガイルの手が伸びる。そして、エリスの顎を乱暴に掴んだ。
強引に顔を持ち上げられ、エリスは逃げることもできずにガイルを見つめる。
「お前を奴隷商から助けてやったのは誰だ?」
「……」
「お前の親の仇を殺してやったのは誰だ?」
エリスの唇が震える。
「そ……それは……」
「誰だ?」
「ガイル……様……」
「そうだ」
ガイルの口元が歪んだ。
「俺だ」
その声には、怒りだけではないものが混じっていた。
自分が与えたもの。自分が救った命。
それらをすべて、相手を縛りつけるための鎖として使うような声音だった。
「この俺がお前を生かしてやったんだ」
「……っ」
次の瞬間、ガイルの手がエリスの首へと移った。
「――!」
細い首を掴まれ、エリスの身体が持ち上がる。
「うっ……!」
足が地面から離れた。
呼吸ができない。
「か……は……っ」
必死にガイルの腕を掴む。
だが、びくともしない。
苦しい。怖い。
そして――何よりも恐ろしかった。
目の前にいる男が、あの頃自分を救ってくれた男と同じ人間だということが。
優しく笑ってくれた。美味しい食事を食べさせてくれた。可愛い服を買ってくれた。文字を教えてくれた。魔法を教えてくれた。
エリスにとって、ガイルは世界そのものだった。
憧れだった。安心できる場所だった。
――それなのに。
今、自分の首を絞めている。
「……あ……」
視界が滲む。
頭の中に、遠い記憶が蘇った。
暗い牢屋。冷たい石の床。怒鳴り声。暴力。明日も生きられるか分からない恐怖。
あの頃と同じだ。
違う、もっと怖い。
なぜなら――あの頃の自分を救ってくれたはずの人が、今は自分を苦しめているから。
「や……め……」
声にならない声が漏れる。
ガイルの指に力が込められる。
「――もう……だめ……」
意識が遠のいていく。
その瞬間だった。
「ガイルぅうううう!!」
森の奥から怒号が響き渡った。
ガイルが振り返る。
そこには、剣を構えたレインが立っていた。
「その子を離せ!」
レインの背後から、仲間たちも姿を現す。
杖を構える女性。治癒術士の女性。そして、弓を手にしたミカ。
ガイルの口元が、不気味に吊り上がった。
「……レイン」
「もう十分だ、ガイル!」
レインは剣を構え直す。
「その子を離せ! お前が恨んでいるのは俺たちだろ!」
「……そうだな」
ガイルは笑った。
だが、その笑みには狂気が滲んでいた。
「だったら――お前らに分からせてやるよ」
ガイルは左手に持つ盾を構える。
そして、盾の前にエリスの身体を突き出した。
「……っ!」
レインの顔が強張る。
「その子を盾にするつもりか!」
「どうした?」
ガイルは挑発するように笑った。
「切れないのか?」
「くっ……!」
レインは剣を握りしめる。
無関係の少女を傷つけるわけにはいかなかった。
その一瞬の躊躇を、ガイルは見逃さなかった。
「ははは……!」
盾へ魔力が流れ込む。
瞬間――空気が震えた。
大地が軋む。
森そのものが悲鳴を上げるように木々が揺れた。
「神器解放――!」
レインが目を見開く。
「何もできないだろう!」
ガイルの声が響く。
「この盾は神器だ! 伝説の武器だ! 俺を何度でも救ってくれる!」
不可視の力が放たれる。
「ぐっ……!」
レインたちの身体が一斉に押し込まれた。
地面が陥没し、木々が軋む。
「ははははは!」
ガイルの笑い声が森に響き渡る。
「そうだ! 俺は死なない!」
だが――。
「……ぐっ!」
レインが一歩、前へ出た。
「なに……?」
もう一歩。
剣を盾代わりに構え、身体を震わせながら、圧力に抗って進んでくる。
「う……おおおおおおおお!!」
レインが吠えた。
そして――一気に距離を詰める。
「なっ――!?」
ガイルの目が見開かれた。
次の瞬間、剣閃が走った。
「――ぐああああああ!!」
ガイルの右腕が、肘の辺りから斬り落とされた。
エリスの首を掴んでいた手が力を失う。
「っ……!」
レインはその瞬間を逃さなかった。
エリスを抱き寄せ、その身体を自分の背後へ庇う。
「大丈夫か!」
「……う……」
エリスの意識は朦朧としていた。
首には赤い痕が残っている。
「治癒を!」
「分かった!」
レインはエリスを仲間の治癒術士へ預ける。
そして再びガイルへ向き直った。
「……」
そこには、右腕を失ったガイルが立っていた。
大量の血が流れている。
だが――。
「……許さない」
ガイルが呟く。
「許さない……」
切断面から、異様な光が溢れ始めた。
「な……?」
レインの目が見開かれる。
肉が蠢く。骨が伸びる。
血管が絡み合い、筋肉が形成されていく。
そして――失われたはずの右腕が、瞬く間に元の形へと戻った。
「……なんだ、これは」
レインが息を呑む。
ガイルは、再生した右手をゆっくり握りしめた。
「はは……」
そして笑う。
「これが神器の力だ」
その顔には、もはや人間らしい喜びすらなかった。
「どんな傷も癒える」
ガイルは盾を掲げる。
「俺は死なない」
「……!」
「俺は――不死身だ!!」
その叫びが森に響き渡った。
「クソッ……!」
レインは剣を握り直す。
だが、どうすればいい。
腕を斬り落としても再生する。魔法で焼いても傷一つ残らない。
神器の圧倒的な力を前に、活路が見えない。
「これでも喰らえ!」
その時だった。
背後から、一発の火球が飛んできた。
「――!」
火球はガイルへ直撃する。
「セリナ!」
レインが叫ぶ。
轟音と共に炎がガイルを包み込んだ。
「ああああああああ!!」
ガイルが苦痛の叫びを上げる。
炎に包まれ、身体が焼けていく。
だが――炎が消えた瞬間。
焼け焦げた皮膚が、見る間に元へ戻っていく。
「な……なんて奴……」
杖を持った女性――セリナの顔から血の気が引いた。
ガイルが、ゆっくりと彼女を見る。
「……次は、お前か」
「セリナ、逃げろ!」
レインが叫んだ。
ガイルが走り出す。
「くっ!」
レインも前へ出る。
だが――。
「邪魔だ!」
神器の盾がレインを弾き飛ばした。
「ぐあっ!」
身体が宙を舞い、地面へ叩きつけられる。
「レイン!」
セリナが叫ぶ。
その瞬間には、ガイルが目の前まで迫っていた。
右手には、いつの間にか短剣が握られている。
「復讐完了ぉおおおおお!!」
短剣が振り上げられる。
「――セリナ!!」
レインの叫び声が響いた。
だが――セリナの前に、誰かが飛び出した。
「……え?」
セリナの目が見開かれる。
そこにいたのは――エリスだった。
治癒を受け、まだ足元もおぼつかないはずの少女。
それでもエリスは、無意識のうちに身体を動かしていた。
止めなければ、助けなくては――誰かが死ぬ。
そう思った瞬間には、もう身体が動いていた。
「待て……!」
レインが叫ぶ。
ガイルの目が見開かれた。
「……な」
振り下ろされた短剣は、止まらなかった。
「……かはっ」
短剣が、エリスの腹部へ深々と突き刺さった。
小さな身体が、大きく震える。視界が白く染まる。
口から、かすかな血が漏れた。
「なんで……?」
セリナの顔が凍りつく。
エリスは自分の腹へ視線を落とした。
そこには、刃が突き刺さっている。
かつて、自分が父母を失った夜。
あの場所で見たものと同じ――痛みよりも先に、恐怖が押し寄せてきた。
「……ガ、イル……様……」
エリスの身体から力が抜ける。
そのまま、ゆっくりと地面へ崩れ落ちた。
―――。
暗い。何も見えない。何も聞こえない。
身体の感覚さえ、もうほとんど残っていなかった。
ただ、胸の奥だけがひどく痛かった。
刺された腹部の痛みなのか。それとも、別の何かなのか。
エリスには、もう分からなかった。
――どうして。
ぼんやりとした意識の中で、そんな言葉だけが浮かんだ。
どうして、こうなってしまったのだろう。
あの日、奴隷だった自分を救ってくれたガイル。
初めて見る綺麗な服を買ってくれた。初めて食べる温かな料理を食べさせてくれた。言葉も知らなかった自分のために、魔導書まで買ってくれた。
何も知らなかった自分に、世界を教えてくれた。
――優しかった。
ずっと、そう思っていた。
だからこそ、信じていた。
ガイルなら大丈夫だと。アリィなら、いつか笑ってくれると。
シリアンなら、冷静になってくれると。リアンも、エテルネルも、アマンダも。
みんな、きっと元に戻ってくれる。
あの夜、扉の向こうから聞こえてきた言葉も。
その翌朝に見た、誰かが壊れてしまったような姿も。
そして、森で始まった殺し合いも。
全部、いつか終わる。いつか目を覚ます。
そう、どこかで思っていた。
――違った。最初から、間違っていた。
エリスは、もっと早く気付くべきだった。
ガイルの変化に。
あの酒場でレインと再会したとき、初めて見るほどの殺気を放っていた、あの瞬間に。
路地裏で壁を殴りつけたときに。
怒鳴り声を上げたときに。
仲間たちが怯えながら、それでもガイルに従おうとしていたときに。
もっと強く止めればよかった。
もっと必死に訴えればよかった。
――やめて。
――もう、やめて。
何度もそう思った。
けれど、口にした言葉はあまりにも弱かった。
本気で止めようとしていたのだろうか。
自分自身でさえ、分からなかった。
怖かったのだ。怖くて、怖くて仕方がなかった。
優しかった人たちが、まるで別人になっていくことが。何かに取り憑かれたように、怒りに呑まれていくことが。
憎しみに支配され、考えることさえやめてしまったような目をしていたことが。
そして何より――その目が、自分に向けられたことが。
あの人たちの目は、まるで言っていた。
――お前には関係ない。
――お前は部外者だ。
――黙って見ていろ。
そんなふうに。
いつも自分を守ってくれていた人たちが、まるで自分だけを世界の外へ追い出すような目をしていた。
それが、何よりも怖かった。
だから、言えなかった。
もっと強く言えばよかった。もっと泣けばよかった。もっと叫べばよかった。
――みんな、やめて。
――お願いだから、元に戻って。
どうして、それが言えなかったのだろう。
どうして、自分なら止められるなんて思ったのだろう。
違う。そんなことを考えていたわけではない。
ただ――信じていたかったのだ。
ガイルは、自分を助けてくれた人だから。
アリィは、眠れない自分を抱きしめてくれた人だから。
シリアンは、震える自分の背中を何度も優しく撫でてくれた人だから。
みんな、優しい人だった。
だから、いつか戻ってくれる。
そう思っていた。
――でも、戻らなかった。
仲間たちは、死んだ。
みんな、死んだ。
怒りに呑まれたまま、憎しみに囚われたまま。
最後まで、ガイルを信じたまま。
そして――ガイルも、自分を刺した。
あんなにも優しかった人が。
自分を救ってくれた人が。
自分に世界を見せてくれた人が。
自分の腹に刃を突き立てた。
――どうして。
その問いに答える声は、もう聞こえない。
ただ最後に見えたガイルの顔だけが、脳裏に焼き付いていた。
笑っていた。
自分を刺して、血を流す自分を見て、それでも笑っていた。
その顔が怖かった。
今まで見たどんなものよりも、奴隷だった頃に向けられた冷たい目よりも、暗闇の中で震えていた夜よりも。
ずっと、ずっと怖かった。
――あの人は、もう自分が知っているガイルじゃない。
その事実を、エリスはようやく理解した。
そして同時に思った。
もっと早く気付いていれば。もっと早く止めていれば。もっとちゃんと、みんなと話していれば。
何かが変わっていたのだろうか。
アリィと話せばよかった。
シリアンと話せばよかった。
双子とも、アマンダとも。
そして、ガイルとも。
怖くても、嫌われても、怒鳴られても。
それでも、ちゃんと向き合えばよかった。
そうすれば――。
そうすれば、みんな死なずに済んだのだろうか。
分からない。
何をしても、結果は変わらなかったのかもしれない。
それでも――それでも、エリスは悔しかった。
何もできなかった自分が。
ただ怯えて、立ち尽くしていた自分が。
大切な人たちが壊れていくのを、見ていることしかできなかった自分が。
悔しくて、悲しくて、怖くて。
涙すら流す力が残っていなかった。
――ごめんなさい。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ガイルに。アリィに。シリアンに。リアンに。エテルネルに。アマンダに。
それとも――何もできなかった、自分自身に。
意識が、さらに遠ざかっていく。
最後に浮かんだのは、血に染まった森ではなかった。
明るい服。温かな食事。初めて握ったガイルの手。魔導書を開いたときの、あの日の喜び。
そして――優しく笑っていた、あの頃のガイルの顔。
――あの頃に、戻りたかった。
ただ、それだけだった。
エリスの意識は、静かに闇の底へ沈んでいった。




