Ⅲ329.転落王子は知っていた。
エルヴィン・アドニス・コロナリア。
……もう捨てた、忌まわしき過去の名だ。
アネモネ王国の第二王子。その立場がどれほど重荷だったか。ただその日暮らしで生きている庶民には一生わからない。
子どもの頃から優秀だった兄は第一王子であり早々に第一王位継承者として期待された。俺とたった一つしか変わらないにも関わらず、常に周囲を驚かせ期待全てに答え続けていた。
俺の一つ下、兄の二つ下であるホーマーはまだ良い方だっただろう。俺という比較対象があったのだから。それに比べ、俺は常に優秀過ぎる第一王子の兄と比べられ続けた。
最初は、尊敬や憧れの感情もあったと思う。なんでもできる兄を見て、俺も一年後にはこうなるのだと疑わなかった頃だ。
しかし一年二年と時間を経るごとに、兄との差は開いていくばかりだった。ただ年齢や第一王子という立場の違いだけじゃない、あの男が歴代でも優秀な王となるだろうと語られるのはまだ十になる前だった。
常に周囲の期待に答え、課題を与えられれば短期間で会得する。年相応に成長し学習していった弟のホーマーと違い、兄のことは次第に人間とすら思えなくなってきた。
あいつが無駄に短期間でこなしひけらかす度に、俺達がどれだけ惨めな想いをさせられたか。
「レオン王子殿下は三日で会得されましたが」
「レオン王子殿下は去年の今頃には」
「レオン王子殿下ができたのですから弟君であるエルヴィン王子殿下も」
できることを当然とされる。できないことに、落胆される。
弟というだけで同じことができると期待され、できなければ兄を理由に慰められる。あんなのと俺を一緒にするなと、何度思ったか数知れない。いくら努力して会得してもいくら乗り越えても結局は兄以下という結果で終わる。達成感など覚えたこともない。
きっと教師が悪いのだと、第一王子の兄だから特別に腕の良い教師に教わっているのだと思い、当時の教師を解雇して無理矢理兄と同じ教師を着かせたこともある。……それが、最初の間違いだった。教師には今まで以上に兄と比べられ、毎日のように引き合いに出された。
「レオン様は一週間で覚えられましたが、エルヴィン様は焦る必要はありません」
「レオン様だけが特別優秀なだけです。焦る必要はありません、エルヴィン様は普通に地道にいきましょう」
「……いえ、レオン様は一時間で覚えられておりましたので。やはりそれくらいの時間がかかりますよね」
「レオン様は読むだけで充分と仰られましたが、エルヴィン様はまず筆記から始めましょう」
逐一兄の存在を出しては自分のことのように誇らしげに笑い、たかが教師にこの俺が馬鹿にされる。第二王子であり、誇り高き王族だったこの俺が。
それは、俺ほどではなくともホーマーもまた同じだった。唯一の救いは、ホーマーは俺と同じ普通で、そして兄と比べられることの多い俺に幼い頃から同情的だったことだ。
幼い頃から別々で生活していた俺達だが、兄と違い、俺がホーマーは気に掛けてやったからそのお陰もあるだろう。ホーマーだけは、俺の苦労もそれなりにわかってくれていた。兄が無駄に張り切って優秀さをひけらかす度、俺達は王族でありながら周囲に見下されて生きたきたから当然だ。
あんな人間を何故他の連中が持て囃すのか、意味がわからない。
「父上、今度の食事会に僕もご一緒させて頂けませんでしょうか。父上のような誇り高き王族となる為に、お話を聞かせてください」
「エルヴィン、お前にはまだ早い。今は研鑽に努めよ。教師からも教養は今ひとつだと聞いたぞ」
国王である父に、気に入られようと努力もした。
しかし俺のこともホーマーのことも、父は全く理解しない。兄が俺よりも年下の頃に、父上は兄に社交界の同行許可を下ろしたにも関わらず、俺やホーマーだけは後に回された。
そんなのも一度や二度ではなかった。兄ばかりが優遇され、耳を傾けられ、褒め称えられ、流石は第一王位継承者だと語られる。奴が不必要に前に進めば進むほど、比べられ見下され嘲笑される俺達の苦労など考えもしない。いや、むしろあの男も嘲笑しているのだろうとホーマーと共に考えていたこともあった。それが違うと思い知ったのは、俺が十一になった頃。
「僕も、弟達にとって良き兄であり続けられるようにと願っています」
アネモネ王国建国式典だった。
いつものように兄にばかり集る来賓の世辞に、兄が滑らかな笑みと共に答えた。すぐ横に俺もホーマーもいる中で、奴は一度も俺達の方は見ず平然と来賓にそう言いのけた。
素晴らしい素晴らしいと褒め称えられ笑顔を向けられるあの男が、今まで俺達に向けていた白々しい態度が嘲笑ではなく本心だったのだと理解した。嫌みでもなく平然と、あの男は自分が俺達にとって良き兄だと信じて疑っていなかった。
今まで俺達を苦しめることしかしなかったあの男との接点など、式典や社交界での同席程度。それなのにいつもいつも白々しく笑いかけて挨拶をくれる兄に、腹の底では見下し嘲笑している嫌味だと思っていた。表向きの皮になど俺達も騙されていないと、そこまで愚かではないつもりだった。
しかし実際は、あの男は本当に俺達と親しいつもりだったことに驚いた。今まで一度も兄らしいことをするどころか、自分の実力だけをひけらかし俺達に背中を向けるだけだった男が、俺達に無条件に好かれていると思い込んでいた。
当然といえば、当然だった。
常に優秀な王子だと持て囃され、容姿にも恵まれ、鼻の下を伸ばしたにやけづらばかりをへらへらと向けられてきた兄は、自分を嫌う人間がいるとも思っていなかった。自分は常に愛され好かれ褒め称えられる選ばれた人間だと思い込んでいた。第一王位継承者であることも次期国王として名高いという世辞も、全て謙遜一つなく受け入れる。優秀で顔も良く、苦労も努力も知らないあの男は人間じゃないと理解した。
人形だ。
周囲の望むように笑い、課題をこなし、心のにもない言葉も平気で吐く。ただ人より優秀なだけで、人の望むように動き、喋り、笑うしか能がない。自分の意思で何も考えられない、踏みつけられる側の気持ちなど理解できない。自分のやりたいことどころか意思もない人形だ。
あんな人形のどこが国王として相応しいのか、父上達に隠れてホーマーと語り尽くし吐き尽くした数はしれない。笑顔も気持ち悪い、父上も母上もどうかしているとホーマーも何度も言っていた。
どこまでもどこまでもただ周りの理想通りに振る舞う兄は薄気味悪く、人とすら思えない。あんなのよりも俺の方が遙かに国王として相応しい。そんなのあの男の正体さえわかれば誰だってわかる筈のことだった。
しかし頭の悪い連中も目が曇った父上と母上も、誰もがあの男の実績と見目に騙される。
「エルヴィン王子殿下。今日は帝王学を……」
そもそも王なんて、結局はただ命令してふんぞり返るだけだ。
教師に学んだところで、その知識の何が役に立つ?兵法も戦術も全て騎士団に任せることで、俺達が覚える必要がない。帝王学も偉そうな名前をつけて結局は上に立って下の人間を見下すことが正しいともっともらしく語っているだけ。文化も歴史も外交も全て、教わらずともその時に宰相や摂政に聞けば良い。わざわざ俺達が学ぶ必要はない。
俺達は選ばれた王族で、だからこそ下の人間が補完するのが実情だ。俺達が中途半端に学んだところでそれよりも専門家や学者を呼べば良い。
兄がいくら完璧にできたところで、それがそのまま王の器に繋がるわけじゃない。
優秀なだけの兄に勉学では勝てることなどない、努力すればするほどに見下される材料を増やすだけの勉学もそもそもが馬鹿馬鹿しいものだとわかった。あんな人形を素晴らしいと持て囃すような連中の言葉を信じる必要もない。何も考えずただただ周囲が望むように動くしか取り柄のない人間だ。ホーマーも同意見だった。
本当は俺の方がずっと、兄よりも優れている。いくら完璧でもあんな人形より、間違いなく。
「アネモネの民に愛される、望まれる人間になりたい。他の誰でもなく、僕自身が欲されたい。……この気持ちは、何かな」
兄が十四になった頃だった。
昔と変わらず俺とホーマーに馴れ馴れしい兄に、父上の公務に動向していた時に探りを入れてみた。会話をするのも珍しい俺に兄は珍しく眉を垂らし、滑らかに微笑んだ。
唯一で決定的な欠点である〝それ〟までも、兄は時間の経過と共に克服しようとしていた。
ふざけている。
二、三年の間に城下へ降りる数が増えていることに違和感はあった。もともと民からその顔で人気が高かった兄が、社交界ではなく今更庶民に愛想を振りまく意味がない。だが、今更になってあの人形が、そんなものまで覚え始めたことに酷く吐き気と腹の底から熱が湧き出たことはよく覚えている。
もう少しで父も母も、兄が王として相応しくないと理解する筈だと思っていたから余計にだ。人形は人形らしく何も感じず思わず気付かずお飾りをやっていれば良かったものを。
今更人らしい感情を覚えた兄だったが、しかし頭は空だった。王族とあろうものが、よりによって下々の民相手に自己の肯定を望み依存する。そんな人間崩れを動かすのは、思ったよりも簡単だった。ちょっと吹き込んでやれば、弟である俺の言葉をわかりやすくまるごと飲み込んだ。所詮はやはり考える能のない人形だったと、この日のことを思い出しては今も鼻で笑う。
「兄君、ならば社交界の方々とも親密な交流をとってみてはいかがでしょうか」
火種がないから誰も言わないだけ。きっと俺とホーマー以外にも腹の底で同じことを思っている連中はいる。
ホーマーに協力させて、女と関わるように唆せば簡単だった。
俺達の望むように、兄は社交界で女達を何人も惑わしていった。俺やホーマーなど歯牙にもかけず、ただ顔が良いだけの兄ばかりに顔を火照らせ雌と化す女共の有効活用だった。
俺も兄と同じで顔は母似だったが、兄の方が遥かに整っていると、見比べられ容姿だけで兄へと尻尾を振るような馬鹿で下等な生き物に相応しい。
十五にもなって女とも適切な距離を理解せず、ずぶずぶと深みに嵌まっていく兄はやはり王の器などではないと思った。このまま女の二、三人にでも手を出し孕ませ王族としての高潔さを失えばきっと父上も母上も周囲も奴の化けの皮に気付くと信じた。
しかし、それも長くは続かなかった。急激に親しくなっていた筈の令嬢達と、兄はまた距離を取り出した。
優秀さと顔しか取り柄がない踊らされるだけの人形の分際で、馬鹿の一つ覚えのように頑なに高潔さを捨てようとしない。
令嬢側にも探りを入れてみたが、誰も兄を悪く言わなかった。兄に金でも掴まされたのか「私などがあのレオン様に選ばれるなど考えたのが間違いだったのです」と、口を揃える女共は結局大した役に立たなかった。権力者に尻尾を振って色香を前に出すことしか能がない分際で、男を見る目もない。所詮同じ女である母上も、目が曇ったのは仕方ないことかもしれない。
だが、こいつらも流れさえあれば本音をどこかに漏らす筈だと思った。兄の悪評を流してみれば、きっと振られた女共を中心に今度こそ兄の足場は崩れる。
女好き、女誑しとホーマーと協力し奴隷も使い、噂を流した。噂は予定通り国中に広がり社交界に浸透し、そして父は
「お前達も、大々的な誕生祭は暫く招待客も国内のみにとどめる」
……父は、余計に兄を囲いだした。
兄の噂が広まらないように、兄を外交に出さないだけでなく何の関係もない俺とホーマーまで巻き添えにされた。外交も禁じられ、王族である俺達が誕生祭すらも国外の来賓を公に招くことができなくなった。
社交を自粛された兄よりも、最低限の社交は許可された俺やホーマーの方が周囲とも上手くやれるようにはなった。
噂をはやし立てれば立てるほど、どいつも兄が女誑しだと信じて疑わなくなった。予想とは異なったが、やはり兄よりも俺の方が国王として相応しい人間だと今度こそ父もわかることになると思った。
城下に降りることの多い兄はそれでも庶民からの人気は変わらずだった。城下にも間違いなく噂は広がりきってるはずなのに、能無しの頭が軽い庶民はどいつもこいつも兄に盲信する。
いくら新しい噂を広げても変わらなかった。兄と違い洗練潔白の俺やホーマーの方が王に相応しいと、少し考えればわかるのに頭の軽い連中は理解しない。お陰で目障りな兄へ胃や胸が煮えたぎる日々は変わらなかった。むしろ刺すような痛みまで増してきた。
女誑しな兄よりも俺の方が相応しいのを、下々の人間はいつまでたっても理解しない。俺が城下に降りた時、馬車を降りたところで嫌でも視線の全てで理解する。いくら表面上は歓迎し持て囃してこようとも見え透いた
視察におりたのが兄ではなかったことへの落胆。
王族である俺がわざわざ降りてやったのに、笑顔を振りまいてやったのに連中が求めるのは常に兄の方だった。つまり俺はあの女好きの女誑しの人形以下ということだ。
兄よりも俺の方が王族として高潔だというのに。あそこまでして尚、民の心も父の心も兄にばかり向いていた。
あんな馬鹿どもを何故誇り高い王族の俺達が守ってやらなければならないのかもわからなくなった。
だが、上流階級のいる社交界と庶民。どちらの評判が重要かなど、火を見るよりも明らかだった。甲斐あって、とうとう兄は王位継承者の立場を下ろされた。アネモネ王国から追い出され、隣国の第一王女と婚約することが決まった。
フリージア王国。周辺国からは化け物の国と揶揄されることもある大国は、人からかけ離れた兄にこの上なく相応しい国だった。これでようやく俺もホーマーも正しい評価を受けられると心の底から安堵とともに清々し、祝杯をあげた。
「エルヴィン、ホーマー。今のうちに己が過ちを省みよ……!」
本当に、あのまま終わってくれれば良かったものを。




