〈書籍13巻本日発売!・感謝話〉宰相の夢見で。
遅ればせながらラス為書籍13巻が発売致しました。
感謝を込めて、書き下ろさせて頂きます。
時間軸は第二部あたりです。
……ここは、どこか。
気が付けば、視界が白い。霧の中かと思うほど深く、視界が塗り潰されていた。
途方もなく白だけの世界は、先も遮蔽物もなにもない。ただそれだけの無に等しい空間に私は一人佇んでいた。塗り潰された視界に、己がどういう体勢かも初めはわからなかった。
ゆっくりと瞬きを繰り返し、呼吸を整え周囲を見回す。どこを見ても白しか色がなく、どこか既視感も覚え妙な肌寒さを感じた。
記憶にはない。このような異質な場所に一度でも来れば、忘れはしないだろう。それこそ、出入り方法など間違いなく記憶に留めておくに違いない。
己の背後を確認し、呼びかけ、声の反響からかなりの広さと考える。夢かとも最初に思うが、それにしては思考も、手足の先まで感覚がしっかりとしていた。現実味のある夢を見ることには慣れているが、ここまで生々しいほどの肌感を覚える夢は極めて希有だ。
状況から考えて誘拐でもされたと考える方が心持ちとしては正しいだろうか。
窓もなく、今が何時かもわからない。前後の記憶も思い出せず、夢ではないのなら何者かに捕えられたと考えるべきかと思考を
「なにしてるの」
聞くだけで幼さのわかるあどけない声に、肩が揺れた。
周囲には重々に気を払って見回したつもりだが、声のした方向へと首を向ければ私のすぐ背後に少女が立っていた。
近すぎて見落としてしまったのか、注意力が欠如してしまうにもほどがあると思いながら少女に身体ごと向き直る。「失礼致しました」と、彼女に気付かなかったことを謝罪しつつ腰を落とした。
我が娘よりも年齢が上であろう少女は、身に纏うドレスから判断しても上級層に近い娘だろう。最初に声を掛けてきたときと同様に、私を上目に睨むように見据える少女を見下ろさないように片膝をつき、目線を合わせる。その短い動作の間も私から逃げることもなければ、じっと釣り上がった目で睨むように見続ける彼女は、やはり上級層だと再び結論付ける。
子どもでありながら己の方が立場が高いことへの矜持と、だからこそ舐められまいとわかりやすいまでの威嚇も兼ねた眼光だ。目線を合わせても尚、眉に皺が寄ったままの彼女が満足するように更に彼女の姿勢よりも可能な限り下へと姿勢を落とす。ここがどこかもわからない以上、私もまた手に胸をあて、上級貴族と同等の扱いで彼女に礼儀を示した。
「……お初にお目に掛かります。私はジルベール・バトラーと申します。お恥ずかしながら今はまさに途方に暮れておりますのが現状です。気付けばこちらにおり、一体ここがどこで、何故いるのか、どうすれば良いものか、……賢しい貴方様であればご存じでしょうか。是非教えを請えれば、幸いです」
「…………」
社交界でも慣れた礼儀と挨拶は、時に子ども相手の方が丁寧すぎるほど丁寧であるべき時もある。
互いの立場もどちらが目上かも社交辞令もわからない、矜持こそ一人前でありながら精神的には〝子ども〟の令嬢や令息にほど大人として扱い、持ち上げるくらいがちょうど良い。
正しい社交界の振る舞いがわかる者であれば互いに汲み取り察し合うことが子どもにはわからない。親によってはただ「自分は偉い」ということしか理解できない。恐らくは彼女もそちらの類いなのだろうと、初対面の言動を総合して判断できた。
まるで王族を相手にしているかのように深々と最後に頭を下げてみせる中、彼女からは十秒以上の沈黙が返された。頭を下げた角度のまま、薄目の視界でまだ磨かれた小さな靴を履いた足が揃っていることを確かめる。
彼女の顔は見えずとも、幼いながらに肌でも感じられるほどの鋭い眼光の熱量だと思った、その時。
「役立たず」
苛立ちの混じった声が、冷ややかな温度で放たれた。
嘲笑うでもなく焦らすわけでもなく、ただ鬱憤を吐き出す彼女はその発言から考えてつまり自身もまたこの場所について知ることは少ないらしい。
発言の直後には「もう良い」と独り言のような小ささで吐き捨て、さっきまで微動だにしなかった靴がくるりと踵を返した。彼女も現状をなんとかしたいとは思っているらしい。
私が顔を上げる許可も出さないまま、パタパタと彼女は駆け出した。小さな身体に重量のあるドレスを身に纏ったまま走る彼女は、その裾を持ち上げることもせず上等な布の裾を時に踏みつけ、揺らめく髪を振り乱す。
どこへ向かうのか、少なくとも手がかりのないここよりは良いだろう。彼女が離れたところで起立し、早足で追いかければ途端に「ついてこないで!!」と金切り声を上げられた。
「先ほども申しました通り、どこへ行けば良いかもわからないもので。帰り方がわかるまで同行させて頂けますでしょうか」
「いや!!!着いてきたら死刑にするわよ!!」
目を釣り上げる少女に、おやおやと私からわかりやすく肩を竦めてみせる。
拒絶の理由は単純に私への嫌悪か、それとも知られたくない場所……たとえば出口に覚えでもあるのか。少なくとも後者の可能性が捨てきれない限りは彼女の命令には従えない。そして後者が否定された場合は、明らかに幼過ぎる少女をこのまま放置するわけにもいかない。
この年頃の子どもは一人で万能かのような自信を持ちがちだが、実質は万能ではない。どちらにせよ、見過ごすわけにはいかない。
「死刑は困りますねぇ。ですが、私も困っておりまして。どちらに向かわれているかだけでもお伺いできますでしょうか」
「知らないわよ!貴方と一緒にいたくないだけ!!」
それはそれは残念、と言葉にしてみながら、その間も彼女は走る。バタバタと床に靴を叩きつける為のような足音を立て、遮蔽物も壁も見当たらない白の向こうへと駆け続けた。いくら無尽蔵の体力とも思える子どもと大人でも、足の長さは違う。歩きやすい服とは決していえない少女を早足のみで追いかけながら思考を回す。
やはりただその場凌ぎに逃亡しているだけかと考えつつ、しかしその言い分こそがその場凌ぎの可能性も鑑みる。彼女に走る以外の逃走手段がない以上、私から逃げることも不可能だ。本気でそうしたければ、この何もない空間の出口か隠し部屋へと向かうしかない。
「来ないでって言ってるでしょ!」「死刑にしてやるから!」「消えて!」と罵声を放ちながらも駆ける足をやめない彼女と、ただ淡々と追いかけ続ける私は、このような場所でなければ間違いなく私が悪人に見られる状況だろう。
外に出れば彼女を追いかけ回す必要もなくなるのだが、と現状の変化を期待しつつ、息を吐く。一先ず、何度もこちらを振り返る彼女に怯えの様子はないことを確認しつつ、私からも無駄な誤解は受けないように努力する。
無言で追いかけ回すのは子供にとってより恐ろしさが増すだろうと、私からも投げかけることにする。彼女からは罵詈雑言でも大きな問題はない。あくまで会話が成り立つようにとなだらかな声を意識し続ける。
「ところで私には娘がおりまして。まだ幼く、貴方のような立派な淑女ではありませんが、もう早いもので女性らしい衣装や装飾に興味を持ち始めておるのですが」
「うるさい!!そんなの興味ないんだから勝手に話さないで!!」
「幼い我が娘でも、大人に対しては礼儀を通しております。貴方様はご両親から……いえ侍女や教師には教わりませんでしたでしょうか。宜しければどちらの家門かだけでもお伺いできれば幸いです。さぞかし立派な」
「ッフリージア王国アイビー王家の名を知らなくて?!!」
この無礼者、と。声を張り上げる彼女の言葉が、広大なこの空間よりもはるかに私の頭に響き渡った。
眼球がこぼれ落ちそうなど目を見開いているだろうと、鏡を見ずともわかる。早足も、そして呼吸も気付けば止まっていた。茫然と、穴の空いたような視界で今まで追いかけ続けていた少女を凝視する。今の今まで充分に注視していた筈の彼女に、何故何も気付かなかったのかとその正体よりも己自身に雷が走る。
深紅の波打つ髪、我が国には珍しい紫色の瞳。貴族令嬢と差をつけるような上等な布地と装飾を凝らされたドレスも、彼女の為だけに仕立てられた唯一無二のそのデザインさえも私には見覚えがある。あるに決まっている、私はこの御方に、……この時の、この御方にお会いしたことがあるのだから。
大変失礼を致しました、と。彼女に改めて頭を下げ、片膝をつく。
私が足を止めてから彼女もまた立ち止まり、こちらに振り返っていた。
細い眉を釣り上げ、両肩があがっているとわかるほどに強張らせ、唇をきつく結ぶお姿は真正面から目にするのは私も初めてだろうか。あの御方は、常にその御姿を父親であるアルバートの前では隠そうとしていた。そして、王配の補佐としてご挨拶する機会のあった宰相の私もまたそれは同様だ。
これが特殊能力や幻の類だから目にできたのか、それとも私の記憶の補正で夢を見ているだけなのか。少なくともいま私が現実にいないことは確信できた。現実のあの御方は、今はそれこそ嘘偽りなく本物の淑女だ。だが、……この時代があったことも、事実。
「プライド様。……私のことはご存知ありませんか」
「知るわけないでしょ!知ってたら死刑にしてやったわよ!」
己が胸を示し尋ねる私に、プライド様は胸を突き出しフンと息を吐く。
これが現実である筈がないと知りながら、〝この〟プライド様に尋ねずにはいられない私はさぞ滑稽だろう。しかしこの御方を相手にどのような姿であろうとも……いや、この姿だからだからこそ、私は決して不敬は許されない。
もう二度と、もし夢であるならば夢の中だけでも今度こそと決意を新たに息を吸い上げる。
現実か、過去か、夢か幻か。己の頭でどれなのかを結論づけることができても、この心臓はいまだに全ての境目を惑っている。
一定距離を保たれたまま私に向き直るプライド様へ、私は声色を安定させながら目を合わす。我が友である、彼と同じ色の輝きを持つ瞳に。
「……ご紹介が遅れ、大変失礼致しました。私は宰相としてアルバート王配殿下の補佐を務めさせて頂いております。プライド様のことは殿下から…」
「父上と仲良いの?」
ぽつんと、私の言葉を上塗る勢いの問いかけに言葉を止める。
私が宰相であることよりも、そちらの方が気になられたらしく今度は自らこちらに歩み寄って来られた。じっと上目に私を見据える彼女に、私も「ええ」と笑みを作ってみせた。やはりこの言い分からも私のことを存じないのは嘘ではなく事実らしい。
もう、目の前におられること自体が不可解であるこの御方に、五感全ての情報が事実か偽りかを判断することも難しい。今もプライド様の問いを前に肯定をしたことが……事実か、偽りかも悩んでしまう。まさにプライド様がこのくらいの頃、私とアルバートの関係は一体どうだったか。
ほんの一、二年の違いでも、私と彼との関係は異なる。だが、少なくとも今の私にとって、彼は紛うことなき友人だと、やはり最終的な結論は変わらない。
「アルバート王配殿下にはとても良く、そして親しくしていただいております。そして願わくばプライド様とも」
「なら今すぐ仲良くするのやめて」
命令よ、と。…………思わず舌をしまうほど、刃物のような鋭いお言葉だった。
先ほどまでの怒鳴っていた叫び声よりも遙かに敵意を妊み、この小さな身体からは信じられないほどの威圧感まで放っておられる。しかも、ここで命令を使われるなどよほどの要望であるに違いない。
さきほど私に追い回された際でさえ、脅迫と罵声を浴びせはするものの、それ以上はなかった。笑顔こそ維持したまま口を結ぶ私に、プライド様は落ち着いた足取りで歩み寄られる。「やめなさい」と、念押しのように命令口調で、そして私を前に今は怯えも怖じ気も欠片もない。
そう命じられる理由は、思いつくだけでも4つは想像できる。今この場での私への嫌悪による要素と、ただ王女としての権威を占める為、子どもながらの意味のない嫌がらせの類いと、そしてもう一つは……
「……何故なのか、宜しければこの愚かな私めにお教え願えますでしょうか」
「邪魔だから」
やはりか、と。気付かれないように息を吐く。笑みのままに「なるほど」とだけ言葉にした。その可能性も想像はできた。
邪魔、なのはアルバートの公務にという意味ではない。ただただ父親と娘である自分達の間に、私と存在が目障りだという意味に違いない。子どもが父親の交友関係を羨み嫉妬するということはよく聞くが、当時プライド様が愛情を求める相手は両親のみ、そして接点を持っていたのはアルバートだけだ。その父親を奪われたくないという理由から、仲良くなるのをやめてと仰るのは子どもらしいと思いつつ、……そこで「仕事をやめて」ではなく「仲良くするのをやめて」と仰るあたり、流石は幼くも第一王女というべきか。
私が消えたところで、父親の公務を手伝う人間が必要になることも、そして補佐がいなければ余計に父親が多忙になり自分に会いに来れる頻度が激減することもわかったおられる。
改めて、この御方の実年齢が気になりつつ今は思考していることも悟らせない。「困りましたねぇ」と適当に間を持たせればプライド様は目を更に吊り上げ、更に立場が上だと示すかようにフンと胸を突き出された。
「言うことを聞かないとアンタのことなんか父上に言いつけるわ!宰相のアンタなんか悪いことしたらすぐに死刑よ!」
貴方様にはもっと深刻な大罪を知られることになるのですが、……とは冗談でも言えはしない。
宰相という立場そのものに大まかな理解があるプライド様だが、そうして極刑を突き付けるところには懐かしさもある。
先ほどは幼い令嬢だとしか感想を持たなかったものの、確かに当時のプライド様にそういった口調の問題点があることは城内でも噂になっていた。王族の陰口など本来いくら鬱憤が溜まろうと語るような危険を犯す者は少ないにもかかわらず、それでも漏れ出していた。
アルバートも宮殿に仕えていた当時の侍女長も色々と手を尽くしたが、それでもプライド様の身の回りの使用人は入れ替わりが激しかったこともまた事実。子どもの戯言と頭ではわかっていても、それを本当に実行できてしまう権力者の戯言だ。
きっと今、このプライド様も己にその実行する力が遅かれ早かれ持つと自覚した上で声を荒げておられる。
今も、跪く私を見下ろしながら勝ち誇った笑みを浮かべておられる。その姿に当時は少なからず侮蔑に近い感情を抱いたこともあるが、……今は。
「……ではどのように言いつけるおつもりでしょうか。私もその時は殿下に話を合わせなければなりませんので、是非今のうちに擦り合わせるべくお教え頂けますでしょうか」
「えっ」
きょとんと眉が上がった次の瞬間には、プライド様の顔は怪訝に歪まれた。
私を脅しているつもりにも関わらず、そこで私の方から口裏合わせを提示したのだから当然だろう。むしろ、訳がわからないといったその表情は、混乱も相まって今ご自分が何を私に言って脅したかもこんがらがった可能性もある。本来ならば「わかりました。死刑になりたくないので友人を辞めます」と言うべきところなのだから。
それを全く違う返事をされたからこそ、戸惑われている。いくら頭が良くても、まだ幼い子どもだ。
私にどう返事をすれば良いか悩まれるご様子のプライド様に、私は敢えて笑んでみせる。あくまで貴方様の味方だと、そう示すのに子ども相手であれば態度や表情は極めて効果的だ。
「アルバート王配殿下に私のことを言いつけられるのでしょう?どのようなことを犯したとお伝えになるおつもりでしょうか。まさか「父上と友人なのをやめてくれないから死刑にして」と言っても、逆にプライド様が怒られてしまわれます」
なるべくわかりやすく、ゆっくりとした口調で言い直せば途端にプライド様の顔がカッと赤く染まっていった。羞恥よりも、恐らく怒りだろう。そんな理由を言っても父親が頷いてくれないことはプライド様もご存知だ。次の瞬間「馬鹿にしないで!!」と、空間全てに反響するような甲高い怒鳴り声を放たれた。
プライド様は子どもではあっても、この頃から無知ではない。むしろ年齢のわりには聡く、頭の良い優秀な姫君だったと記憶している。ならば、今のが私がからかったとも認識されたのだろう。
「ッ暴力よ!アンタに暴力を振るわれたと言ってやる!!選ばれし第一王位継承者である私に暴力したなんて絶対死刑なんだから!!」
「それはそれは。困りましたねぇ……つまりは、この場で協力の為にも私はプライド様に手をあげなければならないということになります。れっきとした証拠を残さなければ、きっと殿下は信じてくださらないでしょう。ああ、胸が痛みます。では、どこに振るいましょうか?手足は数日日常生活に支障がきたしますし、顔であれば同情も引けるでしょうが同時にもし痕が残れば私が死刑になろうとプライド様は未来永劫その美しいお顔が曇らされたままとなります」
軽く拳を掲げパキリと指を鳴らしてみれば、それだけで想像以上にプライド様の表情が強張った。
いくら口では暴力を受けたと言おうとも、今の今まで人に手をあげられたことなどない、大事に育てられた王女だ。
息継ぎ程度の間しか与えられず、気付けば自分が本当に怪我をしないといけなくなった状況に「えっ」「えっ」「は?」と声は漏らすものの言い返す言葉まではまだ出てこない。頭よりも身体が反応し強ばり出した。
肩も背も丸め、私から背中を反らし一歩後ずさりしたプライド様は、まだ御自身が本当に傷つく覚悟などありはしない。
プライド様の思考が戻る前に、こちらから笑顔のまま「ではどの場所を折りましょう」と手を差し出せば、今度はさらに二歩も下がられた。まだ大きな怪我もされたことがないプライド様は怪我治療の特殊能力者の存在についてご存知ないのか、それともあると知った上で想像できない痛みへの恐怖が強いのか。
釣り上がっていた紫色の目が、また本物の恐怖に染まり出したところで、少々脅かし過ぎたと反省し手を下ろす。
「ッや、やっぱり!酷いことを言われたと言うわ!!侮辱よ!侮辱罪と不敬罪よ!!第一王女である私にそんなことすれば不敬罪で死刑なんだから!!」
……ここで、めげずに次なる一手を放つところは、流石プライド様だと今は感心する。恐怖よりも望みを優先し突き進まれる。
敵を前に逃げずに立ち向かう勇敢さは今も昔も変わっておられない。まぁ、悪く言えば少々向こう見ずな性格は気質であるとも言えるが。正直、もし現実にこのような相手と状況になられた場合は、幼くとも成人されていようとも、迷わずに逃げて頂きたい。
それでも今は微弱に震える手を伸ばし、人差し指を私へと照準を合わせ果敢に挑まれる。
「なるほど」と言葉を繋ぎつつ、しかし想定内の脅迫内容に私は再び笑顔を作る。
「では、どのような侮辱をされたと殿下に報告いたしましょう?プライド様が仰ったのではなく、あくまでこの宰相である私が言い放った侮辱なのですから、それらしい発言でなければ殿下に嘘もすぐにバレてしまいます。なにせ殿下は私と〝仲良し〟なので、私の言葉遣いや口調もよくご存知です」
子ども同士の悪口程度では気付かれると、そう示しつつ敢えてアルバートとの友人関係を示唆してみせる。するとさっきまでと比べ、なかなか子どもらしく頬を膨らまされた。細い眉を吊り上げ、ダン!!と踵の高い靴で中途半端に床を踏み鳴らすプライド様に、言葉ではなくこちらも笑みだけで返す。
幼いながらに国の法も学ばれ、教養やマナーに歴史と、文字の読み書き以上の様々な教育を受けてきたプライド様は言葉こそ達者だが、圧倒的に語彙力は少ない。
社交経験も少ない、侍女を始めとする使用人や教師との関わりしか得られなかった子どもだ。特に人を褒めるならばまだしも、侮辱するような言葉など誰に教わるわけも
「〝本当に女王陛下の娘か〟」
………突如、思考までもが視界と同じ白になる。
子どものあどけない口調のまま、しかし迷いがないほどにはっきりと。その言葉は……他でもない、プライド様本人の口から紡がれた。
表情は無に近い、目を吊り上げていたあの表情が可愛らしく思えるほどに、あまりにも子どもらしからぬ冷たい表情だ。
今彼女はさっきまでのように〝考えて〟いるのではない。ただ〝思い出している〟だけなのだとその表情だけでこれ以上なく思い知らされる。胃が締め付けられ、息が浅く、震え出す。
「我が儘姫。父親に甘やかされすぎだ。陛下に全く似ていない、あんな姫しか今はいないのか、あれが女王になってしまうのか、女王陛下も本当は娘と認めてはいないのではないのか、我が国の──」
『我が国の行く末が心配でなりません』
「ッッおやめくださいっ……!」
幼い少女の声が、己が知る愚者の声と重なった。
全身に激痛が走り、堪らず恐れ多くもその小さな口を手のひらで覆ってしまう。目を丸くしたプライド様は、勝ち誇ることもなくきょとんとした表情で私を見つめ返すだけだった。
いっそ勝ち誇ってくだされば良かった。お前の罪だと、そう告げてくだされば。……仰るわけがない。このプライド様はただ〝言われてきたことを反復しただけ〟だ。彼女にとってはもう、傷つくまでもない。飽きるほど聞き慣れてしまった言葉に、なんの躊躇いも抱かれない。
過去に、実際に流されたその噂は私も飽きるほど耳にした。そして、……私自身が仄めかし、流したものも少なくない。
当時、プライド様を始めとする王族への敵意や悪意を途絶えさせず、……己が望みの味方を増やす為だけに。
プライド様本人に聞かせる為に吹聴したのではない。もっと残酷で悪質な理由だ。
プライド様を中心に王族の立場を落とす為、この御方の周囲へと吐き散らし、わざと汚していった。
どのような噂が巡りに巡ってプライド様自身の耳に届くかも、想定していないわけがなかった。
当然周囲の目も、噂も、幼い少女は敏感に感じ取りそして拾えるに決まっている。ただ、……想定した上で、気にしなかった。病で苦しんでいるマリアの為にならと、都合の悪いことを考えられなくなっていた。
嗚呼、鉛を飲んだかのように臓腑が重く、淀んでいく。
「……っ。プライド様、今貴方が仰られた侮辱はどれも、記憶に留める価値もありません」
膝をついたまま、上体を維持できず反対の手も床につく。首が重く垂れ、歯を食い縛ってもすぐに呼吸で開いた。
言葉を止めてくださった後も、想像以上に肺が苦しく呼吸を見失った。ハァッ……ハァッ……と、プライド様から引いた手で胸を押さえ、爪を立てる。
今ようやく確信する。この世界は私の悪夢であり、忘れてはならない大罪そのものだ。
胸を押さえても足りず、手足が疼き痛みが足りず喉を引っ掻いた。
意味がわからないと言わんばかりに首を傾げるプライド様が、……もう麻痺してしまうほど、己の言葉に〝傷つくこともできなくなった〟のだと、痛みが増す。本来であれば決して、慣れるべきではなかった言葉の羅列だ。……この御方は。
軽口にさえ涙を流し傷ついても良い、幼い少女であるべきだった。
「それは、心ない愚者が流しただけの、妄言です。第一王女であらせられる貴方様が口にするのも穢らわ」
「アンタだってそう思ってるくせに」
返す言葉を失うなど、……いつぶりのことだろう。いや、返すべきではないと言うべきか。
口を中途半端に開けたまま、息すら出なかった。息も絶え絶えに紡いだ言葉が、からりと干上がりそれ以上が枯れ果てる。
プライド様の表情は変わらず、冷ややかなだけで傷つくことも怒りを抱くこともない。ただただこの罪人を見下ろすだけの眼差ししか持たれていない。
しかしその紫色の目を前に、一つ気付いてしまう。確信を持って仰ったこの御方の表情が僅かに強ばり、威勢を張ろうと意志を持つのがわかった。今、この御方は私にはまだ確信を持っておられるわけではない。
ならばと、偽るべきではない私は己が胸を示し、顔を上げる。
「いいえ、……私は思っておりません」
声が、情けなくも震えた。
途端に僅かに目を開かれたプライド様にこれから続ける言葉が頭に過り、先に胸に痛みが走る。しかし、今のこの御方に私は偽れない。
心ない噂が事実ではないと、……正しくは〝知って〟いた。アルバートとローザ様の間違いない娘であることも、ローザ様がプライド様と距離を取りつつも母親としての愛情を抱いていることもアルバートの補佐である私は知っていた。
プライド様の噂や実際の言動も知り、その上で所詮はまだ子どもの我が儘の域であることも知った上で、……しかし私自身は決してこの御方になにかを被ったわけではない。アルバートに紹介され、式典での接点こそあろうとも、必要以上に関わらなかった私が何故この御方に被害者ぶることができたのか。
「しかし」と言葉を紡ぐだけでも、口が、舌が、顎が痺れるように拒絶した。己が罪を認めることよりも、今ほんの僅かでも私を認めようとしてくださる幼い紫の光を曇らせることに、内側が波打ち暴れる。己が舌を噛み切る方がどれほど楽か。
「……その、噂に。……同調し、仄めかし、そして広めましたのは、この私です」
バシン、と。
衝撃よりも、音の方が脳に届いた。
小さな手のひらに弾かれるまま、顔が傾いた。視界がそのままにプライド様から背けられ、頬に小さな熱が痕を残す。叩かれた頬の痛みがあまりにも鋭く、しかし想定よりも弱いことに、こんなにも幼い少女を相手に私は何をしていたのだろうかと過る。
頬を叩くだけでも、多少腫れさせることがやっとのか弱い腕しか持たない。己を侮辱し陥れた男を相手に、小さな痛みしか与えることのできないか弱い少女に。
手足に力がはいらず、床についたまま止まる。
息を乱すプライド様の方を、許しもなく顔を向けることすらも今は許されない。このまままた置いて去られた時、私はこの御方を追いかける権利も無い。
「……きらい……っ」
震えた喉で発せられた言葉が、氷柱のように胸を貫いた。
ほとんど息に近い少女の声を拾う。視界を向けられずともその声と息遣いだけで、きっと唇を噛み、目を吊り上げ、紫色の瞳を怒りに光らせ、肩で呼吸をされているのだと頭に鮮明に浮かんでしまう。
熱が残る頬が、まだ叩くべき数は残っているにも関わらず二度目は振るわれない。代わりに放たれたのは、彼女の小さな拳よりも遙かに鋭い声だった。
「嫌いっ……嫌いっ嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い大っっっきらい!!!!!アンタのせいよアンタのせいで母上が会いにきてくれない!!!死刑にしてやる!絶対っ絶対死刑にしてやるんだから!!!」
今までの虚勢とは全く異なる、金切り声の中に憎悪を滲ませた声が鼓膜を揺らす。
申し訳ありませんと、溢れた言葉も幼い声に塗り潰された。
私への憎悪が溢れ、その場で何度も何度も足を踏み鳴らし、興奮のあまり息が乱れておられるのも視界に触れずともわかった。
たった一度叩かれるだけで残りが罵詈雑言でとどめられることに、まさか小さなあの手が一度で痛んでしまったのかと過り、思わず顔を向けてしまう。次の瞬間、そうしたことを後悔した。私如きが見るべきではない、見てはならないお姿をこの両目に映してしまう。
「私はっ……悪くないのに!!!」
手の痛みなど比べものにもならない。幼い心そのものがこれ以上なく傷つけられてきたのだと、大粒の涙で濡れる顔が証明していた。
拳を震わせながらも、振るわれない。そうだ、この御方は本来、声を張り上げ虚勢で矜持を守られることはあろうとも、その手を暴力の為に振るうことには慣れておられない。
たった一度の暴力で常に優位を得られてきた少女は、繰り返す暴力で思い知らせることをまだ知らない。少女であろうとも王族で、本来野蛮な言動など触れず知らず、この世界の穢らわしい部分を知らずに生きてこれた筈の清らかに生かされるべきだった姫君だ。
己が拳を振るわれたことがないから痛みを知らないように、この御方が言葉で他者を脅迫し執拗に傷付けるのは、それだけご自身が〝言葉〟に傷つけられてきたからに他ならない。……嗚呼、そうだ。
濡れた紫を憎悪に光らせ泣き噦るプライド様を前に、その涙を拭う行為でさえ烏滸がましく躊躇いながら、思い知る。この御方は何も知らない少女で、我々に傷つけられ、怒りを知り、憎悪を知り、報復を知り
こうして歪んでいく筈だった。
「死刑よ!!私が大人になったら最初にアンタが死刑になるんだから!!」
許さない許さない許さないと、声になりきらない憎悪が小さな身体に留まりきらず全身から溢れ出す。
本来ならばこの御方は〝このまま〟成長される筈だった。恐怖にも敵にも立ち向かう意志の強さが、このまま〝報復〟へと向かう筈だった。私一人にではなく、己を孤独にすることを良しとした世界そのものを憎み続ける筈だった。
「プライド様っ……」
急激に、心臓が鈍く音を立て収縮するような不安が鳴る。
この御方〝は〟あんな奇跡が起きるのだろうかと考えれば指先が痺れた。この世界が、目の前の全てが夢か過去か考える余裕もない。今目の前で私という悪意に傷付けられたこの方が、どのような〝先〟へ進まれるのかと急き立てられる。
未来の女王となるこの御方が、歪む筈だったこの御方がどのような未来を望まれるのか。
「どうか、どうかお聞き届けください。貴方様の仰る通りです。悪しきは我々であり、プライド様は紛うことなき被害者です」
何故、こんなにも頭が回らないのか。目の前のこれが現実が偽りかを思考しようとする部分が邪魔をする。
見苦しくも手を伸ばし、離れてしまったプライド様へ指先だけでも近付けようとする。この身で陥れ、この口で絞めつけ苦しめ、恐れ多くも天へと唾を吐き付けた愚かな罪人であるにも関わらず、それでもどうかこの方だけは〝こちら〟に堕ちることがないようにと手を翳す。
身体を震わせ、両肩を強張らせ、表情筋全てに力を込めた顔で私を睨む御方が、虐げ〝返す〟高揚感を知ってしまうその前に。
ほんの一秒でも浅ましいこの声に耳を向け、足を留めてくださるこの御方に私は考えられる限りに言葉を組み立てる。
あの頃、幼いプライド様を蔑み疎んじ悪戯に話のついでのような気軽さで傷付けた我々が……本来この御方が幼き少女だった時に伝えるべきだった言葉を、今告げる。
「本当に申し訳ございません、心より謝罪致します。お怒りは尤もであり、お許し頂く必要はございません。貴方様に手を差し伸べることをしようとせず、受け入れることもできず、己が狭量を晒した我々大人こそが過ちそのものであり、元凶です」
悪夢か、私の罪悪感そのものか。そんなことはどうでも良い。
ただ、両膝を畳み額を白の床に擦りつけ平伏する。この身のどこも地より高い位置に置くことさえ価値のない罪人であることを認め、示す。
まるで床や地を見つめるような気軽さで我々は、私はこの御方を何度見下ろしてきたことか。
己が罪を、また再認識する日がくることに驚きはない。今後も何百年も果てしない数だけ来ることだろう。しかしそれでも、……今こうしている間も涙粒を落とし床を塗らすのが、幼き少女だけであることに己への嫌悪が込み上げる。
後悔していないのではない。ただ、あまりにも当然のことを謝罪している今、己を哀れむ気にも、この御方に見せる価値のあるものが流れる気がしない。今、傷ついているのも、悲観すべきもこの空間で許されるのは、たった一人だけだ。
プライド様から、お返事は賜れない。ただ「ひっ……く」としゃくり上げる喉の音と、ぽたぽたと雫が床に落ちる音が無の空間で断続的に繰り返される。
今の私には、この御方の顔を見上げる権利さえありはしない。長年、幼い身でありながら我々の前では決して見せず、隠し、あのアルバートにさえ簡単には見せようとしなかったお姿だ。
ならばせめて声だけでもと、己が穢らわしい舌を動かしこの御方の名を口にする。「どうか、いま一度ご確認ください」と請い願う。
「……その、波打つ髪も気品ある顔立ちも薔薇のような唇も、……貴方様の母君であらせられるローザ女王陛下譲りであるからに他なりません」
顔を、あげてはならない。しかしきっと今プライド様は己が髪を手で取り、確かめておられることだろう。父親譲りの色だけでなく、その髪の波打ちはローザ様譲りで同じだとそれはアルバート本人が昔から自慢げに誇り語っていた。きっと彼なら、愛する娘にも欠かさず伝えていたに違いない。
父親からの言葉が、幼い頃から賢かったプライド様には事実か、それとも自分を想っての慰めか疑心にかられたこともあるかもしれない。
だからこそ、父親からではない私という他人からお伝えすることに意味がある。
「母君の誇り高さと父君の勇敢さを受け継がれ、貴方様はこの国に生を受けました。その日私も含め大勢の上層部が祝福し、国中が歓喜しました。誰が口汚く無責任な囁きを吐こうとも、貴方様は間違いなく我らが民が待ち望んだ王家の血を継ぐ第一王女であり、未来の女王陛下に他なりません……!」
当時、本来は乳母でも侍女でも友人でも、……身内以外の誰かから当然のようにかけられるべき称賛を今更告げる。今更でも構わず、今だけでも告げる。
プライド様とローザ様が血が繋がっていることなど、私よりも経験の長い上層部であれば誰もが疑うまでもなく知る生き証人だ。それなのに、知っていながら我々は愚かな噂に便乗しこの御方の名を傷付けた。
もっと前に、もっと当然のように褒め称えられ期待をその身に降り注がれるべきお立場であったと、目を強く絞れば睫毛が床を掠る。お許しを得られるまでこの額を、床から離すことはないだろう。
「女王陛下が貴方様のことを愛おしいと、会いたくて仕方が無い、公務に支障を来して困るくらいだと、私は王配殿下から何度も耳にしております」
正しくは、耳にするようになったのはプライド様がもっと成長されてからのこと。当時の私にはアルバートからそのような自慢話を聞く余裕などなく、……そして事情を知るアルバートも私のことを気遣い軽はずみに口にすることをしなかった。
しかし、彼が、そしてローザ様がそうであったことは確信をもって言える。彼らの親としての愛情が決してプライド様に欠けるわけがないと、わかっていた上で口を噤み続けたからこそどこまでも罪深い。
「貴方様が女王になられる日を大勢の民が待ち望む日は必ず来ます。貴方様だからこそ救われる民もいることでしょう。貴方様だからこそローザ様もアルバート王配殿下も誇られる女王となられることでしょう」
「っ……。……ど、どんな……?」
呼びかけてから初めて、プライド様からの言葉を賜った。
鼻を啜りながら、擦れた喉としゃくり上げる音を混じらせ問うその声に、私は見つめていた床も視界から遮断する。
今、この御方がどのようなお気持ちで、どうして、その短い言葉を絞り出してくださったのか、皮肉にも手に取るようにわかってしまう。当時の私であれば、きっと利用することしか考えられなかっただろうと思えば言葉にする前に歯を食い縛る。
どれだけ今、この御方が触れれば切れてしまうかのような儚い希望を宿してくださっているかもわかった上で、きっと私はその御心を踏みにじるッ……!!
床に着く手で爪を立てれば根元まで痛みが走った。どうか、どうか、もし目の前にいるプライド様が過去のあの御方であるならば、今も同じ城内にいる愚かな裏切り者を早々に排除をと願いながら、息を吸い上げる。
どんな女王になど、考えるまでもない。
「まず、寂しい気持ちを知る貴方様だからこそ、……寂しがる者や、孤独な民の心にも寄り添われることでしょう。不条理に傷付けられる痛みを知る貴方様は、我らのような愚行を犯すこともありません」
幼くして養子になられたステイル様が立派な王子となられたのは、手を差し伸べるプライド様がおられたからだ。そして身体を弱くし城での第二王女としての生活に不安を抱えるティアラ様もまたプライド様が望んで手を差し伸べられた。
たった一人の姫君にさえ背を向け白い目を向けていた我々と異なり、二人の王子と王女を立派な王族へと成長されたのは他ならぬプライド様だ。
弟妹だけではない。孤独な者に手を差し伸べ続けてきたこの方が結果としてどれだけの命を救ったことか。そんなお気持ちを知るこの御方でなければ、あの殲滅戦も、我が国の〝学校〟も存在し得なかった。
そして、……一つでも掛け違えれば、孤独の痛みも理由もなく傷付けられる不条理も、反省ではなく報復という名のもとに〝与える〟側になってしまう。
それを恐れるべきは、我々だった。
「母君と父君から受け継がれたその勇敢さと行動力は、一刻も早く救いを求める民を取りこぼすこともないでしょう」
たった数日躊躇われただけで、レオン王子もそしてアネモネ王国も取り返しようのない結果で終えたことだろう。
王女として婚約解消など、有望なレオン王子を王配にできるなら、フリージア王国がアネモネ王国を吸収してしまえばといくらでも己が得する手段を選び迷えた中で、この御方はきっと迷いはしなかった。
ハナズオ連合王国を救えたのも、あの防衛戦にプライド様が立ち向かうことを選ばれたからに他ならない。
「そして、姫君であらせられる今もう既に知性に溢れ、王族としての才に頭角を現す貴方様であれば……、……?」
不意に襲う違和感に、考えるより前に顔が上がり、目を疑った。
顔を上げる権利がないにも関わらず、今は上げて良かったと己の判断に救われた。床に落ちる雫の音が消え、あんなにも五感全てが拾えていた筈の息遣いも布の擦れた音も、まるで飲まれるように消えていたプライド様が、……その御姿までもが無へと返り始めていた。
「なっ……!」
喉が干上がり、目を限界まで見開き手を伸ばす。
苦しげに顔に力を込めたままの赤らんだ顔も涙で濡れた肌も、指先が通り過ぎ、触れられない。床に手を付き、四つ足で這うように何度も何度も手を伸ばすが触れられない。「プライド様!!」と夢中で叫び、追い縋る。何故だかわからない。ただ、もう最後の時は近いのだとわかる。
まだ、まだ私はこの御方にお伝えすべき言葉を完遂できていない。この御方が未来の女王となるに相応しいと、語るべき言葉はまだ尽くせきれていない。この御方は聞ききれないほど称賛されるべきだった!
「ッッ貴方様が!女王となる未来を!!私はッ心の底からお待ち致します!!」
嗚呼この程度のつまらない言葉でしか形容できないことが歯痒い。
しかし私の自己満足では意味がない。この幼いプライド様に、間違いなく伝わる言葉で告げる。
肩から固く強張らせるプライド様は、口を閉じたままだ。先ほどまで外すことなく私を捉えてくださっていた紫色の水晶も今は背景の白へと溶け出していた。ああ本当はもっと時間があった筈だというのに。ほんの一時間二時間ではない、プライド様が生まれてから年単位という膨大な時間がこの私には!!
「必ず、必ず貴方様は女王となられます!ローザ様も殿下も私も城の誰もが貴方様の戴冠を待ち望む女王に!!」
称賛をいくら言っても言い尽くせない。それほどに立派な女王に貴方様はなられる。
至るところが白に溶け始め、視界も見えているのかどうかもわからない。私を罰するに必要な四肢も右手以外は背景と同色に消えた少女にただ喉を荒げ叫ぶ。
まだ、大事なことさえ言えていない。プライド様に、この理不尽な悪意に痛めつけられ王族でありながら孤独を味わい、そして予知を得られる前から持ち合わせておられたその勇敢さと行動力に、向こう見ずとまで我々が頭を悩ますほどの貴方様という王女だからこそ
「たとえ望まずとも身を尽くしお支え致します!!貴方様が大人になられたその時に!今の穢らわしい大人ではなく!貴方様が見つけ!望まれ!貴方様と共に大人となる未来を持つ者が!!貴方様を支え!味方となり!何度でもその手を惜しみなく差し伸ばすことでしょう!我儘で良いのです!!いつか、いつか貴方様のその大いなる〝我儘〟に我々は──」
私は、救われるのだと。
「ッ──────……っ」
その小さな唇が、肌と同じ白に溶けてしまうと思った矢先のことだった。
私へと駆け寄ろうとしたかのように、小さな身体が前のめる。唯一残った細い右腕がこちらに伸ばされ、こどもながらのぐしゃついた顔がこちらに向けられた。ガラついた声で絞り出されたその言葉はもう拾えず、それなのに心臓が握り潰される。
その御言葉を拾えなかったことがまたもう一つの罪のように感じ、膝から崩れ床についた。
霧散し、幻のように消えてしまったプライド様に、言葉がでない。
もっと早く顔をあげれば良かった。消えてしまわれることに気付ければ、語る言葉の優先順位も選べた。もっと早く、……寄り添い、この私一人でも言葉を尽くせていれば。
「申し訳、ありません……っ……」
いっそこの白の世界に溶け消えるのが己であれば楽になれただろう。
今まで何度口にしたかもわからない、懺悔の言葉もあの御方のいない世界ではあまりに空虚に思え、鼓動も重々しくそして遅い。
もっと言葉を尽くせていれば、せめて最後のあの言葉を汲み取ることができればと、新たな後悔が押し寄せ今更になり視界が滲んだ。
目頭が熱く、目元は頬へと向かい伝い、落ちる。
こんな見窄らしい、被害者めいた厚かましい姿をあの御方に晒すことがなくて良かったと、それだけを思う。
またこの世界に取り残されたと、漠然と思うのも何故だかわからないほどに思考が回らない。
ただ、あの目の前にいた、大人に傷付けられ悪意の中で毅然と振る舞い孤独と戦う少女が、一刻も早く救われることを無責任に……願った。
……
「……聞こえていますか、ジルベール宰相」
失礼致しました、と。私へ向けられる淡々とした声へ顔を上げ謝罪する。
王配であるアルバートの前の為、言葉遣いこそ整えられるものの黒縁眼鏡の向こうからは敢えての冷ややかな眼差しが上目に睨むように向けられた。
もう、今日この時に至るまで何度も問いた言葉をもう言うまでもないのだろう。アルバートの方も視界に入れれば、やはり想像通りの睨むような眼光がこちらに向けられていた。
更にはティアラ様からも心配そうに細眉を寄せたまま視線が注がれる。
「……大変申し訳ありません、ステイル様。もう一度御言葉を頂戴することは可能でしょうか」
「姉君によろしくお願いしますと、それだけです」
「本当に大丈夫ですかっ?ジルベール宰相」
やっぱり休まれた方が……と今もまた何度でも気遣いの言葉をかけてくださるティアラ様に、感謝だけでなく申し訳なさも重なり頭が下がる。
アルバートにもステイル様にも何度も言われた後にこれでは、そろそろどちらかに強制帰還を命じられかねない。
「ご心配ありがとうございますティアラ様。ですが、あくまで眠りが浅かっただけのことですから」
もう何度も口にした理由を、ティアラ様と同じく私からもまた繰り返す。嘘ではないが、事実でもない言い訳だ。
今朝の目覚めがなんとも息苦しく、理由もわからず涙が止まらなかった。マリア曰く、魘されていたらしい。気付いて揺さぶり起こしてもなかなか起きなかったほどだと言われたが、……私自身は夢を見ていたかどうかすら思い出せない。
たった一言だけ、頭に反響するように今も残っているが、それも夢の内容かそれともステラに言われた言葉かも確証が持てない。少なくともステラには何度か言われた覚えのある言葉だ。
声も姿も思い出せず、言葉しか頭に残っていないせいで、判断材料が足りない。ただ、ステラには何度言われてもこのように、……胸が潰される感覚を覚えることはなかった。
夢見が悪いだけであれば、私もこんな時間まで引き摺りはしない。睡眠も夢見があった分、浅かったことは間違いないが、それもたかが一夜で職務に支障をきたさない。……それをアルバートもステイル様もご存知だからこそ、こうして今も無言の言及をされるのだろう。
「……父上、少し早いですが休息時間を頂いても宜しいでしょうか。ジルベール宰相にはプラデストの進捗報告だけではなく、姉君宛の書状確認作業も手伝ってもらえればと」
「許可する。ヴェストには私から伝えておこう。ジルベールを頼むぞステイル」
カタン、と椅子を押す音と同時のステイル様からのご提案に、アルバートまでもが間髪をいれなかった。
私が断る間を与えないこの迅速さは、流石は親子と言うべきだろうか。続けてティアラ様からまで「兄様っジルベール宰相に優しくね」と申し訳ないほどのお優しい口添えまで頂いてしまう。
王族三名が意見を揃えられてはもう、私に抗う選択肢は無に等しい。
お気遣い頂いたことと、ご心配を変わらずご配慮まで頂いだことの感謝を言葉にし、退室前にもう一度ご三人へ頭を下げた。
部屋に戻った時には今度こそ本調子に戻らなければと己に言い聞かせる。
……
「……いかがでしょうか、ステイル様」
ぱたんと、ステイル様が出てこられた扉は王配の部屋でも摂政の部屋でも、ステイル様自身の部屋でもない。プライド様の私室だ。
本来ならば、ステイル様とともに入室する筈だったお部屋に、今回は私一人が廊下に待たされていた。もうここまでくると、今日は不運の日だろうかと諦めまで湧いてくる。
今朝は魘されマリアに心配をかけ、日中はアルバートとティアラ様に心配をかけ、そしてヴェスト摂政に知られた途端にステイル様を私の補佐業務へと差し向けられ、そしてプライド様にプラデストの報告に立てば休息時間をわざわざ合わせてくださったステイル様から道中遠回しに手痛いお言葉と探りをいれられ、……そして今、まさかのプライド様からは突然の入室拒否を賜った。
『ごめんなさいジルベール宰相はちょっと待って!!!』
正確には時間を置きたいと希望されただけだが。先に様子を見に入られたステイル様が、こうして戻ってこられても尚、私への入室許可はプライド様から呼びかけられない。
敢えてか、心からか。無表情のまま廊下に出てこられたステイル様はすぐには返事をされず、眼鏡の黒縁を指先で押さえ溜息を吐き肩を落とされた。扉を閉め切らずに靴ひとつ分開かれ、ゆっくりとした動作で私と目を合わせられる。
「……プライド第一王女より御伝言です。本日は貴方の顔も見たくないと」
「ッちょっと待ってステイル?!そんなこと言ってないわよ!!?」
バタバタバタバタッ!!!と、王女の部屋からとは思えない足音と専属侍女達や近衛騎士から「プライド様?!」と名を呼ぶ声と、そして扉の隙間が大きく開き、プライド様ご自身が顔を覗かせた。近衛兵のジャック殿もプライド様のお傍で目を丸くされている。
「すっステイル!私は今日はちょっと心の準備がと言っただけで」
「では、もう宜しいでしょうか。この通り、もう目の前にいますから」
やはりその為にわざわざ声を張るように響かされたのか。
私への厳しいお言葉を使用人達がいる廊下にも関わらず発言された時点で妙とは思ったが、まさかステイル様がわざわざプライド様を誘い出してくださるとは。
「でも」「だって」「ちょっと待って!」と繰り返すプライド様が、分厚い扉を開くことを許可してくださるのはそこから実に五分の時間を要した。
ようやく入室を許可してくださった時には、いつものソファーに掛けながらもわかりやすく私から顔を背け、不思議なほど全身を緊張で強張らせておられた。なにか私に知られたら困る無茶でもされたのかと見当づけながら、……紅潮するその顔色に、少なくともステイル様がプライド様のご意志に反してまで私との面会を実行させてくださった理由は理解した。プライド様が私を理由で羞らう御姿が面白くなかったのだろう。
限られた使用人しかいない廊下とはいえ、ステイル様がわざわざプライド様の悪い誤解に繋がるような発言をされる時点でおかしいことはわかった。
まぁ、今のプライド様であればどのような尾鰭がつこうともそのような誤解は広まることもなく、誰も信じはしないだろうが。
「ほん、本当に、失礼しましたジルベール宰相……!その、ちょっと、ただ、ええと緊張しちゃって……。ゆ、夢にジルベール宰相が、でてきたものだからっ……」
自身の両頬を手で挟み、気恥ずかしそうに仰られるプライド様のお姿に、逆に私は少し目が覚める感覚で首を傾ける。「夢に、ですか」と言いながら、その表情からあまり悪い夢では無さそうだとは考える。まさかこの私が、夢の中であろうともプライド様に対し赤面させたような無体を犯したとあればそれはそれで問題ではあるが。……嗚呼、なるほど。ステイル様もそれが気になられたということか。だからこそ、私も呼び寄せ聞き出そうと考えられた。
「プライド様の夢に出演させて頂くとは、光栄なことです。それで、夢の私は一体どのような無礼を犯したのでしょう?現実の私からも心より謝罪致します」
「!違うの!違うの本当に!!私の方が謝らなきゃいけないくらいでッ!あああああと!!!……〜〜っ……おぉお願い……がっ……」
慌てふためき、ソファーから勢いよく立ち上がり、ようやく今日初めて目が合ったと思えばそこでプライド様の声が急激に萎んでいった。
紫色の目をぐるぐる回したまま逸らし、口が緊張のあまりか不出来に引き上がりながら口角から頬までぴくつき、足腰までも逃げ腰の構えのまま固まる。何より先ほどまでよりも塗ったような赤面で茹だられたプライド様に、私も今度は想像がつかない。
謝罪をされる覚えもないが、プライド様がここまで恥じらいながらも私に望まれたことなどあっただろうか。
なんでしょうかと、なるべく落ち着かせる声色で返したが、返事はなかなか得られなかった。
恐らくは、本来はご本人曰くの「心の準備」ができた頃合いで私に望まれる予定だった依頼だろう。プライド様のお望みとあらば大概のことはなんなりとお応えさせて頂くが、しかし確かにこれは気になってしまう。
目を細め、前のめりな感情を勘づかれないように微笑み、のんびりとした呼吸を意識して口を結び、待つ。言動では一切急かさず、そして敢えてこちらからは身を引かず待ち続ける。
プライド様は何度も何度も盗み見るようにこちらに視線をくれては逸らすを繰り返し、そして更に十分以上経過してからとうとうその口を開かれた。
「ほっ……褒め……て、くれま…せん、か………」
『ッもっと聞きたい……っ』
ぽつぽつと、雨が上がる前の予兆のような声粒が、今日一日繰り返されたあの叫びと重なり聞こえた。
その錯覚のせいか、それともプライド様には意外過ぎる依頼のせいか、今度は私が返答に詰まり固まった。鏡を見ずとも己の目が丸く開かれているだろうとわかる。
言葉にした途端、肩ごと私から大きく逸らし逃げるプライド様は、微弱に震えまで起こすほど羞恥に燃えていた。
「何故」や「突然ですね」と浮かぶ言葉は無数にあったが、その中で今は最適だけを選択する。たとえどのような理由があろうとも、他ならぬプライド様の口からそのような可愛らしい要望を頂くことは喜ばしい。
「……勿論ですとも」
私で宜しければ。そう添えながら、今日一日私に頭の中でせがみ続けた叫びにも同様に答える気持ちで笑んだ。
さっきまでは言葉でしか残らなかった叫びが、今は子どもが甘えるような……愛情を求めて泣き叫ぶ時のような響きで頭に残った。
だが、もっと聞かせてほしいのが何だったのか、知るすべはもうどこにもない。
「最大限に要約しても半日……いえ丸一日はお付き合い頂くことになりますねぇ。プライド様の素晴らしさはいくら言葉にしても尽きることがありませんから」
「プライド。宜しければティアラも呼びましょうか」
「いいえそんなっ……!!ちょっと、ほんのちょっとだけ聞ければ充分です……!本当に本当に変なこと言ってごめんなさいっ…!!なんかもうこうでもしないと気持ちの整理がつかなそうで……!!」
自分でも上手く言えないの……!と最終的に真っ赤な顔を両手で覆われるプライド様に、自然と笑みが込み上げた。
幼子のように小さくなるプライド様のご要望に喜んでお答えし、……今はもう輪郭もわからない声の持ち主を、宥めた。
遅くなりましたが、無事ラス為13巻が発売致しました。
皆様のお陰で美しい魅力的なカバーの書籍をまた一冊重ねることができました。アニメも無事完走し、感謝しかありません。
心からの感謝を。




