散らされ、
バキリ、と。
まさかさっきまで抵抗の気配もなく大人しかった奴隷の行動に、鎖を掴んでいた男は反応が遅れた。
両足の鎖は歩く程度の余裕は持たせた長さでも、派手に暴れられるような長さではない。それなのに、ほんの少し前のめったところで射程範囲に入ってしまった。顎ではなく、的確に鼻を狙った蹴りは遠目でもわかる量の鼻血をまき散らせた。
しかも威力が尋常ではない。椅子を蹴るような軽い動作に見えるが、男の鼻はその一回で完全に折れ曲がり変形した。あまりの激痛に鼻を両手で押さえた男は、握っていた鎖も手放した。その隙にハリソンは首の鎖を指先の動きだけで回収する。
騎士として鍛え抜かれた肉体を持つハリソンでも、自分の倍はある体重の男に首だけを引っ張られれば折れかねない。
「おい!!押さえつけろ!!!」
「奴隷が暴れたぞ!!急げ!!」
舞台脇で様子を伺っていた男達も、次々と舞台へと躍り出る。
平和的に連れ出すなど考える者がいるわけもなく、最初から武器を携える男達にまだ観客の来賓に焦りはない。むしろ笑いながら「良いぞ!」とどちらへともわからず手を叩く者まで現れる。手足を拘束された奴隷一人を相手に、武器を持った男達が負けるなど現実的にあり得ない。
しかし開催側からすれば奴隷に勝手をさせるわけにはいかない。
ここで捕らえ、大勢の前で折檻として痛めつけるまでが決まっている。相手が女性であればもっと愉快なことになったと惜しむ者もいる中で、男達は目を尖らせながらも油断する。
そんな彼らの油断と、気の緩みもハリソンは一瞥するだけで手に取るようにわかった。誰一人、戦場の目をする者がいないことに呆れも抱く。自分の実力もわからなければ、相手を見計らうまでの時間もかかりすぎる。
自分の手足を拘束する鎖は、ハリソンの力では壊せない。しかし、フリージア王国が扱う特殊能力者用の枷ではない拘束に、特殊能力を縛るものはない。そしてハリソン自身もまだ、特殊能力を使うまでもないと判断する。
どうせ時間をかけるのも自分の役目だ。手足の拘束よりも、首から伸びる長い鎖が一番邪魔だと思いつつ、端をとられないように自分で握った。
背後から男達が二人、正面からは一人が同時に飛びかかってくる中で、全体の位置を確認するまでもなく両足で跳ねるだけでそれを避けた。
鎖を身にまとい総重量は楽に動けるわけがないにも関わらず身軽に動くハリソンに、来賓もあっと口が開いた。戦闘では団服の下に鎧も着込むハリソンに、鎖数本など重さにも入らない。
前後から飛びかかった男達は、冗談のように互いが肩や頭をぶつけたが、それでも気を失うほどではない。互いに押し合いながら体勢を立て直し、別位置に着地したハリソンへと振り返る。
なんだコイツ!と怒鳴る中、また近くにいた別の男がハリソンへ剣を振り上げ飛びかかる。
「さぁ大変なことになりました!!身軽な彼はもしかすると特殊能力者か?!落札者の40番様、手足が破損した場合はこの私が返金致しましょう!」
進行役の盛り上げる実況が、開催側の余裕の表れだった。わはははっ!と格安で落札された奴隷で笑いを取るほど愉快に道化を演じている。
その頃同時に男の剣がハリソンへと横ぶりされた。図体の大きい男の横ぶりはハリソンの肩の高さを過るが、本人には当たらない。それどころか一瞬消えたと思えば、ハリソンは剣の機動の下へと潜り込んでいた。いつもならばここで後ろ蹴りを放ったが、今はそれには足の鎖が微妙に短い。
鎖の端を掴んだ方の手を床につき、両足揃って男の顎を真下から突き上げた。片足でも脳を揺らす威力を持つ蹴りを両足で受け、靴も履いていないハリソンは足の裏の感覚で顎骨を砕く感触をしっかりと手応えた。
ここまで身軽な身体での戦闘も懐かしいと、鎖三本をひっつけた状態にもかかわらず思う。
騎士になってからは基本的に戦闘では靴も団服も、装備を身にまとうことが殆どだった。
顎を砕かれた男は、今度は顎を押さえる動作もしなかった。蹴られた勢いのまま背中から大きく倒れ、舞台からこぼれ落ちる。
テーブル席の客にまでは届かなかったが、舞台から巨体か落ちる音に今度は悲鳴も上がる。
男が手放した剣だけを拾おうとハリソンが手を伸ばす間にも、当然ほかの男達も待ちはしない。今度は床の剣に向けてハリソンは腰を曲げた分、隙もあった。
上から飛びかかった男の手には鉄骨が握られる。押さえつけるのではなく、後頭部を割ろうとする男にハリソンは剣を拾うことを中断し振り返る。それなりに殺気を向けてきた男を少しだけ評価しつつ、握っていた鎖の端を一度手放し、素早く振った。
自分の首を繋ぐ鎖は、もともとスタッフの男が引っ張れるように十分な長さもある。
その鎖を武器として掴み直し、男が武器を振るより先にその両眼へ叩き振った。鎖の先が目に直撃し、まるで弾かれたように男は背中を反らし野太い悲鳴を上げた。
その後続にいた男達も突然背中を反らされぶつかったが、目を潰された男の断末魔のような悲鳴の方に驚愕した。
そして目を潰しただけで良しとするハリソンでもない。まだ自分の足で立てている男のガラ空きの腹へ拳を叩き込んだ。ぼこりと気持ち良く腹に拳がめり込む感触に、僅かにハリソンの口端が上がる。
さらに後続の男達にも良い壁だと、目が潰れた男がフラつき倒れ込む間に今度こそ剣を拾う。
そして仰向けに傾く男の腹に足を掛け、文字通り踏み台にして飛び上がった。宙返りとともに後続の背後を取り、彼らが振り返るよりも先にその首を刈り取る。両手がやや不自由の為、たった二人の首を切る為に二回剣を振らなければならなかったが、それでも素人達が反応できる早さではなかった。
数秒間にまた三人の男達が倒され、さらに剣を取られた状況に今度は進行役も笑えなくなった。
「おおっと剣を取られた」と戯けようとしていた言葉が、カラリとした喉から流れ散る。その間もまた男達が六人、五人と舞台の右端と左端から駆けつけたがもう客も盛り上がれなくなってくる。手に汗握り、早くこの嫌な緊張感が終わってくれるのを待つ。
しかし、十分、二十分、三十分と時間が経過しても全く形勢が変わらない。
たった一人の奴隷を相手に男達が一斉にかかって無力化されていく。あまりの出来過ぎに、最初は何かの演出かとも考えた客も、目の前に飛び散る血飛沫を偽物とは疑えなくなった。上等な衣装も会場全体が血生臭くなっていく。
沈黙に近い空気の中、逆にわははっと声を上げたくなったのはアランだけだった。
容赦ないハリソンが、今だけはなかなか痛快だった。ステイルも無表情を意識しつつ、腹の底では笑う。エリックとアーサーは演技の必要もなく顔色を悪くする中、カラムは眉間に皺が寄った。観客はともかく、王女であるプライドが見ている中で盛大に首を飛ばしたハリソンに一言言いたくなる。
首が飛ぶ瞬間プライドの目を塞ごうともしたカラムだが、そもそも彼女が防衛戦でも凄絶な戦闘を目にしていたと思い出した。しかし、それでもおおっぴらに見せて良かったかどうかはまた懐疑的だ。
「おい!!!その奴隷をもう一度競売し直せ!!俺が買う!!」
「すげぇ。聞いたかエリック。この状況でまだハリソン買おうとしてる奴いるぞ」
いっそ感心する命知らずな発言のテーブル席に、危機管理の無さから判断して御曹司の馬鹿息子かなと思いつつ言葉に出るアランに、エリックも枯れた笑いがこぼれる。むしろハリソンを最低額で買い取った男は、返品したいくらいじゃないだろうかと考える。
自分が苦笑以上の相槌を考えている間にも、舞台上でハリソンが今度は飛びかかってきた男達の中から真正面の二名の顔面を真横に切り裂いた。血を吹いただけで済んだが、剣が質の良いものであればきっと頭蓋骨ごと二つに切り割っていただろうとエリックは思う。
飛び跳ね、空中に逃げたと思ったのもつかの間に唯一の武器である剣をハリソンは投げ放つ。浮遊する間に男の一人の心臓が貫かれた。目の前の舞台が順調に赤く染まっていく。
背後を取られたのも気付かず、隣に並んでいた男が心臓を貫かれたことに目を奪われた男達へ今度は二人まとめてその首へ鎖を回す。
敵がいるにも関わらずよそ見をするなど論外だと言わんばかりに、苦しませるような余裕も与えない。巻き付けた鎖をハリソンは断頭台よりも冷たい眼差しで左右に引いた。バキャリと、二本分の骨が仲良く折れた。
音を拾った客の女性から、とうとうパニックにも近い悲鳴がいくつも上がり出す。
その悲鳴を叫びきるまでの間にも、ハリソンはまた別の襲いかかってくる男をその勢いのまま胸ぐらを掴み自分の後方へと放り投げた。ちょうど立っていた非戦闘員に見える男へとめがければ、進行役の男は真正面から巨漢の男に潰された。とうとう道化役を演じた男もしゃべれなくなる。
ハリソンで手一杯の現状で、進行役を助ようと間に合う者などいるわけもなくそのまま静かに圧死へと向かっていった。
あっという間に半数以上が返り討ちにされたことに、まだ舞台で生き残っている男達も特攻する足が止まり出す。
また駆けつけた男達も含み全員武器を携えていたが、全く勝てる気がしなかった。
誰もかかってこなくなったことに、ハリソンは返り血に濡れた頬を手の甲で拭いながら眉を寄せる。己が力量を測ったのは評価しても良いが、彼らの役割はここで暴れる奴隷を制するか排除することだ。
それを命欲しさに一歩も動こうとしないなど、生きているだけで見苦しい。
殺した人数分、今は武器も床に落ちているハリソンは小石を拾うような手軽さで槍を拾う。
剣よりは長さがある武器を手に、一番後方で逃げ腰になっている男へと振り投げた。剣と感触や握りが違う分、命中率は落ちていたがそれでも腹を串刺しにする程度はできた。
「逃げるな」
まるで自分が彼らを率いているかのような口調で、初めてハリソンは口を開いた。




