05 - 遮光
それ以降、少年は人形の出立時には、瞳と言葉を交わすようになった。
多くは語らず、一言二言、言葉を交わすだけ。
満足感をえながらも、やはり違和感を消すことができない――瞳の中に映る、白い鎖の存在を。
整えられた顔の作りを阻害する、白い鎖。拘束具のような愚かしさに、少年の違和感と苛立ちは募るばかり。
――包帯の下には、なにがあるのだろうか?
次第に、少年にも好奇心が生まれてくる。閉ざされていれば、その内面が気になってくるのも性なのかもしれない。
だが、その鎖の下がどうなっているのか、明確に知る者はいない。あるのは噂話程度の、信憑性のないものだ。
――その噂話は、だが、少年の心を荒立てる内容でもあり。
「壊されたのよ。ご主人様に、ね」
かつて、メイドがぽつりとささやいたことがある。
あまりにもさりげない一言だったことに、少年は身体をびくりと震わせた。
――あんなに美しいものの一部を、破壊する?
噂とはいえ、そんな考え自体が、美しく造られた彼女に対する冒涜ではないか。
少年は心の底からそう想い、だが、その可能性を否定できないことに震えた。
硬直する少年の態度が、あまりにも驚きに満ちていたからだろう。
メイドは吐息を一つついて、安心させるように少年の肩をたたく。
「噂よ、ウワサ。人の心は答えを求めるから――正しくなくとも、ね」
メイドのなぐさめに対して、しかし、少年は考えを切らすことはなかった。
震えの代わりに浮かんだのは、疑問と、かすかな怒りだった。
――『醜い』ことを、主に求められた人形。そんな馬鹿なことが、ありえるのだろうか。
疑問の答えは、しかし出るはずもなく。
代わりに、少年は人形のイメージを、脳内で形作った。
包帯の隙間からこぼれる、暗い空洞の影。肌と闇の溶け合った、破片の奥底。
他はまぶしいほどの美しさを想起するのに、そこだけが、ぽっかりと欠けた黒さをまとっている。
――想い描いたイメージに、少年は身震いする。周囲の光が際だつからこそ、闇の深さもまた深く想像してしまえるからだ。
だがそれは、白い鎖の下を知らないがゆえの、少年の見る幻影にすぎない。
もしかしたら、噂話や想像とは異なり、美しい半面が残っているのかもしれない。
彼は、信じる。
望み、願う。
その鎖を解かれたものが、美しい姿を得る事を。
少年らしい、ひたむきな無邪気さで。
――解きたい。その白い鎖と、閉じられた闇のなかを。
光の世界へとなじみ始めた少年は、自身の心中をそんな言葉で装飾した。
人形への想いで時をすごすことが、少年にとって、生きる糧となり始めていた。
――そんな日々の、突然のある日。
紳士は一人きり、身支度も半端なままに外出した。
急な事態のようで、他言したくない用件でも含まれていたのだろうか。
いつもかたわらに寄りそう人形はおいていかれ、館にて待つように命じられたようだ。
少年は、このタイミングを好機だと考えた。
常に触れられない憧れへ、声と好意を伝えるには、絶好のタイミングであると。
それが、今の立場を危うくするかも知れないと感じてはいても、身体を止めることはできなかった。
だが、少年は人形に出会うことはできなかった。
人形が住まう扉は、堅く閉ざされ、開くことができなかったのだ。
堅い扉の音が少年を拒絶した時、ふと少年は我へと帰った。
まるで、警備がいない他人の家へ、泥棒に入るような行為ではないか。そう解釈してしまった心が、鍵を探しに行く気力を沈ませる。
そう、少年が人形に会うことは、禁止されているわけではない。人形のメンテナンス作業も、メイドや執事の教えの中には組み込まれていたからだ。
だが、少年は人形をメンテナンスを、メイドに全て頼んでいた。それは、自分の心の制御ができるか、自信がなかったからだ。
今回も、少年はその狭間で迷い、ドアノブに掛けていた手をゆっくりと外した。
せっかくの好機だとわかってはいても、少年は、人形に向き合う自分を想像することができなかったのだ。
そのまま少年はあてもなく、館の中を歩く。今日に限って、紳士は特に急ぎの用件を預けていかなかったのだ。
目的のないままにさまよい、刻一刻とすぎてゆく一日。
このまま、今日という日が終わるのだと少年が想いはじめていた――そんな時だった。
「こちらでよろしいですか?」
「……?」
少年の耳に声が聞こえ、足を止める。
その声は、見知ったメイドのもの。
廊下の先から聞こえたものでも、部屋の中から漏れ出たものでもない。
聞こえた先にあるのは、確か、中庭のはずだった。
来客だろうか。だが、館の主は外出している。
少年の記憶でも、来客の予定はないはずだった。ましてや、主なき館に人を招くなど、考えにくい。
メイド個人の客だろうか――そう考え、少年はメイドの友人や客を一度も見たことがないと感じた。
興味を惹かれた少年は、あてのない巡回をやめ、歩を中庭へと進めることにした。
近づくにつれ、陽の光が強く眼に入ってくる。
それこそ、日光浴にでも最適な、過ごしやすい一日だった。
先ほどの場所から少し歩いただけで、少年は中庭へと足を踏み入れた。
緑の草花や木々に光が反射する中、誰かが立っている気配を感じ、少年はそちらの方向へと声をかけた。
「誰か、来ているんです……か……?」
その声は、途中から曖昧になり、疑心暗鬼へと変わってしまった。
「……え?」
なぜなら、眼前に広がる風景が、真実だと信じられなかったからだ。
「……あ……?」
呆けた声を上げる少年に、三つの瞳が向けられる。
二つの瞳は、メイドのものだった。やはり、先ほどの声は彼女のものだったらしい。
彼女は、少年の様子に呆れた様子を見せながらも、ふぅ、とため息をついてこう言った。
「陽を浴びたいと、請われましてね。ならば、応えなければならないかと」
メイドが説明する言葉の先、そして少年の視線の先――そこには、彼にとって予想外のものがいたのだった。
三つの瞳の、残り一つ。こちらを見つめる、ガラス玉の瞳。
柔らかなドレスを身にまとって、少女の姿をした人形が、陽の光の下にたたずんでいた。
明確な興味を持って、人形は少年の姿を、その輝く瞳の中へと映しこんでいた。
「え……あ……?」
突然の事態に、少年はただ立ち尽くすしかなかった。
憧れの人形と、遮る者のいない環境で会うという、願ってもいなかった幸福。
それが今、少年の眼の前に広がっていた。
「……」
無言のまま立ち尽くす少年から、人形は視線を外して、声をかける。
「ありがとう」
外された視線の行く先は、自身を導いたメイドへ向けられたもの。
視線とともに伝えられた感謝の言葉は、平坦であるが、どこか気持ちがこもっているように少年には感じられた。
「いえ、仕えるものとして当然の勤めですわ」
感謝の言葉に、メイドはにこやかに受け応える。
それは、妹に対する姉のような、どこか見守るような表情。
少年に対して向けられるものとはまた違う、けれど暖かい、彼女特有の笑顔だった。
「……まだ、立ち尽くしているわけ?」
少しばかりとがめるような口調で、メイドが少年に呼びかける。
それもまた、少年へとたまに見せる、姉のような態度。
「あ、うん……」
事態が飲み込み切れていない少年は、ふらふらとその足取りを二人の方へと向かわせる。だが、少年にとって、その足取りに現実感は感じられなかった。
なぜなら向かう先には、幻とも想えた存在がしっかりとあるのだから。
近づいて、立ち止まる。
そして、また無言となる。
――どうすればいいのか、まったくわからない。
少年の内心で言葉は生まれ、消え、また生まれ、そして消える。
身体は動かず、動悸だけが妙に速い。
こんなことは始めてだった。こんな機会を、望んでいたはずだったのに。
少年がなにも出来ないままに戸惑っていると、かすかなため息がその場に響いた。
「……ふぅ」
その発信者は少年でも人形でもなく、メイドのもの。
少年と人形。彼女だけが、二つの立場を客観的に見つめることが出来た。
二人は同じように無言で、かける言葉を見つけられず、ただ立ち尽くしている。まるで、違う世界に相手がいるかのような瞳をして。
それでは、重なるものも重ならない。
だから、彼女は声を上げた。
「あ、いけませんわ」
突然、ふっと、驚いたようにメイドは二人に語りかけた。
「少々、やらなければいけないことを想い出しましたわ。……じゃあ、あとはよろしくね」
「……え?」
ぽん、と肩を叩かれて現実に舞い戻ってきた少年の瞳には、足早に駆けてゆくメイドの後ろ姿だけが映った。
メイドの言葉と行動は、さらに少年の態度や精神をひどく混乱させることになった。
「……ええ!?」
驚きをもう一度呟いても、メイドの姿が戻ってくる気配はない。
かといって、大声で呼びかけるわけにもいかなければ、連れ戻しに動くわけにもいかない。
「……」
困惑しながら、視線を正面へと戻す。
そこには変わらず、幻のような風景がそのままあった。
幻想の存在に似た、人形の姿。
――沈黙。無言の時間が、少年と人形の間に横たわる。
しばし、日の下にたたずむ人形を見つめる。
その表情や仕草に変化はなく、少年がそこにいることすら感じていない風情。
だが、少年はそれでも満足だった。ただ、ここにいられるこの瞬間が、とても満たされるものだったから。
気持ちが落ち着いたからなのか、ふっと、少年の唇が動いた。
「良い天気、ですからね」
「……?」
少年の呟きは、自然に漏れ出たものだった。
人形は、その呟きに少しだけ顔を巡らす。
少年は人形の動きに期待して、表情をうかがう。だが、人形の表情に感情らしきものを見てとることはできなかった。
いつもと変わらぬ人形の反応に、だが、少年は不思議な高揚感を感じた。
今回、その瞳に映っているのが自分だけだという事実が、少年の心を躍らせた。
「出歩きたくもなるもので、そう感じるのは素敵なことだと。そう、想っただけです」
「……そうでしょうか?」
「そうです」
人形の発する疑問に、少年は強い口調で肯定を与える。
「よくは、わかりません。ですが、そう想われるのなら、そうなのでしょうね」
他人事のように語る人形の反応。少年を見て答えながらも、言葉の意味と響きから、誰に対してもそうするのだろうと想える隔絶感がある。
少年の心に、ふと、朝の感情がよみがえる。――好機とは、このタイミングを言うのではないのか?
自然、口が言葉をつむいでいた。
「……どうして」
「……?」
「どうして、あなたはここにいるのですか?」
それは、この館で過ごし始めてから抱いた疑問だった。
「ここ、とは?」
「この屋敷に、あなたはどうして……いるんです?」
人形には、自由は与えられていない。常に紳士とともに寄りそい、必要のない時は、奥の個室へと押しやられるだけ。
少年には、分をすぎた質問かと想いながらも、聞かずにはいられない疑問だった。
それに対して人形が返した答えは、至極当然の、淡々としたもの。
「――わたしは、人形だから」
「人形……」
「主に寄りそうことが、わたしの存在意義なのです」
人形はあくまで淡々と、自分が館にいる理由を少年に告げた。
少年は、心のどこかで理解しながら、あいまいに頷いた。
「そう、ですよね……」
少年は人形の言葉を、素直に受けいれきれなかった。
もしかすると――彼女も、もしかすると自分と同じなのかもしれない。少年には、そう感じられたからだ。
奴隷の身として買われた自分に、人形の身として寵愛される彼女。
一見すれば、それらは違う境遇と立場。
だがその本質は、紳士の管理下に置かれた、同じ人の形に過ぎないのだ。
(……だが……そんなことで、いいのか?)
内心で、少年は呟く。彼の若さと心は、そんな境遇ゆえ妥協を、受け入れるわけにはいかなかった。
あくまで冷静に、少年は再び口を開いた。
「ですが、私には……あなたは、もっと美しいと想えるのです」
「……」
曖昧だが、その言葉には、現状の否定を含んだ意味があった。
その意味は、少年の立場を危うくする可能性があるもの。彼の身の奇跡を考えれば、避難する者しかいないだろう。
この場でその言葉を聞いたのは、人形だけ。無表情のまま、静かに人形は言葉を紡ぐ。さきほどより、どこか流麗な口使いで。
「白い覆いをまとえば、それだけでシミを隠せます。その内が、浸食されているとしても」
「え……?」
「けれど、その本質に変わりはないのです。本質は、そう、覆い隠せるだけで――永遠に、根付いているものなのです」
その人形の語りは、少年が知る彼女と違った印象を与えた。
まるで、紳士に対するメイドの、冷たい対応とどこか似ているようにも感じられた。
つまりは――試されているのだろうか。
人形にとって、少年がなんであるのか。
「あの方は、この壊れたわたくしをこそ、愛してくださるのですわ。それゆえに、わたしは側にいられるのです」
人形は、一つの瞳を少年に向ける。
その瞳は、なんの感情もない、ガラスの造りモノ。
だがそれゆえに、言いしれぬ説得力を持っている、透き通った瞳。
「あなたは、どう想われますか? この壊れた人形には、では、どんな主が似合うと思われます?」
人形は問う。
砕けていないほうの眼を向けて。
半開きの唇で。
ささやくように。
訴えるように。
「それとも……ごらんになられますか? この白い鎖の下にある、本当のわたくしを」
無機質な表情で、感情のない声音で、しかし、強い意志を感じさせる仕草で。
白い鎖を、その細すぎる指先でなぞりながら。
人形は、少年を見上げて、問う。
ガラス玉の瞳で、彼の内心を貫くように。
「う……」
その問いかけに、少年の足が一歩引いてしまう。
その恐れは、少年の内心が脆弱であることを露呈させた。口を開こうとしても、うまくいかない。
人形の瞳に対して少年が返せたのは、戸惑いとかすかな呻きでしかなかった。
怯える少年へ、しかし人形は変わらぬ瞳で問いかけを続ける。
美しい水晶の輝きと、暗く深い想いを、白い鎖の下に閉じ込めながら。
「……あなたにとって、美しいとはなんですか?」
――それが君だと、言えれば、言ってしまえれば、僕は――
拳を握りしめ、言葉を耐える。
その言葉を言ってしまえば、なにかがあふれ出る。
それはおそらく、止まることがない。
そして、少年は気づいてもいた。
今、その言葉を述べれば、全てが変わってしまう。
そして、変化を貫く覚悟も受け入れる心も、まだ自分にはないことを。
そんな弱い自分を、自覚してもいた。
だが、想いは自然に満ちて、止まることがない。
自分の心の中に、制止の声を反響させる。
そうしなければ、今すぐにでも口をついて出てしまいそうだった。だが、その抵抗は、長く持ちそうになく。
――少年の抵抗が破れそうな、その時だった。
「お待たせいたしました。お部屋に戻りましょうか」
計ったかのように、メイドの声が背後から聞こえてきたのは――




