04 - 日常
館での奇妙な生活は、一通りの教育、行動場所の制限、館にふさわしい態度の習慣化、それらのしきたりさえ覚えていけば、とりあえずやり過ごすことはできた。
上層階級による恩恵。少年の執事見習いという身分は、その位置にあった。
それは、モラトリアム期間と言い換えてもいいかもしれない。
そんな少年の生活を管理するのは、この館に住む唯一のメイド。彼女は、少年がこの館で初めて眼にした、あのメイドだった。
年若い身でありながら、彼女は有能であった。紳士からの信頼もあるのか、彼を代弁するような指示やとりまとめなどを、スムーズに行っていた。
もっとも、館内に住むのは少年とメイド、幾人かのハウスキーパー、それに主たる紳士と、奥深い部屋にひっそりと隠された一体の人形くらいのもの。
館の規模や紳士の立場を考えれば、決して使用人の数は多いとは言えないものだった。
だが、おかげで少年は、気を楽に持つことができた。気をつかう人間の数が少ないというのは、学ぶことを命じられた身にとっては、楽なものだったからだ。――メイドが彼の立場を配慮しているのだろうということも、うすうす感じられてもいたのだが。
そんな彼の一日は、早朝から始まる。
館の周辺で生命が騒ぎ出す頃、彼も同じように眼を覚ます。身体が埋もれるほどに柔らかなベッドのなかで、窓ガラスから差し込む光の訪れと共に。
そして少年が目を覚ます時には必ず、カーテンを開く音と共に彼女の声が飛んでくる。
まるで、その時間に目覚める事を知っていたかのように。
「さあ、先生のスパルタ教育が、あなたを一人前の執事にしてあげますわ!」
初めのうち、メイドは朝の静謐さを破るような声で、高らかにそう宣言していた。
時刻通りに始まる彼女の教育内容は、その宣言に恥じない内容だった。
挟まれる休憩以外の時間は、少年が身につけるべき立ち居ふるまいのために整理段取りされていた。
身なりを整え、適時食事をとり、勉学と作法の時間へとりかかる。
少年がそんな日々を受け入れ、内容がその身と知識に現れてきた頃――「とてもつまらないんですけれどー」
――メイドは、不機嫌な口調でそう述べることが多くなった。
不満を述べる彼女の顔は、妙な安心と失望感に満ちていた。
理由は簡単で、少年が彼女の与える数々の課題を、ごく当たり前のことのようにこなすことができたからだ。
少年自身にとっては、理不尽な言われようであった。
だが、少年にも気になることがあった。
あまりにも、習得するのが早すぎるのだ。自分のこととはいえ、違和感は拭えなかった。
その吸収率は、学習や教育といった、後天的な習得の仕方というよりは、まるで――。そう、少年が考えていた時。
「まるで――想いだしておられるみたいですわね?」
なにかを含むような言い方で、メイドは少年にそう語りかけた。
そうした、猫のような気まぐれで真実を当てているような問いかけが、少年の気に障ることもあった。
だが、彼女らしい物言いだとわかることに、ある種の安心感を覚えていたのもまた事実だった。
そんなメイドの問いかけに、少年は自問する。
――だが、はたして自分は、このような行動を行える人間であっただろうか?
記憶を想い返してみても、しきたりや約束事にしばられる家柄だった印象はなかった。
だが、同時に……少年の記憶は曖昧で、幼い頃の記憶となると、霧に包まれたようになる。一番実感のある記憶は奴隷時代のものだが、なぜそうなったかの経緯すらうまく語ることはできなかった。
不安そうに考え込む少年に、メイドはゆっくりと背中をなでながら語りかける。
「ご安心なさいな。必要であれば、覚えられるに越したことはないの。過去におびえてはいけないわ」
メイドの言葉は、少年に安心感を与えた。そして、心の再確認もまた。
そう、過去に囚われてはいけないのだ。
――鎖で閉じられるような、そんな過去の因習には。
少年の役目柄、紳士と出会う機会は比較的多かった。
家のこと、仕事のこと、対人関係のこと、政治のこと、しきたりのこと。
言葉にならない仕草や空気まで、紳士の近くで学ぶべき事は多様だった。
それは、この場所で生き抜くための様々な約束事。つまりは、常識でもあった。
今まで生きてきた世界とは異なる、非日常の常識。それらを少年は、苦痛と悩みを伴いながら、次第に習得していった。
そう考えれば、少年への待遇は破格でもあったといえる。
たかが奴隷の身の上であった少年に対して、今の地位は不遜だ。貴族や市民、奴隷にいたるまで、この対応に納得するものはおそらくいないだろう。
しかし、当の貴族はそういったふうに感じている様子はない。まるで、彼がここにいることがごく自然なように振る舞う。まるで、過去に知り合っていたかのような距離感で。
そして、少年も自身の立場が過剰な待遇であるいうことに、気づくことはできなかった。
それは、気づかないからではない。生活環境の激変から来る多忙さは、他のことに集中している余裕など与えなかったからだ。
――ただ、一点を除いては。
朝の出立時、呼ばれた時間に主の元へと駆けつける。
身なりや持ち物、今日の予定の確認まで、少年は一通りの管理を任されている。年配の執事もいるのだが、館の中においては、少年へと対応を任されていた。
その支度の時間、仕事以外の会話は挟まれない。
主と従者という立場において、それは正しい。
だが、この二人の場合、その沈黙には別の意味も含まれていた。
「……時間です」
時計を確認し、玄関まで荷物を持って送り届ける。
少年にとって、もっとも苦痛の時間。
――そして、大切な誓いの時間。
「お待たせしました」
聞こえてきたのは、メイドの声。
その声が告げられる時、少年にとって長い一瞬が始まる。
「……!」
頭を巡らせ、そちらの方向へと眼をやる。
先に立つのは、黒いエプロンドレスをまとうメイドの姿。
そしてその後ろに、小さくささやかな影が寄り添うようにいる。
少年は、その小さな存在を知っている。だからこそ、素早く頭を垂れ、眼を伏せる。
――見ることはできない。見てしまったら、潜めている想いが溢れてしまうから。
足音が、こちらへと近づいてくる。二つの足音。それらは、片方は少年へ、片方は紳士へと、途中で別れる。
足音が止み、少しの間、沈黙が訪れる。
ドレスの衣擦れの音が、少年の頭でかすかに揺れる。
紳士のいる方に、彼女はいる。
「では、行ってくる」
そして、少年の頭にかかるのは、紳士の穏やかで低い声。
「……行ってらっしゃいませ」
うやうやしく丁寧に、少年は出立の言葉をかける。
紳士と、その側へ寄りそうものに。
そうして頭を下げながら、しかし少年は惑う。あまりにも長い、その一瞬の出来事のなかで。
すぐにでも頭を上げ、足を踏み出し、会話を交わしたい、そんな衝動に駆られる。その想いが、一瞬に過ぎない時間を、何十倍にも膨らませる。
無論、その想いは主に向けられたものではない。
その側に寄り添う、見てはならない憧れへと向けられているものだ。
だが、その衝動をなんとかして止まらせる。
手に入れようとしてしまえば、全ては、あの始まりの時へと戻ってしまう。
だから、少年は想いを踏みとどめる。
――そう、止めていたのだ。その、無機質な声がふりかかるまでは。
「ありがとう」
その、あっさりとした一言。はじめて聞いた、返答の言葉。
びくり、と身体を震わせて、衝動的に頭を上げてしまう。
そして――見てしまう。
瞳の中へ、その姿を、改めて映してしまう。焼き付けてしまう。
出会った時と何も変わらない、ドレスをまとった少女の理想形。
――その白い鎖もまた、変わらずにそこにある。
「……」
言葉に詰まり、意識が止まる。呆けていたと言ってもいい。
その姿は、改めても見惚れるほどに、少年の意識に深く浸透するものだった。
「……ちょっと」
かすかに背中をつつかれて、少年はようやく我に返る。
無言でこちらを覗く紳士と人形を前に、慌てて頭を垂れる。
「す、すみません」
「いや。では、行ってくる」
執事が歩み出すと、人形も無言でついてゆく。
老執事が玄関先からの案内を少年から引き継ぎ、ドアを開ける。
二人は、そのドアから外の世界へと出て行った。
姿が見えなくなった瞬間、後ろから声がかけられる。
「あまりよろしくないですわね。主の出立時に、呆けるだなんて」
メイドの指摘は、正論だ。
補佐役として、まったくもって失態という他はない。
だが、少年の心に反省や落ち込みはなかった。
その様子を見て、メイドはからかい気味に声をかける。
「……悪魔にでも魅入られたのかしら?」
メイドはあくまで冗談のつもりで呟いたのだろうが、少年は内心、本音で切り返していた。
――彼女は、僕の中の天使なんだ。
言葉にはせず、その胸中を反復しながら。
少年は、人形の過ぎ去った玄関を見つめていた。




