14 - 人形
「――お呼びですか、主様」
冷たい廊下に響く声で、人形の声が返る。
コツン、コツン、と歩む音の先には、スーツを着た壮年の紳士が待っている。
紳士の表情は、うかがえない。その顔面を覆うほどの、仮面を身につけているからだ。
そして表情を隠しているのは、紳士だけではない。人形の顔面にもまた、白い鎖が幾十にも巻かれている。
「……」
紳士は黙し、人形の振る舞いをただ見つめる。
人形も、言葉を発することなく、彼の側に付き従う。
まるで、そうであることが自然であるかのように。
――『人形』は、破壊されることで元の人形へと戻った。
少年が焦がれた、あの日の幻影を取り戻した。
それは図らずも、かつては否定した紳士の言葉を、肯定する行為に他ならなかった。
あの日、少年は人形の顔面を破壊した。ひどく甲高い破砕音と、空を舞う破片の姿が、嫌に記憶に残っている。
彼女の残されたガラスの瞳に映っていたのは、醜い喜びに震える男の顔。
それは、少年が嫌悪していた紳士のもの。
少年は直感した。
彼もまた、この行為を行ってしまった罪人なのだと。
同じ身の上の少年は、直感的にそう気づいた。
だから、少年は仮面を被る。紳士が身につけていた、完全に表情を隠す仮面を。
それは他者のためでも、人形のためでもない。
完全な自己防衛、弱い自己の保身を計る、逃避行為。
それを知りながら、だからこそ、仮面の紳士へとその身を変えた。
少女の人形もまた、幻想の存在へと返る。
壊れたモノしか愛せない、悲しき男の慰めとして。
愛撫の玩具として存在する、人の形として。
――そして再び、一人と一体の倦怠の時が刻まれ始める。
幾ばくかの時が、止まったままに流れ続け。
知らぬ間に、少年は、もうそう呼ばれる年ではなくなっていた。
時を経ても変わらぬ人形は、変わらぬままに側にいた。
その人形の顔には、白い覆いがつけられていた。始めて彼女を見た、あの日と同じ白い鎖が。
少年が恋した、幼い日の鮮明な記憶。
人形は、同じ姿で側にたたずんでいる。
――それが、満たされる悲しみと空虚な愛しさ、その二つを同時に感じさせる奇妙な装いだと、少年はすでに知ってしまっていた。
仮面をつけた少年――もう、少年と呼ぶには難しい年――は、そんな人形を愛しそうに見つめる。
だが、一言も言葉を発することはしない。
人形もまた、一言の意思も、表すことはしない。
仮面の男と、傷ついた少女。
その光景は、まるで、少年の日に見つめていた風景そのままで――
――そう、もう目覚めなくてもよいと願っていたのだ。
――だから、なのか。
――夢とも現ともしれぬ、自分の想いに囚われ始めたのは。
「……!?」
その光景が眼に入ったのは、偶然でしかなかった。
だがその光景は、気づいてしまったが最後、見過ごすことはできないものだった。
仮面の男は、驚きとともに、諦めの念を強く抱くこととなった。
日差しの強い、人の群れが過ぎる中央通り。
人形を初めて見た場所に、よく似ている。紳士が、奴隷の鎖につながれていた頃。
その日々はすでに幻想で、幻で、遠い遠い過去のものに過ぎなかった。
――そう、そのはずだったのに。
(……ば、かな……?)
隣にたたずむ人形を、しっかりと見つめる一対の瞳。
その視線の元は、鎖をつながれた奴隷の少年。
その瞳。それは、かつての紳士と同じ瞳だった。
そう確信できた。なぜなら、それは人形に魅入られたものだけが放つ、純粋な光。
紳士は、気づくことができた。かつて同じ光を持っていた、少年として。
顔の反面を白い包帯で覆った、美しい少女の人形。紳士が始めて彼女を見た時と同じ、不完全な姿。
だが、それゆえに、曖昧な希望を見るものに抱かせる。
――彼女を見つめる奴隷少年の無垢な瞳は、あの日の自分とまったく同じものに魅入られていた。希望と、羨望。淡い期待に光り輝く、少年の瞳だった。
同じ光景と現象を、今度は受け入れる側で、仮面の紳士となった少年は味わっていた。
――時が来たのは、深淵の終着に来たからなのか?
――終着の終焉が、始まりと同じとはどういうことなのか?
苦みの広がる胸中で、紳士の脳裏にさまざまな憶測が乱れ飛ぶ。
だが、深く考えている暇はなかった。
あの日と同じ光景が繰り返されるならば、少年の踏み出す一歩もまた予想できたからだ。
紳士は懐の紙幣を数えながら、地面に叩き伏せられた少年の元へと足を踏み出していた。
……交渉はあっけなく終わり、少年は馬車の一角を占めながら、意識を失っている。
人形は、無言のまま。
なにを語ることもなく、なんの表情を出すこともなく、ただ、紳士と少年の邂逅を見守っている。
――彼女は覚えているのだろうか? 記憶を残しながら、こんなことを見逃しているのだろうか?
暗い想いが胸中を巡りながら、しかし、半壊した人形を問い詰めはしない。
そうできないように鎖で覆ったのは、他ならぬ紳士自身だったからだ。
だからこそ、紳士は懊悩する。
――彼を逃すべきか?
――それとも、自分と同じように、また……?
その答えは、容易には出ない。出せるはずがない。
馬車が屋敷に到着し、少年の手当を命じた後でも、その想いは変わらなかった。
鎖を断ち切る、それもまた甘美な響きに紳士には想えた。
こんな馬鹿げた舞台劇は、いつかどこかで終わらせるべきなのだ。
その一方で、だが、という引っかかりが残る。その引っかかりがなんなのか、紳士には見当がつかなかった。
よって、答えは未だに出ないはずだった。容易には、出さないはずだった。
――たった一つの、呼び鈴が鳴るまでは。
「……そうか、そうだったな」
呼び鈴の音と使用人の声で、本来の予定を想い出す。
今日は、新たに雇うメイドの面接があったのだ。
少年は――すでに紳士としての振る舞いを身につけていた彼は、面接室への扉をくぐる。
「……!?」
そして、驚愕に顔をゆがめる。そんなことがあるはずがない、そう自分に問いかけるように。
そう、本来ならそんな光景があるはずがないのだ。
――同じ人間が二人、時をまたいで存在できるはずがないのだから。
だが、そこには確かに彼女がいた。
失ったはずの過去の幻影が、明確な形を持って。イメージと違うのは、メイド服を着用していないということだけ。
――今更にして、私服の彼女を始めて紳士は見たのだった。
紳士は、息をのむ。
まるで、あの時の再現を始めようかとする、不気味な現実の再構築に。
――ゆっくりと、少女が口を開く。
紳士が少年だった頃の、当時の声音そのままで。
「お久しぶりです、紳士様。わたしを雇う気は――ございませんか?」
微笑みを浮かべる少女の姿は、少年の想い出にある姿と、まったく同じものだった。
――この時、紳士は気づき、かつての少年は想い出してしまった。
――メイドが惑わせ、人形が誘う、道化だらけの舞台劇。
――その舞台劇の再現のみが、求めた『人形』の存在できる時間なのだということに。
ゆっくり、仮面の下で紳士は微笑む。
紳士の懊悩は、この時、氷解した……。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽
怪物と戦う者は
その過程で自分自身も
怪物になることのないように
気をつけなくてはならない。
深淵をのぞく時、
深淵もまたこちらをのぞいているのだ。
――フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』より――




