第九十八章 名前を見るな
『名前を見るな。』
その四文字だけだった。
透は、しばらく画面を見ていた。
女も何も言わない。
前のメッセージ。
『前の仕事が残っているなら、前の人間も残っていると思うな。』
そして今度は、
『名前を見るな。』
短い。
あまりにも短い。
だからこそ、意味を決めるのが難しかった。
「兄だと思う?」
女が聞いた。
透は首を横に振った。
「分からない。」
「でも、兄の言葉と似ている。」
「そう。」
「それでも?」
「似ていることと、兄が送ったことは別。」
女は画面を閉じた。
「じゃあ、このメッセージはどう扱う?」
「情報として残す。」
「信じる?」
「それは後。」
「疑う?」
「それも後。」
女は少し考えてから頷いた。
「まず、何が書いてあるかだけ。」
「うん。」
透は時刻を記録した。
前のメッセージから、二分しか経っていなかった。
送信元は表示されない。
返信もできない。
それだけだった。
「名前を見るな。」
透は小さく呟いた。
そして、昨日の記録を開いた。
J―3。
担当者個人情報管理。
そこには、担当者の氏名、所属、権限、在籍期間などが管理されている。
だが、業務記録との直接連結は禁止されている。
透は検索条件を入力した。
「N―05」
続いて、
「N―07」
そして、
「C―12」
検索結果が表示された。
J―3側の記録には、いくつかの参照履歴がある。
しかし、名前は表示されない。
代わりに、
「旧担当」
「交代後担当」
「確認権限者」
という区分だけが残っていた。
女が言った。
「名前がない。」
「うん。」
「でも、担当者がいたことは分かる。」
「そう。」
「誰だったかは分からない。」
「正確には、ここからは分からない。」
透は一つの記録を開いた。
「N―05」
「担当者交代――あり」
「交代前――登録済」
「交代後――登録済」
「氏名表示――不可」
女が言った。
「最初から名前を出さない。」
「そう。」
「それなら、『名前を見るな』というメッセージは、ここを知っている人なら思いつく。」
「可能性はある。」
「でも、知らない人でも言える。」
「そう。」
女は少し黙った。
「また、何も絞れない。」
透は笑わなかった。
「絞る必要がない。」
「今は?」
「今は、名前を見ないで何が分かるかを見る。」
透は画面を閉じた。
そして、別の欄を開いた。
「担当者交代履歴――詳細」
そこには、
「旧担当――権限区分A」
「新担当――権限区分A」
とだけあった。
女が言った。
「同じ。」
「うん。」
「担当者は変わっている。」
「そう。」
「でも権限区分は同じ。」
「そう。」
「だから、名前を見なければ、同じ人に見える。」
透は頷いた。
「逆に、名前だけを見ると、別の人間に見える。」
「当たり前じゃない?」
「でも、仕事の上では同じ権限を持っている。」
「つまり……」
女は少し考えた。
「名前が変わったから、仕事も変わったとは限らない。」
「そう。」
「名前が同じでも、担当者が変わることもある。」
「そう。」
女は画面を見た。
「じゃあ、名前は人を識別するための情報なのに、仕事を追うには邪魔になる場合がある。」
透は頷いた。
「そういう場合もある。」
「名前があることで、別人だと思ってしまう。」
「うん。」
「名前が残っていることで、同じ人間だと思ってしまう。」
「そう。」
女は少し笑った。
「名前って、便利なのに厄介。」
透も少し笑った。
「だから、名前を見るな。」
「そういう意味?」
「それも一つの解釈。」
「また。」
「まだ決められない。」
女は画面を見つめた。
すると、J―3の記録の下に、見慣れない項目があった。
「氏名表記継続履歴」
透が開く。
そこには、過去の業務記録で使われた名前の扱いが表示されていた。
「旧名称――継続表示」
「表示目的――過去記録との連続性」
「本人情報との照合――別管理」
女が言った。
「名前が残る。」
「うん。」
「でも、本人情報とは別。」
「そう。」
「だから、古い記録に名前が残っていても、その人が現在も担当しているとは限らない。」
「そう。」
透は一つの履歴を開いた。
「旧業務名――個人名称」
「統合後――業務名称」
女が眉を寄せた。
「また、個人名称から業務名称。」
「うん。」
「前にも見た。」
「そう。」
「じゃあ、昔は人の名前だったものが、後から仕事の名前として使われることもある。」
「可能性がある。」
「それなら……」
女は画面を指した。
「この名前は、人の名前なのか、仕事の名前なのか。」
透は答えなかった。
その記録には名前そのものが表示されていない。
ただ、
「名称使用区分――変更あり」
とだけ残っていた。
女が言った。
「名前を見るな、という意味が少し分かった。」
透は画面を見た。
「名前だけでは、種類が分からない。」
「人の名前。」
「業務名称。」
「窓口名称。」
「過去の名称。」
「現在の名称。」
「同じ文字列でも、使われ方が違う。」
透は頷いた。
「だから、名前を見つけたら、まず名前の意味を確認する必要がある。」
女はメモを取った。
「名称使用区分。」
「うん。」
「個人名称か。」
「業務名称か。」
「窓口名称か。」
「それとも、旧名称として残っているだけか。」
「そう。」
女はペンを止めた。
「じゃあ、兄が『名前を追うな。仕事を追え』と言ったのも、単純に人探しをするなという意味じゃなかったのかもしれない。」
「どういう意味?」
「名前の種類を間違えるな、という意味。」
透は少し考えた。
「その可能性はある。」
「でも、これも決められない。」
「うん。」
二人は黙った。
透は検索画面に戻った。
「氏名表記継続履歴」
その中に、
「名称変更理由」
という項目がある。
開く。
「業務統合」
「担当者交代」
「管理区分変更」
「旧記録保存」
四つの理由が並んでいた。
女が言った。
「担当者が変わっても名前が残る。」
「うん。」
「業務が統合されても残る。」
「うん。」
「管理区分が変わっても残る。」
「そう。」
「つまり、名前が残る理由はいくつもある。」
「そう。」
女は少し考えた。
「だから、名前が残っているという事実だけでは、何も決まらない。」
透は頷いた。
「名前は手掛かりにはなる。」
「でも、結論にはならない。」
「うん。」
そのとき、検索結果の一番下に、古い記録が一件だけ表示された。
「名称変更履歴――手動修正」
日付は、兄が南区へ入る三日前。
女が画面を見る。
「三日前。」
透も見た。
「誰が修正したの?」
「記録上は、修正担当――別管理。」
「また人が出てこない。」
「うん。」
「修正前の名称は?」
透は開いた。
しかし、そこには名前ではなく、
「旧名称A」
と表示されていた。
修正後も、
「新名称A」
だった。
女が言った。
「名前そのものを見せない。」
「そう。」
「でも、変更があったことは分かる。」
「うん。」
「何のために変更したかは?」
透は詳細を開いた。
「名称使用区分の整理。」
女が言った。
「それだけ?」
「それだけ。」
女は画面を見ながら考えた。
「三日前に名称の扱いを変えた。」
「そう。」
「三日後に兄の所在確認が記録された。」
「そう。」
「でも、これも同じ時期に行われた別の業務かもしれない。」
「うん。」
女は少し黙った。
「ここまで来ると、時間が近いものを全部つなげたくなる。」
「そうなる。」
「でも、つなげるには条件が足りない。」
「そう。」
「だから、今は『同じ時期に名称管理の変更があった』まで。」
透は頷いた。
「それで十分。」
女はメッセージをもう一度見た。
『名前を見るな。』
今度は、さっきとは少し違って見えた。
誰かを探すな。
という意味かもしれない。
名前だけで人を決めるな。
という意味かもしれない。
名前そのものを追うと、仕事の変化を見落とす。
という意味かもしれない。
あるいは、もっと別の意味かもしれない。
透は携帯電話を机に置いた。
「一つだけ分かった。」
「何?」
「このメッセージが誰から来たのかは、まだ分からない。」
「うん。」
「でも、書かれている内容は、今見ている記録と矛盾していない。」
女は頷いた。
「それなら、残しておく価値はある。」
「そう。」
透は最後に記録した。
「メッセージ内容――記録上の名称管理構造と整合。」
そして、その下に、
「送信者――不明」
と書いた。
二つを同じ欄に入れなかった。
それが、今の透にとっては重要だった。
内容が合っていること。
送信者が誰なのか。
その二つは、別の問題だった。
そして画面の奥には、まだ一つだけ開かれていない記録が残っていた。
「名称使用区分変更――詳細」
日付は、兄が南区へ入る三日前。
透はその項目を見た。
女も見た。
今度は、二人とも急いで開かなかった。




