第九十七章 前の人間
『前の仕事が残っているなら、前の人間も残っていると思うな。』
女の携帯電話に届いた一文を、透はもう一度読んだ。
「誰から?」
「分からない。」
「番号は?」
「表示されていない。」
「送信元を確認できる?」
女は画面を操作した。
「できない。」
透は黙った。
これまでにも、名前のないメッセージはあった。
しかし今回は、内容が違った。
兄が残した言葉と、あまりにも近い。
「兄が送った可能性は?」
「分からない。」
「最後に兄から連絡が来たのは?」
女は少し考えた。
「南区に入る前。」
「その後は?」
「ない。」
「この文章を、兄が書いたと思う?」
女はすぐには答えなかった。
「思いたい気持ちはある。」
透は黙って聞いていた。
「でも、思いたいことと、分かっていることは別。」
「うん。」
「だから、今は分からない。」
透は頷いた。
女はメッセージを保存した。
その後、画面を閉じる。
「それより。」
「うん。」
「この文章、今見ていた記録と一致しすぎている。」
「そうだね。」
「交代した人間を追うな。」
「仕事を追え。」
「その次に、前の仕事が残っていても前の人間が残っているとは限らない。」
「うん。」
女は椅子に座った。
「誰かが、今見ているものを知っている。」
透は答えなかった。
「そう考えるのは自然だと思う。」
「自然だけど、それも一つの仮説。」
「うん。」
「メッセージの内容が、こちらの調査を知っている人間にしか書けないとは限らない。」
「そう。」
「兄の言葉が外に残っていた可能性もある。」
「誰かが以前に聞いていた可能性もある。」
「あるいは、同じ仕組みを見れば、同じ結論にたどり着く人間が複数いるかもしれない。」
女は透を見た。
「そこまで考える?」
「考えておいた方がいい。」
「疑いすぎじゃない?」
「疑っているというより、決めていない。」
女は少し笑った。
「あなた、本当に変わったね。」
透は答えなかった。
以前なら、メッセージを見た瞬間に誰が送ったのかを考えていた。
兄か。
白石か。
あの男か。
あるいは、別の誰かか。
しかし今は、送信者を決める前に、メッセージそのものを記録として扱っていた。
透は携帯電話の画面を撮影した。
「送信日時も残して。」
女が確認する。
「午前十一時二十三分。」
「それも書いて。」
「うん。」
二人はメッセージを記録した。
その後、透は昨日の画面を再び開いた。
「交代前参照履歴」
「交代後参照履歴」
その二つを並べる。
前日。
「N―05」
「担当者交代確認」
当日。
「N―07」
「引継ぎ後確認」
翌日。
「N―07」
「旧担当情報確認」
女が言った。
「三日続いている。」
「うん。」
「でも、全部同じ案件とは限らない。」
「そう。」
「同じ業務の移管に関する処理だから、連続しているように見えるだけかもしれない。」
「そう。」
透は画面を拡大した。
「関連業務コード――N―07」
三つの記録すべてに同じコードがある。
しかし、その下には違う項目もあった。
一つ目。
「対象――担当者交代」
二つ目。
「対象――業務引継ぎ」
三つ目。
「対象――旧担当情報」
同じN―07でも、対象が違う。
女が言った。
「やっぱり番号だけでは足りない。」
「うん。」
透は一つ目の記録を開いた。
「N―05からN―07への移管確認。」
次に二つ目。
「N―07からC―12への引継ぎ確認。」
三つ目。
「旧担当情報の参照権限確認。」
女が言った。
「これ、全部同じ日にまとめて処理されたわけじゃない。」
「そう。」
「何日かに分かれている。」
「うん。」
「つまり、業務が一度で移ったわけじゃない。」
透は日付を確認した。
業務統合。
担当者交代。
引継ぎ。
旧担当情報確認。
それぞれ別の処理として記録されている。
「仕事が変わる。」
透が言った。
「そのたびに、別の確認が必要になる。」
「うん。」
「でも、人が変わったことと、業務が変わったことは別々に記録される。」
「だから、同じ日付の出来事を一つの出来事として扱うと間違える。」
「そう。」
女はメッセージを見た。
『前の仕事が残っているなら、前の人間も残っていると思うな。』
「この文章、少し変だね。」
「どこが?」
「普通なら、前の仕事が残っているなら、その仕事を知っている人も残っていると思いそう。」
「うん。」
「でも、この文章は逆。」
「前の仕事が残っていても、前の人間が残っているとは限らない。」
「そう。」
「つまり、仕事の継続から人間の継続を推測するな、という意味。」
透は頷いた。
「たぶん。」
「でも、誰がこんなことを送るの?」
「まだ分からない。」
「兄?」
「分からない。」
「兄を知っている人?」
「分からない。」
「この仕組みを知っている人?」
「それも分からない。」
女はため息をついた。
「全部分からない。」
透は少し笑った。
「でも、前よりは分からないことが具体的になった。」
女も笑った。
「それは確かに。」
透はメッセージの文章をもう一度見た。
そして、あることに気づいた。
「一つだけ。」
「何?」
「この文章には、N―07もC―12も書かれていない。」
女が黙った。
「管理コードを知らなくても成立する文章。」
「つまり、仕組みを知っている人間でなくても書ける。」
「そう。」
「逆に言えば、兄の言葉を知っているだけでも書ける。」
「うん。」
「だから、このメッセージから送信者を絞ることは難しい。」
女は頷いた。
「でも、送ってきた目的は?」
透は考えた。
「それも分からない。」
「警告?」
「可能性はある。」
「誘導?」
「可能性はある。」
「確認?」
「それもある。」
「じゃあ、メッセージそのものを信じることもできない。」
透は頷いた。
「文章が正しいかどうかと、送った人が何を望んでいるかは別。」
女は少し黙った。
「内容が本当でも、目的は別かもしれない。」
「そう。」
「逆に、目的が分からなくても、内容の一部は使える。」
「うん。」
透はメッセージを保存した。
その後、画面を閉じた。
「今は、文章から送信者を探さない。」
「じゃあ、何を見る?」
「記録。」
「また?」
「うん。」
透はN―05の移管記録を開いた。
その中に、
「統合前確認項目」
という欄があった。
開く。
「旧担当情報」
「旧処理履歴」
「未移管情報」
「旧参照権限」
その四つが並んでいる。
女が言った。
「これ……。」
「うん。」
「昨日見つけたものと同じ。」
「そう。」
「つまり、N―05からN―07へ移るときに、未移管情報も確認対象になっていた。」
「そう。」
「でも、未移管情報そのものは移されていない。」
「うん。」
「確認はした。」
「そう。」
「移管はしなかった。」
「そう。」
女は画面を見た。
「じゃあ、問題はここ。」
「どこ?」
「なぜ、移管しなかったのか。」
透は頷いた。
その理由を開く。
表示されたのは、
「新業務区分の処理目的と一致しないため」
だった。
女が言った。
「また、処理目的。」
「うん。」
「でも、これだけじゃ何が一致しなかったのか分からない。」
透は詳細欄を開いた。
そこには、さらに短い補足があった。
「旧担当者に関する情報は、業務継続情報として移管しない。」
透の指が止まった。
女も画面を見た。
「旧担当者。」
「うん。」
「じゃあ、未移管情報の一部は、やっぱり人に関する情報だった。」
「そう。」
「でも、旧担当者個人情報はJ―3で別管理。」
「うん。」
「つまり、業務記録から切り離して残した。」
「そう。」
女はしばらく黙った。
「それなら、兄が探していた『前の人間』は、業務記録の中には残っていない可能性がある。」
透は画面を見つめた。
「そうかもしれない。」
「だから、兄は仕事を追えと言った。」
「……そうかもしれない。」
「人の名前が消えていても、仕事の履歴は残る。」
「うん。」
「でも、その仕事から人間を逆算できるとは限らない。」
「そう。」
女は頷いた。
そして、しばらく考えてから言った。
「だったら、兄は最初から分かっていたのかもしれない。」
透は彼女を見た。
「何を?」
「人を探すことには限界があるって。」
透はすぐには答えなかった。
それは一つの解釈だった。
兄の言葉とは一致する。
だが、兄が本当にそう考えていたかは、まだ分からない。
透はメッセージの画面をもう一度開いた。
『前の仕事が残っているなら、前の人間も残っていると思うな。』
その文章の最後には、句点すらなかった。
ただ、それだけだった。
透は携帯電話を閉じた。
「次は、未移管になった旧担当情報が、どこに残っているのかを見る。」
女が頷いた。
「J―3?」
「うん。」
「でも、名前を探すためじゃない。」
「何を残しているのかを見る。」
女は頷いた。
「人ではなく、記録を見る。」
透も頷いた。
そのとき、女の携帯電話がもう一度震えた。
二人は同時に画面を見た。
今度のメッセージには、たった四文字だけが表示されていた。
『名前を見るな。』




