第八十六章 氏名表記
「参照された情報――氏名表記」
透は、その一行を見つめていた。
名前。
今まで何度も出てきたものだった。
N―07と一緒に残っていた名前。
二つの名前が並んでいた記録。
仕事上の名前。
引継ぎ後も変更しない名前。
そして、兄が残した言葉。
――名前を追うな。仕事を追え。
透は画面から目を離した。
「名前だけ参照した」
女が言った。
「うん」
「でも、名前そのものは表示されない」
「そう」
参照内容区分――一部情報。
参照項目――氏名表記。
参照結果――一致。
その三つだけが残っている。
「何と一致したの?」
女が尋ねた。
透は詳細欄を開いた。
そこには、
「照合先――既存業務記録」
とあった。
「また既存記録」
「うん」
「本人情報じゃない」
「そう」
女は少し考えた。
「つまり、Q―1―117の氏名表記と、別の業務記録に残っている氏名表記が一致した」
透は頷いた。
「でも、その名前を持つ人が同じ人物だとは書いてない」
「うん」
「名前が同じだっただけかもしれない」
「そう」
透は以前見た記録を思い出した。
同じN―07に、違う名前が付いていた。
逆に、別の業務で同じ名前が残っていることもあった。
名前は人を指すことがある。
しかし、記録の中では、名前がそのまま人そのものを意味しないこともある。
透はメモを開いた。
そこには以前、自分で書いた一文があった。
「名前=人ではない。」
女がその文字を見る。
「また出てきた」
「うん」
「でも今回は少し違う」
「何が?」
「名前が一致したこと自体は、記録上の事実」
透は頷いた。
「そうだね」
「だから、名前を無視する必要もない」
「うん」
「ただ、名前が一致した理由を確認する必要がある」
透はその言葉を書き留めた。
「一致したことと、同一人物であることを分ける。」
その下に、
「一致の条件を見る。」
と書いた。
二人は、氏名表記の照合条件を開いた。
表示された項目は一つだった。
「表記完全一致」
透は少し眉を寄せた。
「完全一致」
「同じ文字列だったということ?」
「たぶん」
「また、たぶん」
「この記録だけでは、それ以上分からない」
女は画面を見た。
「漢字の違いとか、読み方とかは?」
「記録にはない」
「旧字体は?」
「ない」
「通称は?」
「分からない」
女はため息をついた。
「名前一つでも、いろいろあるね」
透は答えなかった。
名前を入力すれば人が出てくる。
そんな単純な仕組みではない。
正式名称。
旧名称。
通称。
業務上の名称。
登録表記。
それぞれが同じ人を指すこともあれば、違う人が同じ表記を使うこともある。
そして記録システムが扱っているのは、あくまで登録された文字列なのかもしれない。
透は「照合先――既存業務記録」をもう一度開いた。
参照元番号が表示されている。
今度は、番号があった。
「R―3―124」
女が言った。
透は黙った。
以前見た記録だった。
照会区分――所在。
回答区分――本人申告。
回答結果――継続。
受付経路――既存記録。
そして、N―07。
「ここにつながるんだ」
女が言った。
「でも、まだ兄の記録じゃない」
「うん」
透はR―3―124を開いた。
さらに詳細を見る。
そこには、氏名表記についての項目があった。
「参照氏名――非表示」
「また非表示」
「うん」
「でも、Q―1―117と一致した」
「記録上は」
女は少し黙った。
「だったら、Q―1―117の名前とR―3―124の名前が同じだった」
「そう」
「それだけ?」
「今は、それだけ」
女は画面を見ながら言った。
「でも、前に二つの名前があった」
透も覚えていた。
一枚の古い紙。
二つの名前。
その横にN―07。
当時は、それが一人の人物の二つの名前なのか、二人の人物なのか、あるいは役割名と個人名なのか分からなかった。
「この氏名表記も、あの二つの名前のどちらかかもしれない」
女が言った。
「かもしれない」
「調べられない?」
「調べる方法はあるかもしれない」
透は検索欄を開いた。
氏名表記。
N―07。
R―3―124。
検索する。
結果がいくつか出た。
同じ名前が三件。
一件目――N―07。
二件目――別業務コード。
三件目――旧記録。
女は画面を見た。
「三件」
「うん」
「同じ名前が三つある」
「そう」
「じゃあ、この名前だけで人を特定するのは無理」
透は頷いた。
しかし、三件目に目が止まった。
「旧記録」
「どうした?」
「この記録だけ、N―07がない」
女が画面を覗く。
「本当だ」
「でも、名前は同じ」
「じゃあ……」
「まだ何も決まらない」
透が先に言った。
女は苦笑した。
「分かってる」
三件目の詳細を開く。
旧業務コード――N―05。
現在業務コード――N―07。
移管理由――業務再編。
担当変更――あり。
氏名表記――変更なし。
透はそこで止まった。
「氏名表記――変更なし」
女も読む。
「これ」
「うん」
「業務コードが変わっている」
「うん」
「担当も変わっている」
「うん」
「でも、名前の表記は変わっていない」
透は、兄が残した言葉を思い出した。
――引継ぎ後も変更しない。
あの言葉が、別の形で記録の中に現れていた。
しかし、それでも人は特定できない。
なぜなら、変更されなかったのが個人名なのか、業務上の名称なのか、この記録だけでは分からないからだ。
透は画面を閉じた。
「名前を追うな」
女が言った。
「うん」
「仕事を追え」
「でも、名前が仕事に残ることがある」
透は頷いた。
「だから、名前を捨てるんじゃない」
「どうする?」
「名前が、何として残っているのかを見る」
女は少し黙った。
「人の名前なのか」
「うん」
「役割の名前なのか」
「うん」
「業務上の名称なのか」
「うん」
「それとも、ただの登録文字列なのか」
透は頷いた。
「そこを分ける」
二人は検索結果を並べた。
同じ氏名表記。
異なる業務コード。
異なる記録。
一つはN―07。
一つは別業務。
一つはN―05からN―07への業務再編。
どれも同じ名前を持っている。
しかし、同じ人物であることを示す共通情報はない。
透は、その三件を写真に残した。
そして、最後に一つだけ新しい検索条件を入力した。
「氏名表記――一致」
「業務コード――N―07」
「移管記録――あり」
検索結果が表示される。
一件。
透は画面を見た。
「これ……」
女が近づいた。
そこには、
「名称継続記録」
と表示されていた。
対象名称――非表示。
旧業務――N―05。
新業務――N―07。
名称変更――なし。
使用目的――窓口処理。
引継ぎ時の名称――継続使用。
女はしばらく画面を見ていた。
「窓口処理」
透は頷いた。
「人じゃない可能性が出てきた」
「可能性?」
「名前が、窓口そのものの名称かもしれない」
「それなら、二つの名前も……」
「役割名だった可能性がある」
女は黙った。
以前見つけた「二つの名前」が、少し違って見えてきた。
二人の人物ではなく、
旧名称と新名称。
個人名と業務名。
あるいは、別の種類の名前。
まだ分からない。
しかし、一つだけ変わったことがある。
「名前が同じだった」
という事実だけでは、もう何も決められない。
透は画面の端にある「名称継続理由」を開いた。
そこには短い一文があった。
「利用者の混乱を避けるため、担当者交代後も名称を変更しない。」
女がそれを読んだ。
「担当者が変わっても、名前は残る」
「うん」
「だから、名前が残っているからといって、同じ人がいるとは限らない」
「そう」
透はしばらく黙っていた。
そして、ふと顔を上げた。
「兄が言っていたことと、かなり近い」
女も頷いた。
「でも、やっぱり証拠にはならない」
「うん」
二人はその言葉を確認するように、もう一度頷いた。
そのとき、画面の下に別の項目が現れた。
「名称継続記録――参照履歴」
透が開く。
一件だけだった。
参照日――兄が南区へ入る前日。
参照目的――業務引継ぎ確認。
参照者コード――M―2―A。
そして、参照対象――名称継続記録。
透は画面を見つめた。
女も何も言わなかった。
前日。
N―07。
M―2―A。
名称継続。
兄が南区へ入る前日に、この記録が参照されていた。
だが、それが兄の行動と関係しているとは、まだ言えない。
透は画面を閉じずに言った。
「次は、名前じゃない」
「何を見る?」
「この名称継続記録が、なぜその日に参照されたのか」
女は頷いた。
その下には、
「参照理由詳細」
という項目があった。
透は、それを開いた。




