第八章 伝言
暗闇の中で、透は息を殺していた。
扉の向こうにいる男は、もう一度、名前を呼ばなかった。
ただ、そこに立っている。
女も動かない。
部屋の中には、時計の小さな音だけが響いていた。
「白石さんから、何を?」
透は思わず声を出した。
女が振り返る。
だが、もう遅かった。
扉の向こうから、男が答える。
「直接、本人に伝えろと言われた」
「……何をですか?」
「戻ってこい」
短い言葉だった。
透は黙った。
それだけなら、何もおかしくない。
勝手に南区へ入ったのだから、白石が心配している。
そう考えることもできる。
しかし、男は続けた。
「そして、これ以上調べるな」
透の胸がざわついた。
女が小さく首を振る。
声を出すな、という意味だった。
透は口を閉じた。
「朝倉透」
男が言う。
「君が何を見つけたのか、白石は知っている」
透は目を見開いた。
まだ何も見つけていない。
そう思っていた。
少なくとも、自分では。
男は続けた。
「いや。正確には、君が何を見つける可能性があるのかを知っている」
「……どういう意味ですか?」
「それは、私には分からない」
透は眉を寄せた。
「分からない?」
「ああ」
男はあっさり答えた。
「私は伝言を預かっただけだ」
その言葉に、透は奇妙な感覚を覚えた。
この男も知らない。
白石も全部を知っているわけではない。
南区にいる女も知らない。
では、誰が知っている?
その疑問が浮かんだ瞬間。
廊下の奥で、別の音がした。
今度は足音ではない。
何か重いものが落ちた音。
男が扉から離れる。
「……来たか」
男が呟いた。
女が透を見る。
「今のうちに」
「どこへ?」
「裏口」
女は机の下から小さなカードを取り出した。
透に渡す。
「この先に、別の通路がある」
「でも、あなたは?」
「私は残る」
「危険じゃ――」
「危険だよ」
女は即答した。
「でも、私には探している人がいる」
透は何も言えなかった。
女は扉を開ける。
廊下には誰もいない。
さっきまで立っていた男も、消えていた。
透は女の後についていく。
数メートル進んだところで、女が立ち止まった。
「一つだけ聞いていい?」
「……何?」
「あなたは、本当に白石恒一を信じてる?」
透は答えられなかった。
以前なら、迷わず答えただろう。
今は違う。
「……分からない」
それが、今の透に言える唯一の言葉だった。
女はそれ以上聞かなかった。
古い壁の一部を押す。
小さな扉が開いた。
「ここから出られる」
「あなたは?」
「私は戻る」
透は一度だけ振り返った。
「ありがとう」
女は頷いた。
透は暗い通路へ入った。
扉が閉じる。
しばらく歩くと、前方に弱い光が見えた。
出口だった。
透は光の中へ出た。
そこは、南区の外側だった。
しかし、居住区へ戻る道ではない。
古い物流用の地下通路。
壁には、消えかけた文字が残っていた。
第七居住棟――第三区画物流管理室
透は立ち止まった。
管理室。
そんな場所があるなら、南区第七居住棟は単なる廃棄施設ではない。
そのとき、端末が振動した。
通信が戻っている。
画面を見る。
新しいメッセージが一件。
送り主は表示されていない。
文章は短かった。
――「白石を疑う必要はない。」
透は画面を見つめた。
数秒後。
もう一通届いた。
――「彼は、君を守ろうとしている。」
透の指が止まる。
さらに、その下に三通目が表示された。
――「ただし、彼が何から君を守っているのかは、まだ誰にも分からない。」
透は、しばらく動かなかった。
やがて端末をポケットにしまう。
今までなら、白石に連絡していただろう。
何が起きているのか聞いただろう。
答えを求めただろう。
けれど、今日はしなかった。
透は地上への階段を見上げた。
自分でも理由は分からない。
ただ一つだけ。
誰かの言葉だけで、次の行動を決めることをやめようと思った。
それが正しいのかどうかも、まだ分からなかった。
階段を上る。
地上に出ると、遠くに居住区の明かりが見えた。
その明かりは、いつもと同じだった。
だからこそ、透には少しだけ違って見えた。




