第七十五章 引継ぎの中身
「引継ぎ。」
透は、画面に残った二つの文字を見つめていた。
「誰が、何を、どこへ移したのか」
口に出してみても、答えにはならなかった。
むしろ、前より分からなくなった。
これまで見てきた記録には、必ず何らかの名前があった。
担当者名。
確認者コード。
対象者番号。
あるいは、業務コード。
けれど、今回の記録には、人間を直接指しているように見えるものが少なかった。
「C―12って……」
透が言った。
「移管先ですよね」
女性は画面を見たまま答えた。
「たぶん」
「たぶん?」
「今までの記録を見る限りでは、そう読める」
彼女は少し間を置いた。
「でも、移管先という言葉だけでは、それが何を意味するのか分からない」
「管理場所ではない?」
「そうとは限らない」
また、その言葉だった。
透は苦笑した。
「最近、そればかりですね」
「仕方ないでしょう」
女性は淡々と言った。
「分からないものを、分かったことにして進むよりはいい」
透は何も言わなかった。
その考え方には、もう慣れ始めていた。
分からない。
だから止まる。
止まるから、次の記録を探せる。
それだけだった。
彼女が別の画面を開いた。
検索欄に、
「引継ぎ確認」
と入力する。
該当する記録がいくつか表示された。
その中に、日付の近いものがあった。
「これ」
彼女が指を止めた。
記録番号。
受付日。
旧業務コード。
新業務コード。
確認区分。
参照権限。
確認結果。
そして、その下に小さな項目があった。
「個人情報移管」
透は読む。
「対象外」
「……対象外?」
「そう」
「じゃあ、何を引き継いだんですか」
女性はすぐには答えなかった。
もう一度、画面を上から確認する。
「業務」
「人じゃなくて?」
「この記録だけを見るなら、そう」
透は画面を見た。
旧業務コード――N―07。
新業務コード――C―12。
確認区分――業務継続確認。
参照権限――K―14。
確認結果――完了。
個人情報移管――対象外。
それだけだった。
「これ……」
透が言った。
「三日前の記録と、かなり近いですね」
「うん」
「K―14もある」
「ある」
「N―07もある」
「ある」
「C―12もある」
「ある」
二人とも黙った。
一致している。
しかし、それが何を意味するのかは分からない。
透は画面を指した。
「これが兄の記録と関係している可能性は?」
女性はしばらく考えた。
「可能性はある」
「でも、本人とは限らない」
「そう」
「業務の引継ぎかもしれない」
「そう」
「誰かの情報を引き継いだわけではないかもしれない」
「その可能性もある」
透は椅子にもたれた。
以前なら、ここで一つの答えを作っていた。
N―07がある。
K―14がある。
C―12へ移管されている。
日付も近い。
ならば、兄に関係している。
そう考えてしまっていた。
今は違った。
一致していることと、同じことであることは違う。
似ていることと、繋がっていることも違う。
「個人情報移管――対象外」
透はその項目をもう一度見た。
「じゃあ、兄の情報はどこにあるんでしょう」
女性は画面を閉じなかった。
「それを探すには、この記録では足りない」
「別の記録?」
「たぶん」
「どこに?」
「分からない」
その返事は、妙に自然だった。
二人とも、もう「分からない」という言葉に驚かなかった。
女性が画面を下へスクロールした。
一番下に、小さな注記があった。
「引継ぎ対象外情報については、原記録管理区分を参照」
透が読み上げる。
「原記録管理区分……」
「それだね」
女性が言った。
「P―4?」
透はすぐに思い出した。
P―4。
個人別照会履歴。
P―4―003。
本人確認済。
K―14。
本人申告。
そして、現在の対応番号が空欄になっていた記録。
「でも」
透は言った。
「P―4が個人情報そのものを保管しているとは限らない」
女性が頷いた。
「そう」
「照会履歴の管理区分であって、原記録そのものではない」
「そう」
「じゃあ、原記録管理区分って何ですか」
女性は少し黙った。
「そこまでは、まだ出ていない」
画面の端に、参照先を示す番号があった。
ただし、番号の一部は伏せられている。
「参照先コード」
透が言った。
「見られない?」
「権限が違うのかもしれない」
「K―14では?」
「分からない」
「また?」
「また」
彼女は少し笑った。
透も笑った。
笑えるような話ではなかったが、二人とも緊張していることは分かっていた。
しばらくして、女性が紙の資料を一枚取り出した。
古いコピーだった。
端が少し黄ばんでいる。
そこには手書きの文字があった。
「これ、兄のもの?」
透が聞いた。
「分からない」
「じゃあ、何の資料?」
「兄が残していたもの」
彼女は紙を机の上に置いた。
そこには短い文章だけが書かれていた。
『引継ぎを見るなら、受け取ったものを見るな。』
その下に、少し間を空けて、
『受け取らなかったものを見ろ。』
とある。
透は黙って読んだ。
「どういう意味でしょう」
女性は答えなかった。
透は紙を裏返した。
何もない。
もう一度表を見る。
「個人情報移管――対象外」
さっきの画面が頭に浮かんだ。
「まさか……」
女性が顔を上げた。
「何?」
「いや」
透は言葉を止めた。
まだ、言うには早かった。
兄がこの記録を見ていた。
そう考える根拠はない。
兄がこの仕組みを理解していた。
それも分からない。
ただ、
「受け取らなかったもの」
という言葉と、
「個人情報移管――対象外」
という記録が近くにある。
それだけだった。
透は紙を机に戻した。
「一つだけ、確認したいです」
「何?」
「引継ぎって、全部を引き継ぐものじゃないんですか」
女性は画面を見た。
「普通は、業務を続けるために必要なものを引き継ぐ」
「必要じゃないものは?」
「残す場合もある」
「残さない場合も?」
「あると思う」
「誰が決めるんですか」
女性は少し考えた。
「それも、業務による」
透は頷いた。
また一つ、線が分かれた。
人。
仕事。
記録。
そして、引継ぎ。
それぞれが同じ場所を通っているように見えて、実際には別々の経路を持っている。
透は画面のN―07を見た。
「N―07が残った」
「うん」
「C―12へ移った」
「うん」
「でも、個人情報は移管対象外」
「うん」
「ということは」
透はそこで止まった。
女性を見る。
「N―07が残っているからといって、そこにいた人間まで残っているとは限らない」
女性は答えなかった。
ただ、静かに頷いた。
そのときだった。
画面の下に、まだ開いていない参照項目があることに気づいた。
「関連記録」
透が指を差した。
「これ、見てないですよね」
女性が画面を確認した。
小さな文字で、
「個人情報移管対象外案件については、別申請による照会を要する」
と書かれている。
その横に、申請区分があった。
「P―系統」
透の目が止まった。
P―4とは書かれていない。
ただ、
P―系統。
女性も気づいた。
「P―4だけじゃない」
「そうですね」
「P―系統の中に、別の区分がある」
透は画面を拡大した。
その瞬間、参照番号の一部が見えた。
「……003」
女性が息を止めた。
透も何も言わなかった。
P―4―003。
それと同じ数字。
だが、同じなのは数字だけだった。
管理区分も違う。
記録番号も違う。
日付もまだ確認できない。
「同じもの?」
女性が聞いた。
透は首を横に振った。
「分かりません」
少し間を置いてから、
「でも、確認する価値はあると思います」
そう言った。
女性は画面を閉じなかった。
二人の前に残ったのは、
P―4―003。
という一つの番号だった。
そして、その番号が示しているのが、
一人の人間なのか。
一つの記録なのか。
それとも、ただ同じ数字を持った別の処理なのか。
まだ、誰にも分からなかった。




