第五百八十八章 返事
「私――」
電話の向こうで、彼女が一度息を吸った。
透は何も言わずに待った。
「……やってみてもいいよ」
「本当に?」
「うん」
「無理してない?」
「してないよ」
少し笑う声が聞こえた。
「ただし、条件がある」
「何?」
「私を勝手に変な人にしないこと」
透は思わず笑った。
「分かった」
「それから、何を聞かれても全部私に任せないこと」
「それも分かった」
「あと――」
「まだある?」
「ある」
彼女は少し間を置いた。
「私のことを、ちゃんと一人の人間として扱って」
透は黙った。
「それは当たり前じゃない?」
「そう思うなら大丈夫」
電話の向こうで、また笑った。
透も笑った。
「ありがとう」
「まだ何もしてないよ」
「それでも、ありがとう」
「じゃあ、いつ会う?」
透は少し考えた。
「今日の夜は?」
「急だね」
「親が待ってる」
「もう話したの?」
「少しだけ」
「早いなあ」
彼女は呆れたように言った。
「じゃあ、夕方でいい?」
「うん」
「場所は?」
透は近所の店を一つ挙げた。
彼女も知っている場所だった。
電話を切ったあと、透は廊下に戻った。
母親が待っていた。
「誰だったの?」
「昨日話してた人」
「女の人?」
「うん」
母親の顔が明るくなった。
「今日、来るの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「夕方に会うことになった」
「じゃあ、家に連れてくればいいじゃない」
透は少し困った。
「今日は外で会うだけ」
「なんで?」
「いきなり家は緊張するだろ」
母親は少し考えた。
「まあ、そうね」
父親も新聞をたたんだ。
「相手が嫌がるなら無理に連れてくる必要はない」
透は父親を見る。
意外だった。
父親は続けた。
「結婚するのはお前たちなんだからな」
透は少し黙った。
「分かった」
それだけ答えた。
夕方。
約束した時間より少し早く、透は店の前に着いた。
周囲を見回す。
人が多い。
仕事帰りの人。
学生。
買い物をしている人。
その中に、彼女の姿が見えた。
「待った?」
「今来たところ」
「嘘」
「少しだけ」
「やっぱり」
彼女は笑った。
二人は店に入った。
席に座る。
しばらく、普通の話をした。
仕事のこと。
最近見たニュース。
近所の店のこと。
どれも、特別な話ではなかった。
やがて、彼女が言った。
「それで、私たちって、どういう設定なの?」
透は考えた。
「知り合ってから、しばらく付き合ってる」
「それだけ?」
「それ以上いる?」
「例えば、どこで知り合ったとか」
「……仕事関係」
「それ、親に聞かれたら?」
「そのとき考える」
彼女は笑った。
「やっぱり透は適当だね」
「嘘をつくのは苦手だから」
「それなのに、彼女のふりを頼むんだ」
「だから困ってる」
彼女は少しだけ透を見た。
「変なの」
「そうかも」
二人は笑った。
外が暗くなり始めていた。
店を出ると、冷たい風が吹いていた。
彼女が言った。
「じゃあ、行こうか」
「どこへ?」
「家」
透は一瞬、言葉を失った。
彼女は笑った。
「親に会うんでしょ?」
「……うん」
二人は並んで歩き始めた。
その先に、透の家がある。
昔の故郷でもない。
塔へ戻る道でもない。
ただ、今日まで暮らしてきた場所だった。
透は隣を歩く彼女を見た。
何か特別なことを思ったわけではない。
ただ、この道を誰かと一緒に歩いている。
それだけだった。




