第五百八十七章 返事の前に
電話の向こうは、まだ静かだった。
透も何も言わなかった。
先に沈黙を破ったのは、彼女だった。
「本当に、私でいいの?」
「うん」
「理由は?」
透は少し考えた。
「一番、説明しなくていいから」
「それ、どういう意味?」
「変な意味じゃない」
「分かってる」
彼女は笑った。
「でも、もう少しちゃんと説明して」
透は椅子から立ち上がった。
部屋の中をゆっくり歩く。
「親には、昔からいろいろ言われてるんだ」
「結婚しろって?」
「そう」
「それで、適当に相手がいることにしたい?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「自分でも、よく分からない」
彼女は少し黙った。
「じゃあ、私が彼女のふりをしたら、どうするの?」
「たぶん、親が安心する」
「それだけ?」
「それだけだと思う」
「思う?」
「……それ以上は考えてない」
彼女はまた笑った。
「透らしいね」
「そう?」
「うん」
透は窓の外を見た。
夜の街は、いつもと変わらなかった。
「嫌なら、断っていいから」
「分かってる」
「無理に頼むつもりはない」
「それも分かってる」
少し間があった。
「じゃあ、考えておく」
「うん」
「明日までに返事する」
「分かった」
そこで電話が終わった。
透は携帯電話を机に置いた。
思ったよりも疲れていた。
別に大きな問題ではない。
それなのに、妙に気を使った。
椅子に座る。
しばらく何もせず、天井を見た。
昔のことを考えようとした。
塔にいた頃のこと。
最初に人間の世界へ来た日のこと。
失った記憶。
人間として生きた時間。
一度終わった人生。
そして、再び始まった今の生活。
けれど、そのどれも長く考えなかった。
以前なら、過去を一つずつ繋げようとしていた。
今は違った。
過去は過去として残っている。
全部を一つの答えにまとめる必要はない。
透は携帯電話を手に取った。
塔との最後の通信を開く。
『元気か』
『元気です』
『それならいい』
それだけのやり取りだった。
透は画面を閉じた。
もう一度、彼女との通話履歴を見る。
こちらも、まだ何も決まっていない。
透は携帯電話を伏せた。
「明日か」
小さく呟く。
翌朝。
朝食の席で、母親が言った。
「昨日の話、考えてくれた?」
透は味噌汁を飲みながら答えた。
「何の話?」
「結婚」
「まだ考えてる」
父親が新聞から顔を上げた。
「考えるだけじゃ何も進まないぞ」
「分かってる」
「誰かいるなら、連れてくればいい」
透は箸を止めた。
「……いるかもしれない」
母親の表情が変わった。
「本当に?」
「まだ決まってない」
「どんな人?」
「普通の人」
「それじゃ分からないよ」
透は少し笑った。
「会えば分かるよ」
母親は何か言おうとした。
しかし、透の携帯電話が鳴った。
画面を見る。
昨日電話した彼女からだった。
透は少し迷った。
それから立ち上がる。
「ちょっと出てくる」
「誰?」
「……昨日話してた人」
母親が驚いた顔をする。
透はそのまま部屋を出た。
廊下で電話に出る。
「もしもし」
「おはよう」
「おはよう」
「昨日の話だけど」
透は黙って聞いた。
彼女が何を言うのか。
まだ分からない。
「私――」
そこで、声が止まった。




