第五百八十六章 頼みごと
呼び出し音が鳴った。
一度。
二度。
三度。
透は、切ろうかと思った。
その直前に、電話がつながった。
「もしもし?」
聞き慣れた声だった。
「今、大丈夫?」
「うん。どうしたの?」
透は少し黙った。
何から話せばいいのか分からなかった。
「……ちょっと、頼みたいことがある」
「珍しいね」
彼女は笑った。
「何?」
「たいしたことじゃない」
「じゃあ、言ってみて」
透は椅子の背にもたれた。
さっきまでなら、簡単に説明できると思っていた。
けれど、いざ口にしようとすると、妙に言いにくい。
「……親がさ」
「うん」
「最近、結婚しろって言ってくる」
電話の向こうで、少し間があった。
「それで?」
「それで……」
透は窓の外を見た。
街の明かりが、いくつも並んでいる。
昔、塔にいた頃には見たことのなかった景色だった。
今では、それを見ながら電話をしている。
「しばらく、俺の彼女のふりをしてくれない?」
沈黙した。
透は少しだけ目を閉じた。
自分でも、変な頼みだと思っていた。
「……彼女のふり?」
「うん」
「なんで私?」
「他に頼める人が思いつかなかった」
「それ、褒めてる?」
「分からない」
「そこは、褒めてるって言うところじゃない?」
透は少し笑った。
「そうかもしれない」
また、沈黙があった。
今度は長かった。
透は急かさなかった。
断られても仕方がないと思っていた。
これは自分の都合でしかない。
親を安心させるために、他人に嘘をついてもらおうとしている。
そんなことを頼むのだから、断られて当然だった。
やがて、電話の向こうから声がした。
「透」
「うん」
「その嘘、いつまで続ければいいの?」
透は少し考えた。
「……親が飽きるまで」
彼女が笑った。
透も笑った。
二人の間に、しばらく静かな時間が流れた。
窓の外では、車が一台通り過ぎていった。
透は携帯電話を持ったまま、何も言わなかった。
塔からの連絡は、もう長いこと来ていない。
それでも、透は寂しいとは思わなかった。
遠い場所にあるものは、遠いままでいい。
今、自分がいる場所には、自分の生活がある。
その生活の中には、こういう面倒なこともある。
家族の心配。
結婚の話。
仕事。
人との付き合い。
そして、ときどき誰かにつく小さな嘘。
透は電話の向こうの返事を待った。
まだ、答えは聞いていない。
それでも、電話を切る理由もなかった。




