第五百八十五章 家の電話
その後、塔からの連絡はさらに少なくなった。
一か月に一度。
二か月に一度。
それでも、連絡が来れば透は返信した。
内容はいつも短かった。
研究の進展。
設備の状況。
新しい材料についての報告。
ときどき、互いの生活について一言だけ書かれていることもあった。
『こちらは問題ない』
『こちらも順調です』
それで十分だった。
やがて、連絡がない期間が長くなった。
半年ほど経っても、何も届かなかった。
透は一度だけ、塔のことを思い出した。
昔なら、少し不安になっていたかもしれない。
今は、携帯電話を確認したあと、そのまま仕事に戻った。
塔側にも生活がある。
研究も続いている。
家族もいる。
自分だけが時間を止めて待つ必要はない。
そう思った。
その日の夕方、透は家に帰った。
玄関を開ける。
「ただいま」
返事はなかった。
両親は別の部屋にいるらしい。
透は靴を脱ぎ、荷物を置いた。
しばらくして、母親が顔を出した。
「帰ったの?」
「うん」
「ご飯、もう少しでできるよ」
「分かった」
それだけの会話だった。
食事をしていると、父親が突然言った。
「お前、最近いくつになった?」
透は箸を止めた。
「急にどうしたの?」
「いや」
父親は少し考えた。
「もう、そんなに若くないだろ」
母親が横から口を挟む。
「前から言ってるけど、そろそろ考えたほうがいいんじゃない?」
「何を?」
「結婚」
透は黙った。
父親は味噌汁を飲んでから言った。
「仕事も落ち着いてるんだろ」
「まあ」
「だったら、相手を探してもいいだろ」
「探してないわけじゃないよ」
透は適当に答えた。
母親が顔を上げる。
「いるの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、いないの?」
「……今はいない」
母親は少し黙った。
それから、ため息をついた。
「お前は昔から、自分のことをあまり話さないからね」
透は何も言わなかった。
塔のことを話すことはできる。
けれど、それを話したところで、この二人には関係のない話だった。
昔、自分がどこから来たのか。
どこへ帰れるのか。
何を失ったのか。
そんなことを説明する必要はない。
今、この家で一緒に食事をしている。
それだけで十分だった。
食事が終わったあと、透は自分の部屋に戻った。
机の上に携帯電話を置く。
画面には、しばらく前に届いた塔からの最後の連絡が残っていた。
『元気か』
透はその文章をしばらく見た。
返信はもう済んでいる。
それ以上、何もする必要はない。
画面を閉じた。
すると、別のことを思い出した。
以前、何度か話をした女性のことだった。
仕事で知り合った。
その後も、ときどき連絡を取っている。
特別な約束があるわけではない。
恋人でもない。
それでも、困ったときに話せる相手ではあった。
透は携帯電話を手に取った。
連絡先を開く。
名前を見つける。
指が一度、止まった。
そして、まだ電話はかけなかった。
両親の言葉が頭に残っている。
「結婚」
その言葉だけが、妙に重かった。
透は椅子に座った。
しばらく考えてから、携帯電話を机に置いた。
今日はもう遅い。
明日にしよう。
そう思った。
窓の外では、街の明かりが静かに揺れていた。
塔からの通信は、まだ来ない。
透も、それを待ってはいなかった。
その代わりに、明日のことを考えていた。
明日は仕事がある。
帰れば、また家族と食事をする。
そして、そのときにまた同じ話をされるかもしれない。
透は小さく息を吐いた。
「面倒だな」
誰もいない部屋で、そう呟いた。
それから携帯電話を手に取った。
連絡先の名前を、もう一度見た。
今度は、指を止めなかった。




