第五百八十三章 帰らない理由
朝の仕事を終えたあと、透は一人で外に出た。
空は薄く曇っていた。
最近、昔のことを考える時間が増えている。
塔にいた頃。
人類世界へ来た日。
記憶を失ったあとに過ごした時間。
そして、塔と再会した日。
それぞれが別々の人生のようにも思える。
けれど、どれも自分だった。
透は歩きながら、ふと足を止めた。
帰る理由なら、いくらでもある。
塔は故郷だった。
家族がいる。
自分を知っている人もいる。
自分が何者だったのかを理解している人もいる。
そして今なら、帰るための手段もある。
それなのに、自分は帰らなかった。
透はそのことを考えた。
なぜなのか。
これまで、はっきりと言葉にしたことはなかった。
人類世界が好きだから。
そう言い切ることもできない。
ここで苦しいこともあった。
嫌なこともあった。
失ったものもある。
塔の方が暮らしやすかったのかもしれない。
それでも、帰らなかった。
透は近くのベンチに座った。
しばらく人の流れを眺める。
子どもが走っている。
誰かが電話をしている。
店の前で店員が荷物を運んでいる。
特別な光景ではない。
けれど、透はそれを見ていた。
人間として生きていた時間の中には、こういう光景が何度もあった。
記憶を失っていた頃は、それが世界のすべてだった。
塔のことを知らなかった。
自分がどこから来たのかも知らなかった。
それでも、朝になれば起きた。
誰かと話した。
仕事をした。
疲れて帰った。
誰かと食事をした。
そうして一日が終わった。
その積み重ねが、自分の人生になっていた。
記憶が戻ったからといって、それをなかったことにはできない。
透は携帯電話を取り出した。
塔から新しい通信が届いていた。
『こちらでは、出発した日の記録を整理している』
透は少し笑った。
『ありがとう』
短く返信する。
しばらくして、もう一つ届いた。
『戻ってくる場所はある』
透は画面を見た。
その言葉の意味を考える。
帰ってくる場所。
それは、確かにある。
透は返信を書きかけて、やめた。
代わりに携帯電話をしまった。
帰る場所があることと、帰らなければならないことは違う。
それだけだった。
夕方になった。
透は立ち上がる。
帰る時間だった。
歩き出したところで、携帯電話が鳴った。
「もしもし」
「今どこ?」
聞き慣れた声だった。
「もうすぐ帰る」
「じゃあ、待ってる」
「うん」
通話が切れる。
透は少しだけ笑った。
それから、歩く速度を速めた。
帰る場所について考えていたはずなのに。
最後に向かっているのは、いつもの場所だった。
透はそれを特別なことだとは思わなかった。
ただ、今日もそこへ帰る。
それだけだった。




