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嘘の向こう側  作者: 亀


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第五百八十二章 出発した日のこと

その夜、透はなかなか眠れなかった。


昼間に見た記録が、何度も頭に浮かんでいた。


自分が塔を出発した日。


それだけのことだった。


けれど、今の透にとっては、それが少し気になっていた。


携帯電話を手に取る。


塔から届いた記録を開いた。


短い文章だった。


出発時刻。


使用した経路。


任務の目的。


そして、最後に一行だけ、簡単な記述があった。


『帰還予定――調査終了後』


透はその一行をしばらく見ていた。


当たり前のことだった。


任務が終われば帰る。


当時は、それ以外の可能性など考えていなかった。


透は携帯電話を置いた。


目を閉じる。


すると、昔の光景が少しずつ浮かんできた。


出発する朝。


荷物をまとめていた。


必要なものだけを持っていた。


家族の一人が入口まで来ていた。


「忘れ物はないか?」


「大丈夫」


「本当に?」


「大丈夫だよ」


そのときの自分は、少し笑っていた。


今なら分かる。


あの頃の自分は、帰ることを疑っていなかった。


だから、別れを惜しむこともしなかった。


また会えると思っていた。


それが普通だった。


外へ出る。


見慣れた塔の通路を歩く。


途中で何人かとすれ違った。


「気をつけて」


「ありがとう」


「戻ったら話を聞かせてくれ」


「分かった」


そんな言葉を交わした。


それだけだった。


大きな別れではない。


誰も泣かなかった。


誰も、自分が長い間戻らなくなるとは思っていなかった。


透は目を開けた。


部屋は暗かった。


時計を見る。


まだ夜中だった。


「……そうだったな」


小さく呟く。


もしあの日、誰かが「これが最後になる」と言っていたら。


自分は何か違うことをしただろうか。


家族ともっと話しただろうか。


もっと長く塔を見ただろうか。


それとも、結局同じように出発しただろうか。


分からなかった。


過去は、やり直せない。


だからこそ、あの日の自分が何を考えていたのかを想像するしかない。


透はもう一度、記録を開いた。


出発時刻の横には、短い注記があった。


『本人は平静』


透は少し笑った。


「平静、か」


確かにそうだった。


怖くなかった。


不安でもなかった。


ただ、任務へ行くだけだと思っていた。


そのまま眠りについた。


翌朝。


目を覚ますと、昨日までと同じ朝だった。


透は起き上がった。


窓を開ける。


外は明るかった。


遠くに人の声が聞こえる。


透はしばらく窓辺に立っていた。


あの日の自分は、帰るつもりで出ていった。


そして今の自分は、帰らずにここにいる。


その違いを考えても、答えは出なかった。


ただ一つだけ、確かなことがある。


あの日の自分が間違っていたわけではない。


今の自分が裏切ったわけでもない。


時間が変わった。


自分も変わった。


それだけだった。


透は窓を閉めた。


今日も一日が始まる。


昔の出発の日とは違う。


けれど、また歩き始めるという意味では、少し似ていた。

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