第五百八十一章 古い名前
ある日の午後、透は研究施設から呼び出された。
特別な用件ではなかった。
以前の記録について、いくつか確認したいことがあるという。
透が施設に入ると、若い研究員が一枚の資料を持って待っていた。
「これを見てもらえますか」
透は資料を受け取った。
そこには、古い研究記録の一部が印刷されていた。
日付はかなり古い。
名前の欄には、今では使われていない形式の名前が並んでいる。
その中に、透は見覚えのある名前を見つけた。
しばらく動かなかった。
「知っていますか?」
研究員が聞いた。
「……知っています」
「誰ですか?」
透は答えなかった。
その名前は、昔の自分を知っていた人のものだった。
塔へ行く前。
人類世界へ来る前。
まだ、自分が自分のことを疑ったこともなかった頃。
「昔の知り合いです」
透はそれだけ言った。
研究員はそれ以上聞かなかった。
資料を受け取る。
「この記録、どう扱えばいいでしょう」
「そのまま残してください」
「訂正しなくていいんですか?」
「何を訂正するんですか?」
研究員は少し考えた。
「古い記録には、間違っているところもあります」
「そうですね」
「でも、消す必要はない?」
「間違っていたという事実も、記録の一部ですから」
研究員は透を見た。
透は資料に目を落とした。
昔の名前。
昔の時間。
今では、もう誰もその名前を呼ばないかもしれない。
それでも、その人が生きていた時間まで消えたわけではない。
「分かりました」
研究員は資料をファイルに戻した。
透は立ち上がった。
施設を出る。
外は晴れていた。
歩きながら、透は自分の名前を考えた。
透。
人類世界で使ってきた名前だった。
塔にいた頃にも名前はあった。
今も覚えている。
けれど、その名前を思い浮かべても、昔の自分と今の自分が完全に重なるわけではなかった。
どちらも自分だった。
それだけだった。
携帯電話が鳴った。
塔からの通信だった。
『今日、古い記録を見た』
透は少し驚いた。
『こちらでも同じような記録が見つかった』
透は返信する。
『何の記録ですか』
しばらく返事がなかった。
やがて一文が届いた。
『お前が出発した日の記録だ』
透は立ち止まった。
画面を見つめる。
しばらくして、返信した。
『まだ残っていたんですね』
『残っていた』
それだけだった。
透は空を見上げた。
あの日も、こんな空だったのだろうか。
もう思い出せない。
けれど、少しだけ知りたいと思った。
自分が塔を出た日のことを。
そして、どんな顔をしていたのかを。
透は歩き出した。
帰る時間が近づいていた。
昔の名前も。
昔の記録も。
もう一度会うことのない人たちも。
すべてが過去になっている。
それでも、過去は消えていなかった。
ただ、今の時間の中に静かに残っていた。




