第五百八十章 小さな変化
それからしばらくの間、大きな出来事は起きなかった。
人類と塔の共同研究は、ゆっくりと再開していた。
新しい材料も少しずつ届いている。
使われる場所は限られていた。
病院。
水処理施設。
電力設備。
以前なら、それらは人類だけで維持するには不安定な部分があった。
今は少しずつ改善されている。
ただ、透自身は研究の中心にはいなかった。
彼は必要なときに呼ばれることがあるだけだった。
ある日、研究施設から連絡が入った。
「一度、来てもらえますか」
透が施設へ行くと、以前会った研究員が待っていた。
「新しい材料が届いたんです」
「そうですか」
「最初のものより、少し扱いやすい」
研究員はそう言った。
透は装置を見る。
昔なら、その仕組みをもっと詳しく知ろうとしたかもしれない。
けれど今は、少し離れたところから眺めていた。
「順調ですか?」
「今のところは」
「なら、よかった」
研究員が透を見る。
「あなたは本当に、それだけなんですね」
「何がですか?」
「もっと関わるのかと思っていました」
透は少し考えた。
「俺は技術者ではありませんから」
「でも、最初にこれを見つけたのはあなたでしょう」
「見つけたというより……」
透は装置を見た。
「戻ってきただけです」
研究員は意味が分からないという顔をした。
透はそれ以上説明しなかった。
研究員も、それ以上聞かなかった。
施設を出ると、外は雨だった。
透は傘を開いた。
歩いていると、携帯電話が震えた。
塔からだった。
『新しい材料について確認した』
透は画面を見た。
続けて、もう一つ届いた。
『人類側の報告も受け取った』
透は返信した。
『問題はありませんか』
少しして返事が来た。
『今のところない』
透は携帯電話をしまった。
雨の音を聞きながら歩く。
昔の塔にも、雨はあった。
もちろん、ここで見る雨とは違う。
それでも、雨を見ると昔のことを思い出す。
塔の中で、窓越しに外を見ていた日。
家族と食事をした夜。
仕事の帰りに、誰かと話したこと。
もう何年も前のことだった。
透は歩く速度を少し落とした。
記憶は不思議だった。
戻ってきたものもある。
戻ってこなかったものもある。
覚えていることが、本当に起きたことなのか。
時々、そんなことを考える。
けれど、確かめようとは思わなかった。
全部を確認する必要はない。
覚えている。
それだけで十分なこともある。
建物の前に着いた。
傘を閉じる。
入口に入る前に、透は空を見上げた。
雨で何も見えない。
星も見えない。
それでも、空の向こうには塔がある。
今は、それでよかった。
透は建物の中へ入った。
雨の音が少し遠くなった。
いつもの夜が始まった。




