第五百七十九章 いつもの朝
朝、目を覚ます。
透はしばらく天井を見ていた。
昨日と同じ天井だった。
窓の外から、車の音が聞こえる。
誰かが通りを歩いている。
遠くで店のシャッターが開く音もした。
透は起き上がった。
塔が去ってから、しばらく経った。
それでも、朝になると自然に目が覚める。
人間として暮らしていた頃から身についた習慣だった。
顔を洗い、簡単に食事をする。
出かける準備をする。
その途中で、携帯電話を見る。
新しい通知はなかった。
透は携帯電話をしまった。
玄関を出る。
外は少し肌寒かった。
歩いていると、以前から顔を知っている店の主人が声をかけてきた。
「おはよう」
「おはようございます」
それだけの会話だった。
透はそのまま歩いた。
塔にいた頃にも、似たような朝があった。
誰かと挨拶をして、仕事へ向かう。
その頃は、それが普通だった。
今も同じだった。
違う場所で、違う人たちと暮らしている。
それだけだった。
仕事を終えた夕方。
透は建物を出た。
携帯電話が震えた。
画面を見る。
短いメッセージだった。
『こちらは問題ない』
塔からだった。
透は少し笑った。
返信を書く。
『こちらも問題ありません』
送ってから、少し考えた。
そして、もう一行加えた。
『そちらの生活は変わりましたか』
しばらくして返事が来た。
『大きくは変わらない』
透はその文章を見て、笑った。
自分と同じだった。
大きな出来事が終わっても、生活は続く。
仕事がある。
食事をする。
眠る。
誰かと話す。
時には面倒なことも起きる。
それでも、翌朝になればまた一日が始まる。
透は携帯電話をポケットに入れた。
帰り道を歩く。
少し先に、見慣れた姿があった。
「今日は早いね」
そう言われた。
「仕事が早く終わった」
「珍しい」
「そうでもない」
二人は並んで歩いた。
しばらく、何も話さなかった。
やがて相手が言った。
「最近、空をよく見てるよね」
透は少し考えた。
「そうかな」
「うん」
透は空を見上げた。
まだ明るい。
星は見えない。
それでも、そこに塔がいることを知っている。
「昔のことを思い出すんだ」
「塔のこと?」
「うん」
相手は少し黙った。
「寂しい?」
透はすぐには答えなかった。
「……少し」
それから続けた。
「でも、嫌じゃない」
「どういうこと?」
「分からない」
相手が笑った。
「またそれ?」
透も笑った。
二人はそのまま歩いた。
夕方の街には、人が増えていた。
誰かが急いでいる。
誰かが店に入っていく。
誰かが家へ帰っている。
透も、その中を歩いている。
昔は、自分がこの景色の中にいるとは思わなかった。
今では、それが自然だった。
透は前を向いた。
今日も帰る場所がある。
明日も、おそらくある。
それだけで十分だった。




