第五百七十八章 残った日々
塔が去ってから、数日が経った。
人類側の生活は、ほとんど変わらなかった。
施設は動いている。
街にも人がいる。
新しい材料についての研究も、決められた範囲で続けられていた。
透も、以前と同じように生活していた。
朝起きる。
簡単に食事をする。
外へ出る。
仕事をする。
そして、夜になると帰る。
ただ、一つだけ違っていた。
空を見ることが増えた。
塔がいた場所を探すわけではない。
もう、そこには何も見えない。
それでも、ふとしたときに空を見上げてしまう。
ある日の夕方。
透は建物の外に出た。
風が少し冷たかった。
道路を歩く人たちの姿が見える。
誰も、空を見ていない。
彼らにとっては、いつもの一日だった。
透も、その中の一人だった。
昔は違った。
塔の中にいた。
そこが世界の中心だった。
外の世界について知っていることはあっても、自分がそこで暮らすとは思っていなかった。
今は逆だった。
人類世界で暮らすことが、当たり前になっている。
それが不思議だった。
透は歩きながら考えた。
塔に帰る道は、もうなくなったわけではない。
通信することもできる。
必要なら、いつかまた会うこともできる。
だから、別れは完全な別れではなかった。
それでも、今日の生活はここにある。
誰かが自分を待っている。
約束した時間がある。
帰れば、明日の予定がある。
そういう小さなことが積み重なって、一つの生活になっている。
透は足を止めた。
携帯電話を見る。
短い通知が一つ届いていた。
塔からだった。
『到着した』
それだけだった。
透はしばらく画面を見ていた。
そして返信した。
『分かった』
少し考えてから、もう一行加えた。
『また連絡してください』
送信する。
すぐには返事が来なかった。
透は携帯電話をしまった。
空を見上げる。
遠くに星が見え始めていた。
その中のどこかに、塔がいる。
そう考えると、少しだけ不思議な気持ちになった。
故郷は遠い。
けれど、完全に失われたわけではない。
そして、自分はここにいる。
昔の自分なら、この二つを同時に受け入れることはできなかったかもしれない。
帰るか。
残るか。
どちらかを選ばなければならないと思っていた。
けれど今は、そうではなかった。
帰らなかったからといって、故郷が消えるわけではない。
残ったからといって、過去が嘘になるわけでもない。
透は歩き出した。
少し先に、自分の知っている人影が見えた。
その姿を見て、透は自然に歩く速度を少し上げた。
「遅かったね」
声をかけられる。
「少し空を見ていた」
「空?」
「うん」
透は笑った。
「昔のことを思い出していた」
それ以上は説明しなかった。
相手も聞かなかった。
二人は並んで歩いた。
夕暮れの街を進んでいく。
塔はもう見えない。
けれど、透の中には残っている。
そして、今歩いているこの道も、いつの間にか透の中に残っていた。
どちらが本当の故郷なのか。
透はもう考えなかった。
ただ、今日帰る場所へ向かって歩いていた。




