第五百七十七章 出発の日
塔が来てから、数日が過ぎた。
人類側との話し合いは終わっていた。
新しい約束も、すでに記録されている。
塔から来た二人は、必要な準備を終えていた。
透は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
出発のための設備が静かに動いている。
見慣れないはずなのに、不思議と懐かしい。
音を聞いているだけで、昔の記憶が戻ってくる。
塔の中を歩いた日。
仕事へ向かった朝。
家族と食事をした夜。
そして、人類世界へ向かう前の日。
あの日の自分は、すぐに戻ってくるつもりだった。
「長くなるのか?」
家族の一人に聞かれた。
「分からない。でも、そんなに長くはならないと思う」
そう答えた。
自分でも、それを疑っていなかった。
任務が終われば帰る。
それが当たり前だった。
けれど、帰れなかった。
時間だけが過ぎた。
記憶が失われた。
そして、人間としての人生が始まった。
透は目の前の二人を見た。
今こうして再会できたこと自体が、まだ現実とは思えない。
二人も同じようだった。
何度も透の顔を見る。
本当に本人なのか確かめるように。
透は少し笑った。
「そんなに見る必要がありますか」
「まだ信じられない」
一人が答えた。
「俺もそうです」
透はそう言って笑った。
しばらく三人の間に沈黙があった。
昔なら、もっと話すことがあったかもしれない。
けれど、失われた時間は長かった。
何を話せばいいのか、すぐには分からない。
やがて、一人が言った。
「向こうで、お前の話をしていた」
「どんな話ですか?」
「いろいろだ」
少しだけ笑った。
「戻ってくると思っていた者もいた。もう戻らないと思っていた者もいた」
透は何も言わなかった。
「お前が生きていると分かったとき、かなり驚いた」
「そうでしょうね」
「人間として生きていたという話も、最初は理解できなかった」
透は少し考えた。
「俺自身も、まだ全部は整理できていません」
それを聞いて、二人は黙った。
その言葉を否定する者はいなかった。
透は遠くを見る。
人類側の建物が並んでいる。
そこには、透が今まで過ごしてきた時間がある。
塔にいた時間も長かった。
けれど、人間として生きた時間も、決して短くない。
むしろ、今の透にとっては、その時間の方が身体に染みついていた。
しばらくして、出発の準備が整った。
「もう行く」
一人が言った。
「はい」
透は答えた。
握手をする。
昔なら、もっと簡単に別れられたのかもしれない。
けれど今は違った。
失った時間を知っているからこそ、別れというものが以前とは違って見えた。
「また会える」
相手が言った。
透は少しだけ笑った。
「そうですね」
それ以上は言わなかった。
一緒に帰るとも言わない。
ここに残るとも言わない。
ただ、別れの時間を過ごした。
設備が動き始める。
低い音が周囲に響いた。
透は一歩下がった。
二人も振り返る。
最後にもう一度、透を見る。
透も二人を見る。
やがて、塔から来た装置がゆっくりと離れていく。
空へ上がっていく。
透はその場に立ったまま、それを見送った。
小さくなっていく光を見ながら、昔のことを思い出した。
塔へ帰る日を、何度も想像していた。
人類世界へ来たばかりの頃は、任務が終われば帰るつもりだった。
人間として暮らすようになってからも、いつか何かの形で戻れると思っていた。
そして今。
本当に、帰ることができるようになった。
それでも、透はその場から動かなかった。
塔の姿が見えなくなる。
空には何も残らなくなった。
透はしばらく空を見ていた。
それから、ゆっくりと振り返った。
人類世界の街が見える。
いつもの景色だった。
透は歩き始めた。
帰る場所を決めたわけではない。
何かを捨てたわけでもない。
ただ、その日の帰り道を歩いていた。
それだけだった。




