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嘘の向こう側  作者: 亀


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第五百七十六章 塔の中の日々

塔が去る日が近づいていた。


人類側との話し合いは終わっていた。


必要な確認も済み、両者の間には新しい約束が残された。


あとは、それぞれが自分の場所へ戻るだけだった。


透は一人で建物の外に立っていた。


遠くには、塔から来た者たちが使う設備が見えている。


それを眺めていると、ふと昔のことを思い出した。


塔にいた頃のことだった。


今よりずっと若かった。


朝になると、決まった時間に起きる。


窓を開ける。


塔の内部には、外の世界とは違う静けさがあった。


機械の音。


遠くを走る輸送設備の音。


人の話し声。


それらが重なって、毎日のように同じ音を作っていた。


特別な一日ではない。


だから、当時の透は何とも思わなかった。


家を出て、決まった道を歩く。


途中で知っている人と会えば、短く挨拶をする。


仕事へ行き、必要なことを済ませる。


終われば家へ帰る。


時には遅くなることもあった。


家族に何かを言われることもあった。


「今日は遅かったな」


「少し仕事が長引いた」


そんな会話をした。


それだけだった。


けれど今思い出してみると、その「それだけ」が妙に懐かしかった。


透は目を閉じた。


別の記憶が浮かんだ。


食事をしている。


誰かが話している。


透は半分しか聞いていない。


それを注意される。


「ちゃんと聞いているのか?」


「聞いている」


「なら、何を言った?」


透は答えられない。


笑われる。


透も笑う。


そんな時間だった。


重要な出来事ではなかった。


記録に残す必要もない。


それでも、今になって思えば、そういう時間こそが生活だった。


透は目を開けた。


目の前には、今の人類世界がある。


昔の塔とは何もかも違う。


建物も違う。


空気も違う。


人の暮らし方も違う。


それでも、透はここで同じように朝を迎え、仕事をして、人と話し、夜になれば帰る場所を探してきた。


いつの間にか、それが当たり前になっていた。


「……長かったな」


透は小さく呟いた。


誰にも聞こえなかった。


彼はまた昔のことを考えた。


塔にいた頃、自分が人類世界へ行くことになった日のこと。


あの日も、特別な一日だとは思わなかった。


任務だった。


調査をして、必要な情報を集めて、戻る。


それだけだった。


だから、出発するときも大きな感情はなかった。


家族と話した。


いつ戻るのかと聞かれた。


透は答えた。


すぐ戻るつもりだった。


そのときは、本当にそう思っていた。


まさか、その先で自分が別の人生を生きることになるとは知らなかった。


まさか、記憶を失うとも思わなかった。


まさか、人間として生まれ、育ち、老い、死ぬとも思わなかった。


そして、もう一度ここまで戻ってくるとも思わなかった。


透は空を見た。


今の空と、昔の塔から見た空。


同じなのか。


違うのか。


もう分からなかった。


ただ一つだけ分かることがある。


昔の自分が見ていた世界も、本当に存在していた。


今の自分が見ている世界も、本当に存在している。


どちらかを消してしまうことはできない。


透はしばらくその場に立っていた。


遠くで誰かが呼んでいる。


「透」


振り返る。


塔から来た者の一人だった。


「そろそろ戻る」


「分かった」


透は短く答えた。


そして、もう一度だけ空を見上げた。


昔の生活が、また少しずつ遠ざかっていく。


それでも、不思議と寂しいだけではなかった。


懐かしい。


そう思った。


ただ、それだけだった。


透はゆっくりと歩き出した。

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