第五百七十五章 残ったもの
塔の船が去ってから、一週間が過ぎた。
人類側の施設は、以前と同じように動いていた。
病院では患者が治療を受けている。
発電施設では電力が作られている。
水処理施設では、毎日大量の水が処理されている。
特別な変化はない。
ただ、研究施設の一室には、以前とは違うものがあった。
塔から提供された原材料だった。
技術者たちは、それを慎重に管理している。
使う量も記録されている。
どこへ運ばれたのかも記録されている。
誰が扱ったのかも残されている。
人類側の代表者が、その記録を確認していた。
「今のところ問題ありません」
技術者が報告する。
「医療施設への提供分も、予定どおりです」
「軍事施設への流用は?」
「ありません」
「確認できています」
代表者は頷いた。
机の上には、塔との新しい約束が置かれている。
それほど長い文章ではない。
しかし、その中には過去に失われたものが含まれていた。
共同で研究すること。
一方的に独占しないこと。
民間利用を優先すること。
問題が起きたら連絡すること。
そして、互いに確認すること。
人類側の代表者は、最後の一文を何度か読んだ。
「連絡を絶たない、か」
技術者が言う。
「重要ですね」
「そう思います」
代表者は書類を閉じた。
その日の午後。
透は施設の外を歩いていた。
以前と変わらない道だった。
人々が行き交っている。
店が開いている。
子供たちが走っている。
誰も、空の向こうで何が起きていたのか知らない。
知らなくても、生活は続いている。
透はそのことを少し不思議に感じた。
塔が来た。
人類と話した。
新しい約束をした。
それでも、世界は大きく変わったようには見えない。
彼は近くの店に入った。
飲み物を一つ買う。
店員から商品を受け取る。
「ありがとうございました」
透は軽く頭を下げた。
店を出る。
それだけだった。
夕方になって、研究施設へ戻る。
人類側の代表者が透を見つけた。
「こんなところにいたんですか」
「少し歩いていました」
「塔から連絡がありました」
透が顔を上げる。
「もう?」
「短い通信です」
代表者が端末を見せる。
そこには簡単な文章だけが表示されていた。
『原材料の追加提供について、予定どおり進める』
その下に、もう一行。
『透は元気か』
透はしばらく画面を見た。
「元気です、と返してください」
「自分で返さないんですか?」
「今は人類側の端末なので」
代表者が笑った。
「分かりました」
少しして、返信が送られた。
『元気です』
それだけだった。
しばらくすると、返事が届いた。
『それならよかった』
透は画面を見ていた。
短い言葉だった。
けれど、昔とは違う。
以前なら、通信が途絶えれば、それで終わっていた。
今は違う。
いつでも連絡できる。
必要なら話せる。
それだけのことだった。
しかし、それは透にとって大きな変化だった。
夜。
透は一人で外へ出た。
空を見上げる。
塔の船はもう見えない。
それでも、どこかにいる。
同じ空の向こうに。
透はしばらく星を見ていた。
そして、ゆっくり歩き始めた。
明日も仕事がある。
特別な任務ではない。
人間としての生活だった。
それでいいと思った。
塔へ帰ることもできる。
それでも、今はここにいる。
ここで生きてきた時間がある。
ここで出会った人たちがいる。
だから、残ることにした。
誰かに命じられたわけではない。
誰かに引き止められたわけでもない。
透自身が選んだ。
その夜、窓の外には星が出ていた。
以前と同じ星空だった。
ただ、もうその向こうに誰かがいることを、透は知っていた。
そして今度は、その距離を恐れる必要がなかった。




