第五百六十七章 昔の話
翌日。
会談は、前日と同じ部屋で行われることになった。
昨日よりも人数は少なかった。
人類側からは数人の代表者だけが残り、塔から来た二人も、正式な随行員をほとんど連れてこなかった。
透は、その中央に座っていた。
昨日と違って、誰も資料を持っていない。
机の上にあるのは、水と簡単な食事だけだった。
平和派の代表者がそれを見て言った。
「これは、人類の普通の食事ですか?」
「そうです」
透が答えた。
「少し食べてみますか?」
「いいですね」
彼は興味深そうに手を伸ばした。
主戦派の代表者も、それを見てから同じように手を伸ばした。
「意外ですね」
「何がですか?」
「もっと警戒されると思っていました」
人類側の代表者が苦笑する。
「こちらも同じことを考えていました」
短い笑いが起きた。
昨日よりも、少しだけ自然だった。
しばらくして、平和派の代表者が透を見る。
「では、昔の話をしましょう」
「何からですか?」
「あなたがこちらへ来る前のことです」
透は少し考えた。
「かなり昔ですよ」
「私たちにとっても同じです」
主戦派の代表者が言った。
「それでも、聞きたい」
透は椅子に背を預けた。
「僕が人間の世界へ来たとき、最初から調査官として来たわけではありません」
「どういう意味ですか?」
「調査官として来ました。ただ、こちらへ来た直後は、普通に任務を行えると思っていたんです」
透は机の上に置かれた水を見る。
「ところが、装置が使えなくなりました」
二人は黙って聞いている。
「通信も、帰還もできなくなった」
「エネルギーの問題ですか?」
「おそらく」
透は答えた。
「人類側の環境では、装置を維持するだけの条件が足りなかったんだと思います」
「それで?」
「そのまま時間が過ぎました」
透は淡々と話した。
「最初は、いつか戻れると思っていました」
「でも、戻れなかった」
「はい」
「記憶も?」
「少しずつ失われました」
主戦派の代表者が黙り込む。
その顔には、まだ信じ切れないものがあった。
「あなたは、その状態で……」
「人間として生きました」
透は答えた。
「普通に学校へ行って、働いて、人と知り合って、失敗もしました」
「そして死んだ」
「はい」
部屋が静かになる。
透自身は、もうそのことを特別なことだとは思っていなかった。
しかし、二人にとっては違った。
彼らにとって、透は長い間、突然消えた身内だった。
帰ってこなかった者だった。
そして今、目の前にいる。
「人間としての生活は……」
平和派の代表者が言葉を選ぶ。
「どうでしたか?」
透はすぐには答えなかった。
「悪くなかったですよ」
「それだけですか?」
「良いことも悪いこともありました」
透は少し笑う。
「だから、普通だったんだと思います」
二人は顔を見合わせた。
主戦派の代表者が、静かに言った。
「私たちは、あなたが苦しんでいたと思っていました」
「そういう時期もありました」
「では、幸せだった?」
「それも、分かりません」
透はそう答えた。
「ただ、生きていました」
それ以上の説明はしなかった。
人類側の代表者の一人が、静かにその言葉を聞いていた。
やがて、彼が口を開く。
「それなら、あなたがここに残りたいと思う理由も分かります」
透は彼を見る。
「そうですか?」
「少なくとも、少しは」
透は何も言わなかった。
平和派の代表者が笑った。
「私たちは、あなたを連れ戻すべきなのかと思っていました」
「連れ戻す?」
「はい」
「もう必要ありません」
透は首を横に振った。
「僕は、今の生活があります」
二人はしばらく黙っていた。
やがて主戦派の代表者が頷く。
「そうですか」
それだけだった。
引き止めることもなかった。
責めることもなかった。
ただ、目の前にいる透を見ていた。
少しして、平和派の代表者が立ち上がった。
「では、今日は人間としてのあなたの話を聞かせてください」
「仕事の話ですか?」
「それも聞きたいです」
彼は少し笑った。
「あなたが何を食べて、どこで暮らして、どんな人と話していたのか」
透は一瞬だけ驚いた。
「そんな話でいいんですか?」
「それが聞きたいんです」
主戦派の代表者も頷いた。
「記録には、そういうことはほとんど残りませんから」
透は少し考えてから答えた。
「分かりました」
その後、透は人間として過ごした日々について話し始めた。
特別な英雄譚ではなかった。
失敗した仕事。
うまくいかなかった人間関係。
誰かと笑った日。
一人で過ごした夜。
小さな町。
古い家。
そして、何も起きなかった普通の日。
二人は、ときどき質問をした。
人類側の代表者たちは、それを聞いていた。
大きな歴史を隔てて向き合った者たちが、その日はただ一人の人生について話していた。
会談が終わる頃には、外が暗くなっていた。
平和派の代表者が窓の外を見る。
「不思議ですね」
「何がですか?」
「私たちは、ずっと人類の歴史を知ろうとしていました」
彼は透を見る。
「でも、あなた一人の話を聞いた方が、人間というものを少し理解できた気がします」
透は答えなかった。
その言葉が正しいのかどうかは、分からなかった。
ただ、今日一日、誰も過去の責任を決めようとはしなかった。
誰が正しかったのかも。
誰が悪かったのかも。
それは、もう少し後でいい。
今はただ、長い時間の向こう側にいる者同士が、互いの声を聞いていた。




