第五十六章 移されたもの
翌日。
透は、昨日作った紙を机の上に置いた。
左側に、
旧
右側に、
新
その間に一本の線。
それだけだった。
名前を書かない。
会社名も書かない。
まず、
何が移ったのか。
それを調べる。
透は前日に見つけた「業務移管に伴う運用変更について」という資料をもう一度開いた。
最初に確認したのは、
「対象業務」の欄だった。
そこには四つの項目があった。
問い合わせ受付。
情報確認。
記録更新。
外部連絡。
透は一つずつ紙に写した。
その下に、
人員:記載なし
旧担当者:記載なし
新担当者:記載なし
と書いた。
業務は書かれている。
しかし、
誰が担当していたのかは書かれていない。
それは、
おかしいという意味ではない。
業務移管の資料なのだから、
人ではなく業務を書く必要があるだけかもしれない。
透はそう考えた。
それでも、
一つ気になるところがあった。
「旧窓口名称は継続使用する」
という部分だった。
では、
その名前は誰のものなのか。
透は資料の別のページを確認した。
そこには、
「外部問い合わせ先」
として、
一つの名称が載っていた。
昨日、女から送られてきたメール。
そして、
古い封筒。
そこに書かれていた名前と同じだった。
透は画面を保存した。
次に、
現在の会社の問い合わせページを開く。
同じ名前があった。
ただし、
所在地が違う。
電話番号も違う。
担当部署も違う。
名前だけが残っている。
透は紙に書いた。
使用名:同じ
会社:違う
所在地:違う
電話番号:違う
担当部署:違う
その下に、
人:不明
と書いた。
そこで、
電話が鳴った。
白石だった。
「資料を見つけたそうだね」
「はい」
「どこまで分かった?」
透は少し考えた。
以前なら、
見つけたものを全部説明していた。
今は違う。
「業務の一部が移管されたことは確認できました」
「それで?」
「名前も継続して使われています」
白石は少し黙った。
「そこから先は?」
「まだ分かりません」
「そうか」
それ以上、
白石は聞かなかった。
透は逆に尋ねた。
「昔の管理室から、外部窓口の仕事が移された時のことを知っていますか」
「一部なら」
「一部?」
「全部ではない」
「何が移ったか分かりますか」
「問い合わせと確認業務の一部だったと思う」
「記録は?」
「記録は残ったものと、移されなかったものがある」
透はすぐに書いた。
記録=全部ではない
「どこに移されたんですか」
「それは覚えている」
白石は答えた。
「ただし、その時点の話だ」
「今は違う?」
「今どうなっているかは知らない」
透はペンを止めた。
白石は続けた。
「昔の場所を知っていることと、現在の場所を知っていることは違う」
「分かっています」
「それから」
「はい」
「その仕事を担当していた人間を知っていることと、現在もその人間が担当していることも違う」
透は少し笑った。
「最近、そればかり考えています」
「それなら、前より慎重になったな」
「慎重になったというより……」
透は言葉を探した。
「分からないものを、分かったことにしなくなっただけです」
電話の向こうで、
白石が小さく息を吐いた。
「それでいい」
それ以上は言わなかった。
電話を切った後、
透は白石の言葉をそのまま記録した。
当時の移管先は知っている
現在の状態は知らない
そして、
その二つの間にも、
線を引かなかった。
昼過ぎ。
透は古い会社の元社員に連絡した。
「以前の外部窓口について、少し聞きたいことがあります」
相手はしばらく考えてから答えた。
「何を知りたいんですか」
「仕事が別の会社へ移った時、何が一緒に移ったんですか」
「仕事ですよ」
「具体的には?」
「問い合わせを受けること。確認すること。必要なら記録を更新すること」
「記録そのものも移ったんですか」
「全部じゃない」
やはり同じだった。
「じゃあ、何が移らなかったんですか」
「古い記録の一部」
「なぜですか」
「保存期間が違ったから」
透はそこで初めて、
記録が残らない理由を考えた。
誰かが消したからとは限らない。
仕事が変わったから。
保存期間が終わったから。
管理主体が変わったから。
形式が変わったから。
紙から電子データになったから。
そういう理由でも、
過去の記録は途切れる。
「では、昔の名前が残っていても、昔の記録が全部残っているとは限らない?」
「そういうことです」
元社員は答えた。
「むしろ、名前の方が残る場合もあります」
「なぜですか」
「外部の人間が、その名前を知っているからです」
透は黙った。
「電話する側からすると、会社が変わったかどうかなんて分からないでしょう」
「はい」
「だから窓口名を変えない方が、混乱が少ない」
「つまり」
透は確認した。
「名前は、人を示すためではなく、連絡先を示すために残ることがある」
「そうです」
透はその言葉を書いた。
名前=連絡先の識別
ただし、
その横に小さく、
場合による
と付け加えた。
電話を切った後、
透は古い封筒を思い出した。
そこには、
仕事上の名前。
N―07。
「引継ぎ後も変更しない」。
以前なら、
その一行から誰かを探していた。
今は違う。
「変更しない」と書かれたのは、
人ではなく、
窓口名だった可能性がある。
N―07も、
その仕事の分類だった可能性がある。
そして、
封筒の日付は、
弟が会社を辞める前だった。
透は女に連絡した。
「封筒をもう一度見せてもらえますか」
しばらくして、
写真が送られてきた。
表。
裏。
端の部分。
透は拡大した。
以前は気づかなかった小さな文字があった。
封筒の端に、
薄く、
移管資料 控
と書かれている。
その下には、
日付。
そして、
もう一つの言葉。
旧管理分
透は画面を保存した。
「これ、前からありました?」
女に聞いた。
「ありました」
「気づかなかった?」
「うん」
「僕もです」
二人とも、
しばらく何も言わなかった。
その封筒は、
誰かの名前を探すためのものではなかったのかもしれない。
仕事の移管に関する資料だった可能性がある。
だが、
それでもまだ、
弟がなぜそれを持っていたのかは分からない。
透は女に言った。
「この封筒だけでは、弟さんが何を調べていたかは決められません」
「分かってる」
「ただ」
「うん」
「一つ確認できそうです」
「何?」
「引き継いだ側に、旧管理分の資料が残っているかもしれない」
女は少し黙った。
「そこに弟のことがある?」
「分かりません」
「……そうだね」
「でも、そこには人ではなく、仕事の移動が記録されている可能性があります」
電話の向こうで、
女が息を吸った。
「じゃあ、次はそこを見る?」
透は答えた。
「はい」
それから、
少しだけ間を置いて続けた。
「ただし、誰かを探すためではなく」
「何を探すの?」
「何が引き継がれたのかを確認するためです」
電話を切った。
透は机に向かった。
紙の中央に書いた、
旧 ―― 新
その間に、
一つだけ言葉を入れた。
業務
その下に、
さらに三つ。
記録
名称
担当
ただし、
「担当」の横には、
まだ何も書かなかった。
人の名前を書くには、
まだ早かった。
透は紙を閉じた。
次に調べる場所は、
人がいる場所ではない。
誰かが働いている場所でもない。
その仕事が、
どこから、
どこへ、
どのように移されたのか。
その途中に、
弟が見ていたものが残っているかもしれない。
あるいは、
何も残っていないかもしれない。
どちらでもよかった。
今は、
その両方を可能性として残しておく必要があった。




