第五十一章 残された名前
その夜、透は机の上に三枚の資料を並べていた。
同じ使用名。
違う確認者。
違う日付。
そして、そのうち二枚にN―07。
数字だけを見れば、何かの規則があるように見える。
だが、数字だけでは意味が決まらない。
透は一枚目を裏返した。
何もない。
二枚目。
何もない。
三枚目。
こちらも何もない。
ただ、一番古い資料だけに、鉛筆で書かれた一行が残っている。
名前を残すのは、人を残すためとは限らない。
透はその言葉をもう一度読んだ。
そして、昨日までのメモを横に置いた。
名前 ≠ 人
名前 ≠ 役割
番号 ≠ 場所
記録 ≠ 現実
その下に、新しく書く。
名前が残っても、人が残っているとは限らない。
書いてから、透はペンを止めた。
これは当たり前のことにも思えた。
会社の担当者名。
部署名。
窓口名。
引き継がれた仕事。
どれも、人が変わっても残る。
ならば、
兄が調べていた二つの名前も、
最初から二人の人間を意味していたとは限らない。
一つの名前が複数の人間に使われていた。
一人の人間が複数の名前を使っていた。
あるいは、
人間ではなく役割そのものを示していた。
どれもあり得る。
透は資料を閉じた。
その時、スマートフォンが鳴った。
女からだった。
元同僚から連絡がありました。
透は返信する。
何か分かりましたか?
すぐに返事が来た。
弟が見ていた書類についてです。
透は画面を見た。
あの書類には、名前が二つあったそうです。
でも、二人分の名前ではありません。
透は少し考えてから、
どういう意味ですか?
と送った。
しばらくして、
一つは「使用名」。
もう一つは「確認者名」だったそうです。
透の手が止まった。
続けて、
弟は、その二つが同じ人間なのか確認しようとしていたらしいです。
透は画面を見つめた。
今までの情報が、少しだけ形を変えた。
二つの名前。
N―07。
管理室。
兄が見ていた書類。
そして、
「名前を聞けば、名前の方を信じてしまう」。
それらが、まだ一本の線になるわけではない。
だが、
兄が何を疑問に思っていたのかは、
少しだけ見えてきた。
透は返信した。
その書類は、今もありますか?
返事はすぐには来なかった。
数分後、
分かりません。
ただ、元同僚は一度だけ見たと言っています。
透は椅子に背を預けた。
一度だけ。
それなら、
その書類がどこへ行ったのかも分からない。
誰が作ったのかも分からない。
誰が処理したのかも分からない。
それでも、
「二つの名前があった」
という記憶だけが残っている。
透は立ち上がり、窓を開けた。
夜の風が入ってくる。
街の明かりを見ながら、
ふと白石の言葉を思い出した。
――名前を使う場面がある。
――人ではなく窓口に名前を付けることもある。
もしそうなら、
人を探すために名前を追いかけること自体が、
最初から間違っている場合がある。
透はその可能性を考えた。
しかし、
「間違っている」と決めるのも早い。
名前が人を指すこともある。
名前が役割を指すこともある。
同じ名前が両方に使われることもある。
だから、
名前そのものを疑うのではなく、
その名前が、どの場面で、何を指していたのか。
そこを調べる必要がある。
翌日。
透は再び古い会社へ向かった。
昨日の年配の男性に会うためだった。
受付で名前を告げると、
しばらくして男性が出てきた。
「また来たんですね」
「はい。一つ確認したいことがあります」
「何でしょう」
透は昨日見つけた資料を見せた。
「この『使用名』という欄ですが」
「はい」
「この名前を使う人が変わった場合、記録はどうなりますか」
男性は資料を見た。
「引き継ぎます」
「名前を?」
「使用名を」
「人が変わっても?」
「仕事が同じなら」
「では、記録上は同じ人間に見えることがありますか」
男性は少し考えた。
「そうですね」
「逆に、一人の人間が別の使用名を使った場合は?」
「別の人間に見えることもあります」
透は黙った。
男性は続けた。
「だから、昔の記録を今の感覚で読むと間違えるんです」
「何を見れば区別できますか」
「日付」
「日付?」
「それと所属」
「所属が空白の場合は?」
男性は答えなかった。
しばらく資料を見て、
「その場合は難しいですね」
と言った。
「なぜ空白になるんですか」
「外部の人間だったり、一時的な担当だったり、所属を記録する必要がなかったり」
「つまり、空白にも複数の理由がある」
「そうです」
透は小さく頷いた。
ここにも同じ構造がある。
空白。
記録されていない。
確認不要。
どれも、
一つの意味ではない。
男性が資料を返した。
「何か人を探しているんですか?」
透は少し考えた。
「人を探しています」
「昔の人?」
「そうです」
「名前は分かっている?」
「いくつか」
男性は少し笑った。
「それなら、名前から探さない方がいいかもしれません」
透は顔を上げた。
「なぜですか」
「その人が、どんな仕事をしていたかを探した方がいい」
「仕事?」
「名前は変わることがあります。でも、仕事の痕跡は残ることがありますから」
透はその言葉を聞いて、
昨日の鉛筆書きを思い出した。
名前を残すのは、人を残すためとは限らない。
ならば、
人を探す時に、
名前ではなく、
その人が残した仕事を見る。
透は礼を言った。
会社を出る。
駅へ向かう途中、
女から電話が来た。
「今、話せますか?」
「はい」
「弟の部屋から、もう一つ出てきました」
「何ですか」
「古い封筒です」
透は立ち止まった。
「中身は?」
「空です」
「空?」
「はい」
女の声が少し震えた。
「でも、封筒の表に名前が書いてあります」
「誰の名前ですか」
「分かりません」
「また?」
「違います」
女は少し間を置いた。
「名前ではなくて、仕事の名前みたいです」
透は黙った。
「それから」
女が続ける。
「その下に、こう書いてあります」
「何と?」
「『引継ぎ後も変更しない』」
透はしばらく何も言わなかった。
名前。
仕事。
引き継ぎ。
そして、
変更しない。
それは人間の名前を固定しているのではなく、
役割の名前を固定しているのかもしれない。
ただ、
まだ分からない。
透は電話越しに言った。
「写真を送ってください」
「分かった」
電話が切れた。
数秒後、
画像が届いた。
透は画面を見た。
封筒には、
一つの名前。
その下に、
小さな文字で、
N―07
と書かれていた。




