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嘘の向こう側  作者: 亀


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第四十九章 消された間隔

透は、女から送られてきた画像を何度も見た。


「名」。


少し離れて、


「前」。


二つの文字の間には、紙の表面が不自然に擦れた跡がある。


文字を消したというより、


そこに書かれていたものを、何度も指でなぞったような跡だった。


透は画像を保存した。


それから、拡大するのをやめた。


拡大しても、消えた文字が戻ってくるわけではない。


翌日、二人は同じ喫茶店で会った。


女はノートを持ってきていた。


「昨日の写真、見ました」


「はい」


「何だと思う?」


「まだ分かりません」


女は少し笑った。


「やっぱり」


透はノートを開いた。


「一つだけ確認したいです」


「何?」


「この文字を書いたのは、弟さんだと思いますか」


女は考えた。


「たぶん」


「たぶん?」


「弟の字に似ています。でも、全部を見たわけじゃないから」


「なるほど」


透は頷いた。


「じゃあ、ここに『名前』と書こうとしていたとは決めない方がいいですね」


「そうですね」


女はノートを見つめた。


「私も、最初はそう思った」


「でも?」


「今は、少し違う気がする」


「何が?」


「『名』と『前』の間に何かがあった」


透も同じことを考えていた。


ただ、それを文章にはしなかった。


「何かを書いて、それを消した?」


「うん」


「それとも、最初から空いていた?」


「分からない」


女は指で紙の跡をなぞった。


「でも、弟は何かを消す時、こんな消し方をしなかった」


「どうして分かるんですか」


「昔、弟のメモを見たことがあるから」


「どんな消し方?」


「線を一本引いて、その横に書き直す」


「今回は?」


「何度も擦っている」


透は紙を見た。


確かにそうだった。


誰かが文字を消した。


そんな印象を受ける。


だが、それだけでは、


誰が消したのか分からない。


「このノートを、弟以外の人が触った可能性はありますか」


女は少し考えた。


「あります」


「誰?」


「私」


透は顔を上げた。


「弟がいなくなった後、一度だけ部屋を整理した」


「その時に?」


「ページをめくっただけ」


「書き込んだりは?」


「していません」


「他には?」


「母が一度見たかもしれない。でも、ノートの中身には興味がなかったと思う」


透は頷いた。


「じゃあ、今のところ誰が触ったかは分からない」


「そうですね」


二人はそこで止めた。


しばらくして、女が言った。


「昨日、元同僚にも聞きました」


「何を?」


「弟が『名前』という言葉をよく使っていたか」


「それで?」


「使っていたそうです」


「どんな意味で?」


「それが分からない」


女は少し困ったように笑った。


「ただ、名前を聞くと、その人間を分かったつもりになることがある、と言っていたそうです」


透は思い出した。


以前、元同僚が言った言葉。


名前を聞けば、名前の方を信じてしまう。


「弟さんは、名前を信用していなかった?」


「そういうことではないと思います」


女は首を振った。


「名前が必要なこともある。でも、名前だけで人を判断するのは違う、と」


「なるほど」


透はノートを見る。


「じゃあ、『名』と『前』が残っていること自体に意味があるとは限らない」


「そうですね」


「弟さんが何かを書き留めていた可能性もある」


「はい」


「そして、その一部が消えた」


「はい」


「でも、何が消えたかは分からない」


女は頷いた。


「また、分からない」


透は少し笑った。


「でも、今回は前より分かっています」


「何が?」


「分からない場所が、少し狭くなった」


女は黙ってノートを閉じた。


その時、店の入口から見覚えのある男が入ってきた。


白石だった。


二人に気づいたが、すぐには近づいてこない。


少し離れた席に座った。


女が透を見る。


「呼んだの?」


「いいえ」


「じゃあ、偶然?」


「分かりません」


二人は白石を見なかった。


しばらくして、白石が席を立った。


こちらへ歩いてくる。


「邪魔だったかな」


「大丈夫です」


白石は二人の向かいに座った。


「昨日の話を少し思い出した」


透は黙って待った。


「仕事上の名前についてだ」


「はい」


「私は昨日、『本名と仕事上の名前』と言った」


「覚えています」


「あれは少し簡単に言いすぎた」


女が顔を上げる。


「どういう意味ですか」


「仕事上の名前が、必ずしも別人として使われる名前だったわけではない」


「では?」


「会社によっては、外部との連絡に使う名前だったり、担当者名として使う名前だったりした」


「つまり、名前というより役割?」


白石は頷いた。


「そういう場合もある」


透は尋ねた。


「その場合、その名前を使っている人間が変わることもありますか」


「ある」


「同じ名前を、別の人が使う?」


「場合によっては」


女が黙った。


透は続けた。


「逆に、一人の人間が複数の名前を使うことも?」


「ある」


「それなら、名前だけでは人を特定できない」


「そうだ」


透はノートを見る。


「弟さんが調べていたのは、その違いだったのかもしれません」


女が言った。


「名前と人の違い?」


「あるいは、名前と役割の違い」


白石は何も言わなかった。


透は白石を見る。


「白石さん」


「何?」


「N―07は、人ではなく役割にも付いていましたか」


白石は少し考えた。


「……そういう使われ方をした記録はある」


女が息を止めた。


透はすぐに続けた。


「どんな役割ですか」


「確認する側」


「確認する側?」


「記録を確認する人間」


「つまり、N―07が付いている名前が、実際に確認した本人とは限らない?」


「そういう場合もある」


透はペンを置いた。


ここで一つ、これまでの情報を整理できる。


名前。


人。


役割。


記録。


同じものではない。


そして、


同じ記録の中に並んでいても、


それらが同じ対象を指しているとは限らない。


女が静かに言った。


「じゃあ、弟が二つの名前を調べていたのは……」


白石が遮った。


「まだ決めない方がいい」


女は白石を見る。


白石は続けた。


「彼が何を調べていたのか、私は知らない」


透はその言葉を聞いた。


昨日と同じだった。


白石は、ここでも答えを限定している。


透はノートを閉じた。


「今日は、ここまでにします」


女が少し驚く。


「もう?」


「はい」


「何も分かってないのに?」


透は立ち上がった。


「だからです」


店を出る。


外は曇っていた。


女が隣を歩く。


「さっきの話、どう思う?」


「まだ分かりません」


「でも、何か見えた?」


透は少し考えた。


「名前を追いかけすぎると、名前しか見えなくなる」


女は黙っている。


「弟さんが名前を消したのかもしれない」


「うん」


「でも、名前を消した理由までは分からない」


「うん」


「だから、次は名前ではなく、名前が使われていた場面を見る」


女が頷いた。


「場面?」


「誰が、誰に対して、その名前を使っていたのか」


「記録を見る?」


「記録だけじゃなくて、人の話も」


二人は駅前で立ち止まった。


女が言う。


「じゃあ、次は昔の会社で、その名前を使っていた人を探す?」


透は首を振った。


「まだ探しません」


「どうして?」


「その名前が人の名前なのか、役割の名前なのか、まだ分からないからです」


女は少し考えて、


「なるほど」


と言った。


二人は別れた。


透は駅へ向かった。


歩きながらスマートフォンを取り出す。


さっきまでのメモを開く。


そこには、


名前 ≠ 人


番号 ≠ 場所


記録 ≠ 現実


と書かれている。


透はその下に、もう一つ書き足した。


名前 ≠ 役割


そして、その横に小さく、


ただし、重なることはある。


と書いた。


画面を閉じる。


まだ何も解決していない。


それでも、


分からないものを分からないまま置いておくことで、


逆に見えてくるものもある。


透はそのことを、


少しだけ理解し始めていた。

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