第四十六章 二つの名前
翌朝、透は白石から聞いた言葉を書き出した。
その人は、名前を二つ持っていた。
その下に、
本名と、仕事上の名前。
と書いた。
そして、その横に、
N―07?
と記した。
最後に、疑問符を二つ重ねた。
白石は、N―07とは言っていない。
そこを勝手につなげてはいけない。
透はそう思った。
けれど、名前を二つ持つ人間。
管理室。
古い建物。
そして、弟が調べていた二つの名前。
完全に無関係とも言い切れなかった。
午前中、透は女に電話をした。
「昨日、白石さんと話しました」
「何て?」
「昔、あの建物を使っていた人を知っているそうです」
女は黙った。
「その人は、名前を二つ持っていたと言っていました」
「二つ?」
「本名と、仕事上の名前」
「誰ですか」
「教えてくれませんでした」
「どうして?」
「まだ僕が何を見たのか分からないから、と」
女はしばらく黙っていた。
「弟のノートにあった二つの名前……」
「はい」
「関係していると思いますか」
透はすぐには答えなかった。
「まだ分けて考えたいです」
「そうですね」
女も同意した。
「でも、一つ確認したいことがあります」
「何?」
「弟が書いた二つの名前のうち、一つは『人の名前』だったのかもしれない」
「もう一つは?」
「仕事上の名前だった可能性があります」
女は黙った。
「それなら、同じN―07の横に二つの名前があっても不思議ではない」
「……でも、それなら、どうして弟は二つとも同じように書いたんでしょう」
「分かりません」
また、そこで止まった。
透は以前なら、その空白を仮説で埋めていた。
今は埋めなかった。
昼過ぎ、二人は元同僚と会った。
透は白石の話をすぐには伝えなかった。
先に聞いた。
「昔の会社で、仕事上の名前を使っていた人はいましたか」
元同僚は考えた。
「いました」
「どんな人?」
「外部の人間と話す時だけ、別の名前を使う人がいました」
「社員?」
「社員ではありません」
「管理室の人?」
「管理室に出入りしていたことはあります」
透は少し身を乗り出した。
「何の仕事を?」
「それは知りません」
「名前は?」
元同僚は答えなかった。
透は待った。
やがて男が言った。
「一つだけ覚えています」
「何ですか」
「その人は、自分の名前を聞かれた時に、いつも違う答え方をしていました」
「例えば?」
「『どの名前が必要ですか』と」
女が顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「分かりません」
「本名を聞いたら?」
「本名を答える時もあった」
「仕事の名前なら?」
「別の名前を答えた」
透は聞いた。
「その二つは、記録上どう扱われていましたか」
「別人として扱われることもあったし、同じ人として扱われることもありました」
「誰が決めたんですか」
「それは……」
元同僚は言葉を止めた。
「管理する人です」
「具体的には?」
「その時によります」
透は頷いた。
その答えは、これまで何度も聞いてきたものと同じだった。
一人ではない。
一つの規則でもない。
その時の処理によって変わる。
元同僚はポケットから煙草を取り出したが、火はつけなかった。
「弟は、その人を調べていました」
透が顔を上げる。
「いつ?」
「会社を辞める少し前です」
「何を調べていた?」
「二つの名前が、同じ人間なのか」
女が聞いた。
「それで?」
元同僚は首を振った。
「分からなかったそうです」
「本人には会った?」
「一度だけ」
透は息を止めた。
「弟が?」
「はい」
「どこで?」
「古い建物の近く」
昨日の場所だった。
透は何も言わなかった。
元同僚は続けた。
「でも、弟は本人に名前を聞かなかった」
「なぜ?」
「『名前を聞けば、名前の方を信じてしまうから』と言っていました」
女は黙った。
透も黙った。
弟は、名前を確認することそのものを避けていた。
名前を聞けば、
その名前と人間を結びつけてしまう。
そして一度結びつけると、
その後の記録も同じように見えてしまう。
透は昨日見た二つの紙を思い出した。
同じN―07。
違う名前。
違う紙。
違う日付。
それでも、同じ人間だと思おうとしていた。
「その人は、今どこにいますか」
女が聞いた。
元同僚は首を振った。
「知りません」
「最後に見たのは?」
「かなり前です」
「どの名前でしたか」
男は少し考えた。
「それが分からないんです」
「どういうこと?」
「その時、私は名前を呼ばなかったので」
透は顔を上げた。
名前を呼ばなかった。
それだけなのに、
その人が誰なのか分からない。
元同僚は立ち上がった。
「今日はこれでいいですか」
「はい」
透も立ち上がった。
帰り道、女が言った。
「弟は、名前を知らないまま人を探していたのかもしれません」
「そうかもしれません」
「それって、かなり難しくない?」
「難しいと思います」
「じゃあ、どうして?」
透は少し考えた。
「名前を知ることが、探すことの邪魔になる場合があると思ったのかもしれません」
女は歩きながら黙っていた。
駅に近づいたところで、彼女が言った。
「昨日、もう一つ見つけました」
「何を?」
「弟のノートの裏側です」
「まだ何か?」
「紙を剥がした跡がありました」
透は立ち止まった。
「剥がした?」
「はい」
「何か書いてあった?」
「分かりません」
「紙は?」
「残っていません」
女はスマートフォンを取り出した。
「でも、剥がした跡の近くに、薄く文字が残っています」
写真が送られてきた。
透は画像を拡大した。
紙の繊維の間に、
鉛筆の跡がわずかに残っている。
完全には読めない。
しかし、一文字だけ分かった。
七。
その下に、
もう一つの線。
そして、さらにその下に、
かすかに文字が残っていた。
透は画像を見つめた。
「読めますか?」
女が聞いた。
「一文字だけ」
「何?」
「『名』に見えます」
二人は黙った。
名前。
七。
N―07。
そして、剥がされた紙。
透は写真を保存した。
「原本は?」
「持っています」
「しばらく、そのままにしておいてください」
「分かりました」
電話を切った後、透は歩き始めた。
今度は、名前を探すことよりも、
なぜ弟が名前を剥がしたのか
の方が気になった。
書いたのなら、残せばいい。
調べていたのなら、記録すればいい。
それなのに、
弟は一度書いたものを剥がしている。
誰かに見られたくなかったのか。
自分自身が見ないようにしたのか。
あるいは、
名前を残すこと自体に意味があると気づいたのか。
どれも、まだ分からない。
その夜、透は白石に電話をかけなかった。
代わりに、机の上に一枚の紙を置いた。
そこには、
名前を知る
と書いた。
その下に、
人を知る
と書いた。
二つの言葉の間には、
線を引かなかった。
まだ、
つなぐ理由がなかった。




