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嘘の向こう側  作者: 亀


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第四十五章 見られていた場所

帰宅した後も、透はあの建物のことを考えていた。


古い三階建て。


新しい郵便受け。


時々使われているという部屋。


そして、建物の向かい側にあった監視カメラ。


透は机の上に紙を広げた。


中央に、


「見る」


と書く。


その周りに、いくつかの言葉を書いた。


弟。


管理室。


古い事務所。


監視カメラ。


名前。


N―07。


しかし、線は引かなかった。


まだ、つなげる理由がない。


翌日の朝、女から連絡が来た。


「昨日の建物について、少し調べました」


「何かありましたか」


「古い登記を見つけました」


「誰の建物?」


「会社名義ではありません」


「では?」


「個人名義です」


透は少し考えた。


「その人は、会社と関係がありますか」


「昔の資料には、関係者として名前が出ています」


「管理室の人?」


「分かりません」


女は続けた。


「でも、その名前を見たことがあります」


「どこで?」


「弟の古いノートです」


透は紙を見た。


「二つの名前とは別?」


「別です」


「N―07は?」


「あります」


透は黙った。


また一つ増えた。


名前。


N―07。


それだけなら、まだ何も分からない。


「その名前は、どんな位置にありますか」


「ページの端です」


「他には?」


「日付があります」


「いつ?」


女が日付を伝えた。


透はメモした。


その日付は、弟が「見た」と書いた日の翌日だった。


「その日に、弟さんは何をしていましたか」


「会社にいました」


「外出は?」


「記録上はありません」


透は少し考えた。


「じゃあ、その名前は翌日に追加された」


「はい」


「弟さん本人が書いたかは分からない」


「はい」


二人とも黙った。


しばらくして女が言った。


「一度、管理室の元職員を探してみませんか」


透は考えた。


昨日、建物の前で会った男。


「名前を変えることがあります」と言った男。


「ここから誰かを見ていた人間がいたとしても、見ていたことと、知っていたことは同じじゃない」


その言葉が残っていた。


「探すなら、元職員より先に、監視カメラを調べたいです」


「カメラ?」


「はい」


「何が分かる?」


「誰が誰を見ていたかは、分からなくても」


透は続けた。


「どこを向いていたかは確認できるかもしれません」


その日の午後、二人は再び建物の前に行った。


監視カメラは昨日と同じ位置にあった。


古い。


しかし、レンズはきれいだった。


電源も入っている。


女が見上げた。


「今も使われてる?」


「分かりません」


「またそれ」


「でも、本当に分からない」


透は建物の入口を見た。


カメラは入口を正面から映している。


その向きをたどると、


向かい側の道路。


さらにその先には、


旧会社の建物がある。


透は気づいた。


「このカメラ」


「何?」


「建物だけを見ているわけじゃない」


女も視線を動かした。


「会社も映る?」


「角度によっては」


二人は道路の反対側まで移動した。


そこから見ると、カメラの位置と旧会社の入口がほぼ一直線になっている。


透はスマートフォンで写真を撮った。


「弟がここから見ていたなら」


女が言った。


「会社の出入口も見える」


「はい」


「でも、だから何?」


「分かりません」


女は少し笑った。


「また?」


「はい」


二人は近くのベンチに座った。


透は写真を見ながら考えた。


「見るだけ」という言葉。


弟が見たのは建物ではなく、


この建物から見えるものだった可能性もある。


だが、それも仮説。


そこで、女のスマートフォンが鳴った。


元同僚からだった。


女が電話に出る。


数分後、電話を切った。


「どうだった?」


「一つ、変なことを思い出したそうです」


「何?」


「弟があの建物を見に行った日、元同僚も会社の外にいたそうです」


透は顔を上げた。


「同じ時間?」


「正確には分からない」


「何をしていた?」


「管理室から封筒を受け取る前です」


透は黙った。


「その時、元同僚は誰かと一緒だった?」


「一人だったそうです」


「では、弟も一人?」


「そこが分からない」


女は続けた。


「元同僚は、弟を見たそうです」


透は少し驚いた。


「会社の外で?」


「はい」


「話した?」


「話していない」


「弟は?」


「弟も気づかなかったそうです」


透は考えた。


「どこから見た?」


女は答えた。


「この建物の近く」


透は目の前の建物を見た。


「元同僚は、弟を見ていた」


「はい」


「弟は、何かを見ていた」


「はい」


二人は黙った。


その瞬間、透は昨日の男の言葉を思い出した。


見ていたことと、知っていたことは同じじゃありません。


そして弟の言葉。


見た人間と、見られた人間は違う。


透は立ち上がった。


「少しだけ、歩きましょう」


「どこへ?」


「弟が立っていた場所を確認したい」


二人は建物の裏側へ回った。


元同僚の記憶によれば、弟は建物の角に立っていた。


そこから旧会社の入口が見える。


しかし、入口だけではない。


二階の窓も見える。


さらに、管理室へ続く古い通路の入口も見える。


透は立った。


「ここなら、三つ見えます」


「三つ?」


「会社の入口」


「管理室への通路」


「それと……」


透は二階の窓を見上げた。


カーテンが少し開いていた。


「部屋の中」


女も見上げた。


「誰かいる?」


「分かりません」


しばらく待った。


カーテンは動かなかった。


透は写真を撮った。


その時、女が言った。


「弟は、ここから誰かを見ていたんでしょうか」


透は答えなかった。


代わりに、地面を見た。


建物の壁際に、小さな金属片が落ちている。


拾い上げる。


古い鍵ではない。


薄い金属プレートだった。


表面に傷がある。


そこには、小さく数字が刻まれていた。


07


透は女を見る。


「N―07?」


女もプレートを見る。


「Nはない」


「そうですね」


裏返す。


裏側には何もない。


透はそれをそのまま持ち帰ることにしなかった。


近くの交番に届けることもしなかった。


ただ、写真だけを撮った。


その理由を自分でもうまく説明できなかった。


番号があるからといって、


それがN―07の一部だとは限らない。


この建物に落ちていたからといって、


弟が使っていたとは限らない。


ただの部品かもしれない。


誰かが捨てたものかもしれない。


何の意味もない可能性もある。


だからこそ、


今は写真だけで十分だった。


帰り道、女が言った。


「最近、何かを見つけても、すぐに拾わなくなりましたね」


透は少し考えた。


「拾うと、それだけで意味を持たせたくなるから」


女は黙っていた。


「手元に置くと、どうしてもつなげたくなる」


「だから写真だけ?」


「はい」


「でも、いつか必要になるかもしれない」


「その時は取りに戻ればいい」


女は小さく笑った。


「前より慎重になりましたね」


透は答えなかった。


慎重になったのかもしれない。


それとも、


決めることを急がなくなっただけかもしれない。


駅に着いたところで、白石から電話が来た。


透は少し迷ってから出た。


「もしもし」


「今、どこにいる?」


「駅です」


「昔の建物へ行った?」


透は黙った。


白石は続けた。


「行ったんだね」


「はい」


「何か見つけた?」


透は少し考えた。


「まだ分かりません」


電話の向こうが静かになった。


「そうか」


白石はそれだけ言った。


「一つ聞いていいですか」


「何?」


「昔、あの建物を使っていた人を知っていますか」


白石はすぐには答えなかった。


「知っている」


透の手が止まった。


「誰ですか」


「名前を言っても、君には意味がないと思う」


「それでも知りたいです」


白石は少し間を置いた。


「その人は、名前を二つ持っていた」


透は何も言えなかった。


「どういう意味ですか」


「本名と、仕事上の名前だ」


「同じN―07?」


白石は答えなかった。


「白石さん」


「今日は、それ以上話さない方がいい」


「なぜ?」


「まだ、君が何を見たのか分からないからだ」


電話が切れた。


透は画面を見つめた。


今度は、


白石が何を知っているのかではなく、


白石がなぜその情報を今まで話さなかったのかを考えた。


だが、それもまだ分からない。


透はスマートフォンをしまった。


そして、駅の階段を上った。


その途中で、ふと気づいた。


白石は、


「その人は、名前を二つ持っていた」


と言った。


「同じ名前を使う人間が複数いる」とは言わなかった。


名前を二つ持っていた。


その言葉だけが、


妙に残った。

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