第四十四章 見た人間
翌朝、透は二つの言葉を書いた。
「見るだけ」
「見た」
その下に、それぞれの日付を書く。
どちらも、弟が南区へ行く前。
どちらも、具体的な相手は書かれていない。
透はしばらく考えてから、女に電話をかけた。
「予定表の原本を見せてもらえますか」
「はい」
「できれば、前後のページも」
「分かりました」
昼過ぎ、二人は駅近くの小さな喫茶店で会った。
女は封筒から予定表を出した。
「これです」
透はページを一枚ずつ確認した。
「見るだけ」と書かれた日。
その前後の日。
そして「見た」と書かれた日。
「この二つ、同じ人が書いたと思いますか」
女は文字を見比べた。
「分かりません」
「筆跡は似ています」
「でも、弟の字に似せることもできます」
透は頷いた。
「そうですね」
「最近、本当に何も信用できなくなります」
「信用できないというより、確認できないことが増えたんだと思います」
女は少し考えた。
「同じこと?」
「違うと思います」
透は紙を指した。
「信用するかどうかは、自分で決められます。でも、確認できないことは、自分だけでは決められない」
女は黙っていた。
透は予定表をめくった。
「この日、『見た』の後に何か変化はありますか」
「特にありません」
「会社も?」
「同じです」
「勤務時間も?」
「ほとんど同じです」
「南区へ行く準備を始めた形跡は?」
「ありません」
透は頷いた。
「じゃあ、その時点では、南区とは別のことだった可能性が高い」
女は少し驚いたように透を見た。
「高い?」
「少なくとも、まだ一緒にしない方がいいと思います」
その時、女のスマートフォンが鳴った。
元同僚からだった。
女は電話に出た。
短いやり取りの後、電話を切る。
「何か分かった?」
透が聞く。
「元同僚が思い出したそうです」
「何を?」
「弟が『見るだけ』と言っていた日のことです」
女は少し黙った。
「弟は、誰かを見に行ったんじゃないそうです」
「では?」
「場所を見に行った」
透は予定表を見た。
「どこ?」
「元同僚は、旧会社の向かい側にある建物だと言っています」
透は顔を上げた。
「建物?」
「昔は事務所だったそうです」
「今は?」
「使われていません」
透は考えた。
会社から徒歩数分。
二十五分の外出時間。
そして「見るだけ」。
そこまでなら、つながる。
しかし、まだ一つ足りない。
「その建物に、何があるんですか」
「元同僚も知らないそうです」
女は続けた。
「ただ、弟が一度だけ言っていたそうです」
「何と?」
「『あそこから、人を見ている人がいる』」
透は黙った。
それは、以前聞いた言葉と似ていた。
管理室を訪れていた人間。
名前札を見る人。
封筒に名前を書く人。
誰かを待つ人。
見る人。
見られる人。
透は立ち上がった。
「行きましょう」
女も立ち上がった。
旧会社から少し離れた場所に、その建物はあった。
三階建て。
窓には紙が貼られている。
入口は閉まっていた。
建物そのものは古い。
しかし、完全に放置されているわけではなかった。
一階の郵便受けだけ、新しい鍵がついている。
女が近づいた。
「誰か使ってる?」
「分かりません」
透は建物を見上げた。
二階の窓。
カーテンが閉まっている。
三階は何もない。
「弟はここを見た?」
「そうだと思います」
「誰かを見ていた?」
「それも分かりません」
二人は入口の前に立った。
その時、建物の横から一人の男性が出てきた。
年齢は五十代くらい。
手には小さな紙袋。
二人を見ると、一瞬だけ足を止めた。
そして、軽く会釈した。
「こんにちは」
女が挨拶を返した。
男性はそのまま通り過ぎようとした。
透は声をかけた。
「すみません」
男性が振り返る。
「何でしょう」
「ここは、まだ使われていますか」
男性は建物を見た。
「時々」
「何のために?」
「分かりません」
「あなたは?」
「私は掃除をしています」
「管理している?」
「そういうわけではありません」
透は紙袋を見た。
「何かを届けに?」
男性は少しだけ笑った。
「違います」
「では?」
「取りに来ただけです」
その言葉を聞いて、透は黙った。
取りに来た。
誰かが何かを置き、
誰かが取りに来る。
それだけなら普通のことだ。
「ここに、昔の会社の資料はありますか」
男性は答えなかった。
「人の名前が書かれた資料です」
男性は透を見た。
「どうして、それを?」
「探している人がいます」
「誰を?」
透は答えなかった。
男性も、それ以上聞かなかった。
しばらくして、男性が言った。
「名前を探すなら、ここじゃない方がいいですよ」
「なぜ?」
「名前は、ここには長く残りませんから」
透は男を見た。
「どういう意味ですか」
「人が変わると、名前も変わることがあります」
女が聞いた。
「名前を変える?」
「そういう意味ではありません」
男性は首を横に振った。
「同じ名前でも、別の意味になることがあります」
透は息を止めた。
以前、元同僚から聞いた言葉と似ている。
「N―07を知っていますか」
男性の表情が変わった。
今度は、透にもはっきり分かった。
「……昔の番号ですね」
「どういう番号ですか」
「ここでは使っていません」
「では、知っている?」
「昔、聞いただけです」
「誰から?」
男性は少し考えた。
「管理室にいた人からです」
「その人は誰ですか」
「もういません」
「辞めた?」
「そういうことです」
「どこへ行ったか分かりますか」
男性は首を横に振った。
「分かりません」
また、分からない。
だが、今回はそれだけでは終わらなかった。
男性は帰ろうとしてから、振り返った。
「一つだけ言っておきます」
透と女が見る。
「ここから誰かを見ていた人間がいたとしても、見ていたことと、知っていたことは同じじゃありません」
透はその言葉を聞いた。
それは、弟の言葉に似ていた。
見た人間と、見られた人間は違う。
男性はそれ以上何も言わず、歩いていった。
女が小さく言った。
「今の人、何か知っていると思う?」
透はすぐには答えなかった。
「知っているかもしれない」
「でも?」
「知らないことも、同時にあると思います」
女は黙った。
二人は建物を見上げた。
「見るだけ」。
弟が見たのは、この建物だったのかもしれない。
しかし、
何を見たのか。
誰を見たのか。
何を確認しようとしたのか。
まだ分からない。
透は建物から目を離した。
そして、道路の向こう側を見る。
そこに、古い監視カメラが一台あった。
建物を監視しているようにも見える。
逆に、
建物から道路を見ているようにも見える。
透はカメラを見上げた。
女が言った。
「どうしたの?」
「分かりません」
「何が?」
透はカメラを見ながら答えた。
「誰が誰を見ているのか」
その言葉の後、
二人はしばらく何も話さなかった。
やがて女が言った。
「帰りますか」
透は頷いた。
「はい」
建物の中には入らなかった。
今は、それでよかった。
見ることと、入ることは同じではない。
知ることと、確認することも同じではない。
そして、
見たことと、
見たものを理解したことも、
同じではない。
透は歩き出した。
背後に残った建物を振り返らなかった。




