第四十三章 見るだけ
「見るだけ」
その四文字を、透は何度も見た。
弟の古い予定表。
南区へ行く八日前。
その日の欄だけに一本の線。
そして、その横に小さく書かれた言葉。
「見るだけ」
誰を見るのか。
何を見るのか。
どこで見るのか。
何も書かれていない。
透は写真を保存した。
それから女に電話をかけた。
「この予定表、弟さんが自分で書いたものですか」
「たぶん」
「たぶん?」
「予定表自体は弟のものです。でも、その文字が弟の字なのかは、確信がありません」
透は黙った。
以前なら、そこで筆跡を確認しようとしていた。
だが、今は少し違った。
「じゃあ、文字の持ち主は一度保留にしましょう」
「はい」
「重要なのは、そこに何が書いてあるかです」
女が言った。
「『見るだけ』」
「そうです」
「弟は、その日に誰かを見る予定だった?」
「可能性はあります」
「でも、見ただけかもしれない」
「はい」
「話す予定ではなかった?」
「そうとも限りません」
女が少し笑った。
「また分からないですね」
「そうですね」
二人は電話越しにしばらく黙っていた。
透は写真をもう一度見た。
予定表には、他の日にもいくつか予定が書かれている。
「出勤」
「買い物」
「会社」
「病院」
どれも具体的だった。
それなのに、この日だけ、
「見るだけ」
だった。
透は気になった。
「この予定表、弟さんは普段どこに置いていましたか」
「机の引き出しです」
「靴箱の封筒は?」
「靴箱の奥」
「別々の場所?」
「はい」
「じゃあ、弟さんは情報を一か所にまとめていなかった」
「そうかもしれません」
透はそこで、ふと思った。
「弟さんは、何かを探していた時、いつもメモを残す人でしたか」
女は少し考えた。
「残す時もあります」
「残さない時も?」
「あります」
「誰かに見られることを警戒していた?」
「分かりません」
少しして、女が言った。
「でも、昔から大事なことほど、簡単な言葉で書く癖がありました」
「例えば?」
「『見る』とか」
透は予定表を見た。
「なるほど」
「弟は、長い文章を書かないんです」
「じゃあ、『見るだけ』にも、本人にとっては意味があった?」
「そう思います」
電話を切った後、透は外へ出た。
向かったのは、旧会社の建物だった。
南区ではない。
管理室でもない。
弟が八日前にいた会社の周辺。
「見るだけ」という言葉から、具体的な場所を推測することはできない。
だから、透は予定表に残っている他の日付を調べることにした。
どの日に、
「見る」
という行動が書かれていたのか。
それだけを確認する。
古い勤務記録。
入退館記録。
配送記録。
透は一つずつ照合した。
しばらくして、奇妙な一致を見つけた。
八日前の日。
弟は通常の勤務時間内に会社にいた。
だが、昼休みの後、一度だけ建物の外へ出ている。
時間は十三時二十六分。
戻ったのは十三時五十一分。
二十五分。
たった二十五分だった。
透はその記録を見つめた。
外出理由は空欄。
その日の他の外出には理由が書かれている。
しかし、この二十五分だけは何もない。
透は受付記録を確認した。
退館。
入館。
それだけ。
誰と出たかは分からない。
どこへ行ったかも分からない。
透は建物の外へ出た。
十三時二十六分に、どこへ行けるのか。
徒歩なら。
駅なら。
近くの店なら。
管理室なら。
透は地図を見た。
旧管理室までは徒歩で約七分。
駅までは五分。
小さな公園までは三分。
どこへでも行ける。
二十五分という時間だけでは、何も決められない。
透は管理室へ向かうのをやめた。
代わりに、会社の向かい側にある古い喫茶店へ入った。
以前、弟がここに来ていたという記録はない。
それでも、周辺を知るにはちょうどよかった。
店主に聞く。
「すみません。以前、この近くで働いていた人について聞きたいことがあります」
店主は少し警戒した。
「どんな人?」
透は弟の名前を出さなかった。
「三十代くらいの男性です」
「それだけじゃ分からないね」
「八日前くらいに、この辺りで見かけた人です」
店主は考えた。
「八日前?」
「はい」
「昼過ぎ?」
「そうです」
店主は少し驚いたように透を見る。
「何人か来てるけどね」
「一人の男性です」
「仕事着?」
「分かりません」
「鞄は?」
「分かりません」
店主は首を振った。
「それじゃ、分からないよ」
透は帰ろうとした。
その時、店主が言った。
「でも、昼過ぎに店の前で立っていた人ならいたよ」
透が振り返る。
「どんな人ですか」
「若い男だった」
「一人?」
「最初は」
「その後は?」
「誰かを待っているようだった」
透の心臓が少し速くなった。
「誰か来ましたか」
「来たよ」
「男性?」
「女性だった」
透は何も言わなかった。
「二人で話した?」
「話してたね」
「どのくらい?」
「五分くらい」
「何を話していたか、聞こえましたか」
店主は首を振った。
「店の中だったからね」
「二人はその後、どこへ?」
「別れたよ」
「一緒には行かなかった?」
「行かなかった」
透は少し考えた。
「その女性は、どちらへ?」
「駅の方」
「男性は?」
店主は窓の外を指した。
「反対」
透は、その方向を見た。
旧管理室とは反対。
南区とも反対。
「男性は一人で歩いていった?」
「そう」
「その後は?」
「知らない」
透は礼を言って店を出た。
歩きながら、電話をかけた。
「今、少し聞きたいことがあります」
女が答えた。
「何ですか」
「弟さんは、南区へ行く八日前の昼、外出しています」
「どのくらい?」
「二十五分」
女は黙った。
「その日に、弟さんは誰かと会った可能性があります」
「誰?」
「まだ分かりません」
「女性?」
「そういう証言があります」
女はしばらく黙っていた。
そして言った。
「弟には、当時付き合っていた女性はいませんでした」
透は答えなかった。
「少なくとも、私は知りません」
「そこは重要ではないと思います」
「どうして?」
「会った相手が女性だったというだけです」
女は黙った。
透は続けた。
「それ以上の意味をつける必要はありません」
「……そうですね」
二人は少し歩きながら話した。
「その女性が誰なのか、調べますか」
女が聞いた。
透は少し考えた。
「まだです」
「なぜ?」
「『見るだけ』だった可能性があるからです」
「弟が?」
「はい」
「会ったのではなく、見た?」
「それも分かりません」
透は立ち止まった。
「でも、一つだけ確認したい」
「何?」
「その女性が、弟さんに会いに来たとは限らない」
女が黙った。
「弟さんが、その女性を見に行った可能性もある」
「……誰かを確認していた?」
「かもしれません」
透は電話を切った。
夕方、白石からまた連絡が来た。
何か分かった?
透は画面を見た。
しばらく考えてから、
まだ分かりません。
と返信した。
白石からすぐに返事が来た。
それなら、それでいい。
透はその文章をしばらく眺めた。
以前なら、その言葉に安心したかもしれない。
今は少し違う。
「それでいい」と言えるのは、
白石が何かを知っているからなのか。
それとも、
本当に何も知らないからなのか。
透には分からない。
だから、返信しなかった。
夜になって、女から新しいメッセージが届いた。
弟の予定表をもう一度見ました。
続いて写真が送られてきた。
昨日の予定表とは別のページ。
そこには、数日前の記録がある。
その日にも、一本の線。
横には、
「見た」
とだけ書かれていた。
透は画面を見つめた。
「見るだけ」。
そして、
「見た」。
二つの日付。
二つの言葉。
しかし、そこに人の名前はない。
透はゆっくりと画面を閉じた。
弟が誰を見ていたのか。
それはまだ分からない。
ただ、
弟が探していたのは、
必ずしも「人」そのものではなかったのかもしれない。
誰かが、
どこにいるのか。
誰が、
誰を見ているのか。
誰が、
誰として記録されているのか。
その関係そのものを、
弟は見ようとしていたのかもしれなかった。
だが、それもまだ、
仮説にすぎなかった。




